第20話『心当たり』
「殺して殺して殺して……」
羞恥のあまり、うわ言をつぶやき続けるクレアに、アッシュが慌てて駆け寄り、励ますように力強く言った。
「いえ、ですから、見てないと」
「いいんですって見たんでしょう私の顔! こーんな顔してたでしょう、こーんな顔!」
半分白目をむきながら、だらしなく口元を緩めてみせるクレアを見て、アッシュは言いづらそうに口ごもった。
「いや……その……」
「『いや……その……』なんです!? 言いたいことがあったらはっきり言えばいいでしょう!?」
開き直ったクレアに詰め寄られ、アッシュは進退窮まったように大量の冷や汗をかきながら、絞り出すように答えた。
「もう少し……ひどかったかと……」
「キィヤアアアア――!」
人語ですらない奇声を発し、床の上を転げ回るクレア。
明るく元気で、皆から好かれるギルドの看板受付嬢の面影は、もはやどこにもない。
哀れの一語に尽きるその姿に、アッシュは完全に絶句していた。
やがて、回転を止め、給湯室の片隅で横ざまに丸まったまま、クレアがぼそっとつぶやいた。
「……どうすれば、忘れてくれますか」
アッシュは考え抜いた挙げ句、真剣そのものといった様子で、
「……人の噂も」
「七十五日ですよね……2ヶ月半は忘れてくれませんよね……はあ……」
「いえ、いずれは忘れるから、気にしないでほしいと……」
「お気遣いなく……」
のっそりと起き上がったクレアは、アッシュとともに並んで給湯室を出た。
廊下を歩きながら、クレアは必死に思考を切り替えようとする。
(忘れるのです、クレア。忘れなさい……仕事に集中なさい……)
だが、あのレベルの痴態を見られたショックは、そう簡単に癒えるものではない。
クレアは平常モードに戻るのを諦め、強引に話題を変えることでアッシュの注意をそらそうとした。
「そういえば、さっきマチルダさんが急に謝ってきて」
「それは、珍しいことも、あるものですね」
「そうなんです。何事かって思ったら、『いつも迷惑かけてごめんなさい』『もういびりはやめます』って。頭でも打ったのかと思っちゃいました、あはは」
「それはもう、こっぴどく打ったのでしょうね」
談笑しながら、さりげなくアッシュの反応をうかがっていたが、特に動揺する様子は見られない。
いつも通りの疲れたような顔をしているだけだ。
(まあ、さすがに?)
本当に吸血鬼なのに、このくらいのことでオタオタしていたら、とうてい社会に紛れて暮らすことなどできないだろう。
(ていうか、私、性格悪くない? 勝手にアッシュさんのこと疑って、揺さぶりかけたりなんかして)
あらぬ疑いをかけられれば、誰だって気分は悪くなるし。
懸命に隠している本性を暴かれようとしていたら、それこそ気が気でなくなる。
アッシュの正体が人間であれ、吸血鬼であれ、軽い気持ちで他人の素性を探るというのは、悪手でしかない。
(うん、こんなことするの、やめよう。探偵じゃあるまいし)
不死者探しなど、教会に任せておけばいいのだ。
一般人である自分が関わることはない。
そう思い、なんとか気を取り直して業務に戻ったクレアだったが、
「――では、よろしくお願いしますね」
「はい、承知しました」
アッシュに今日の仕事――馬小屋の清掃――について説明すると、彼はいつも通りお辞儀をしようとして、
「…………」
なぜか、クレアの目を見ながら一瞬固まり、視線をクレアから見て右上のほうへそらす。
その後ふだんよりわずかに深く一礼して去っていった。
(ん~~~?)
ほかの人間なら、まず気づけないだろう違和感。
しかし、この街で、誰よりも多くアッシュの会釈を受けてきたクレアだからこそ、その不自然さを感じ取ってしまったのだ。
(なんでいま、一瞬迷ったの? なんか考えてた? いや、思い出してた? 目の動き的に。
それに頭の下げ方も変だった。わざと仕草を変えようとしてる感じ……)
と、そのとき、クレアの脳裏に二日前の光景が再来する。
◆ ◆ ◆
「着いたぞ」
「あ、ありがとうございます」
礼を言い、そっと地面に下ろしてもらう。
なんとか自分で歩けることを確認すると、クレアは今一度吸血鬼に頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。なんとお礼を言ったらよいか……」
「いや、いい」
すると、吸血鬼も半ば反射的になのか、お辞儀を返してくる。
あまりにも噂とかけ離れた仕草に、思わず吹き出しそうになるクレアだったが、
(あれ? 今のお辞儀の仕方……)
なんだか、見覚えがあるような気がして。
クレアは、頭の片隅に残っていた名前を、思わず口にした。
「アッシュさん?」
「…………」
しばらく固まっていた吸血鬼だったが、やがてぎこちなくクレアに背を向けた。
◆
(…………あっ)
ずっと欠損していたパズルの空白が埋まったことで、連鎖的にすべてのピースが、カチッカチッと音を立てて組み合わさっていく。
(吸血鬼の正体、マチルダさんの心変わり、お辞儀の違和感。
ほかの細かいもろもろも、アッシュさんが吸血鬼だとすれば、説明がつく……)
むしろ、ここまでくると、アッシュが吸血鬼でない根拠を探すほうが難しい。
(いやいや、それは不死者の証明だし。だいたい、アッシュさんは昼間でも平気で動けてるし――)
いや。
動けていない。
アッシュは右足の自由が利かず、太陽の下で長時間の作業ができない。
単に虚弱体質なだけだと思っていたが、こうなると見方が変わってくる。
(日光を浴びても、虚弱な人間と同程度には活動できる吸血鬼って、けっこう強いほうなんじゃ?)
少なくとも、クレアが知る吸血鬼の簡易な見分け方は、陽の光を浴びられるかどうかだ。
大多数の吸血鬼は、陽光に短時間さらされるだけで、即座に灰になってしまう低位のもの。
だからこそ、太陽を克服した強力な吸血鬼をあぶり出そうとする――たとえば、正体を現すまで、要するに死ぬまで炎天下に晒し続けるなどの――過激な試みが数多く存在するわけだが、それは置いておいて。
(となると、人面獅子や飛竜くらいなら余裕で倒せてもおかしくない……。
それに、吸血鬼による人間への被害報告は、今のところ挙がってない……)
マチルダを除けば。
(これは、もう……ほぼ、確定では?)
ごくり、と生唾を飲み込むクレア。
いつの間にか、背中にしっとりと汗をかいていた。
(……どうしよう)
教会に報告すべきだろうか。
いや、それは絶対にない。
クレアは吸血鬼と出会った夜のことを思い出す。
優しい声。
助けてくれたときの、腕の温もり。たくましさ。
(吸血鬼は――アッシュさんは、敵じゃない。人間の味方だ。たぶん)
吸血鬼に救われているのは、自分だけではない。
人面獅子を被害ゼロで討伐。
この功績一つをとっても、この街に住む者なら、誰しも一度は彼の恩恵を受けたことがあると言えるだろう。
しかし、一方で、完全にアッシュがシロと決めつけるのも早計だ。
なにせ、相手は超高位の魔族である。
街ひとつくらい、一晩のうちに滅ぼせる存在を、軽々しく『こうである』と推し量るのは、危険極まりない。
少なくとも、今の自分がするべきことではない、とクレアは結論づける。
(もう少しだけ、様子を見よう)
深く息を吐き、クレアは業務に戻った。
アッシュが、人間を守って生きている特別な吸血鬼なのか。
それとも、なにか別の目的を持っているのかどうか。
注意深く、慎重に観察していく必要があるだろう。
自分の判断が、この街の運命を変える可能性だってあるのだから。
良くも、悪くも。
「あの、クレア先輩」
「はいはい! うん、なに? どうしたの?」
考えごとに熱中していたクレアは、後輩から声をかけられ、慌てて笑顔をつくる。
話しかけやすさには定評がある、と自認しているクレアだったが、後輩の表情は、どこか緊張気味だった。
「その、頼まれていた仕事、終わったのでチェックお願いします……!」
「はい、ありがと。お昼までに見とくから、それまでは引き続き通常業務のほう、よろしく!」
意識して明るく振る舞うと、後輩はようやくわずかに笑みを見せた。
わかりました、と返事をした後輩の背中に、クレアはふと思いついて、聞いてみた。
「ねえ、私さっき、そんなに怖い顔してた?」
「あ……はい。ちょっと、お疲れ気味なのかな、と……」
「あー、やっぱり。ごめんね、ちゃんと息抜きして疲れも取らないとだ。
リサちゃんも、今週がんばろうね!」
笑顔で後輩とグータッチを交わし、心機一転、書類と向き合おうとした、そのときだった。
ギルドの大扉が開く音がした。
顔を上げると、そこには白い修道服に身を包んだ、一人の男が立っていた。
胸元には、翼を広げた天使が、蛇を剣で貫く図柄が輝いている。
「失礼する」
冷えた鉄を思わせる、低く冷たい声。
顔の下半分は赤い包帯で隠れており、年齢も判然としない。
ただ、唯一見えている鋭い眼光だけが、爛々と輝いていた。
「私は白翼教会異端審問局より派遣された、一級審問官エルンスト・フォン・シュターレン卿である。
ここクラウンヘイムに、吸血鬼が潜伏しているとの報告を受け、調査に参った次第だが――」
男ことエルンストは身を固くするクレアを、蛇のようにじっと見つめながら告げた。
「――なにか、心当たりは? クレア・ミラー嬢」




