君の名は白
少女はジャンの上着を命綱の様にして自分の体に巻きつけている。
そして、涙目で見上げた瞳は、青どころか菫色の瞳だった。
その幼気な瞳とほんの少し前の言葉で、彼女こそ暴徒たちに家族を殺されてきただろうことをジャンは受け入れ、アルビーナを弁解する言葉を飲み込んだ。
自分はアルビーナが殺戮者ではないことを知っている。
それでいいじゃないか、と。
いや、俺だけがアルビーナの真実を知っていればいいのだ、と。
「あなたが信じてくれるからいいのよ、ジャン。」
彼の考えを肯定するように、いつものアルビーナの言葉が彼の脳裏に蘇った。
ついでに、もう一つの真実の言葉も。
「私が人殺しであるのも真実よ。そうでしょう?」
アルビーナが笑みのまま殺戮を行った姿もジャンは知っている。
貧民街の人買いの家。
ギャングとして街を支配していた男達は、金になるものならば何でもなんでも手に入れ、何でも売り払い、何でも壊して来た。
ジャンは父親に売られたことで、自分の人生はそこで終わりだと思ってた。
怖いも何もなかった。
すでに人生に諦めていたのだから、これで終わりか、それだけだった。
だが全てを諦めた彼の前に、神ではなく魔女が現れた。
竜巻が襲ったようにして、ギャングの住処を粉々に壊し、自分に剣や銃、あるいは攻撃魔法を放った人間を一瞬で火柱に変えたのである。
ジャンは怖くはなかった。
自分も一瞬で火柱になれば苦しみが終わるのかな、そう思った。
気が付けば魔女の前に出ていた。
少女はジャンに向けて手を伸ばした。
ジャンは何て綺麗な少女なんだろうと思いながら、少女の真っ黒いが不思議にローズ色を纏う美しい瞳を見つめた。
二人はしばし見つめ合った。
そこで少女は何かにハッとした様にして目を見開き、呟いた。
ジャン、と。
彼は、そうです、と答えていた。
死んだ母が名付けてくれた名前は、ヤンではなくジャンと読むのだから。
少女は伸ばした手でジャンを掴んだ。
ぎゅんと引っ張られ、気が付けば広大な敷地を持つカンターレ侯爵家にいた。
瞬間移動していたのだ。
ジャンは、ハッとした。
どうしてあの日のアルビーナは自分を瞬間移動させることが出来たのに、あの日のアルビーナは魔法陣の中で息絶えたのか。
なぜ戦おうとしなかったのか?
「ビアンカ!ビアンカ!君は大丈夫だったか!ああ、君は無事だったか!」
「お父様!この方が助けて下さったの。ヤン様。ああ!噂通りのヤン・ヘルツォーク様が助けて下さったのよ!」
ジャンはもの思いからハッと覚めた。
目の前では少女を助ける前に助けた中年男性が、ジャンに助けられたばかりの少女を抱き締めていた。
その男はゆっくりと顔を上げ、一瞬だけジャンを恨みがましい目で見た。
娘と同じ金髪の巻き毛で菫色の瞳をした男で、ジャンは見覚えがあるようなないような感覚になりながら見返した。
すると男はさらに眉間の皺を深くして、ジャンをじろじろ見つめるのである。
娘を助けない方が良かったのか?
ジャンは面倒になって踵を返した。
「動けるのならば急ぎましょう。追撃があったら大変です。」
「待て。」
ジャンは足を止めて振り返った。
「何か?」
「カンターレ女侯爵の犬だった君が、どうして彼女への反逆とも取れる行動を取っているのかわからない。何が目的だ。貧民育ちの奴隷だったと聞いている。君の目的はルビータの階級の破壊と魔人の殲滅か?」
ジャンは、あ、と呟いていた。
貴族院の生まれながらの文官、理想主義ながら民衆よりの人物だった、ケヴィン・アーレ、ローデリカ伯爵ではないか、と。
「ケヴィン卿、でしたか。あなたこそ民衆に守られる立場かと思いましたが、一体どうしてご領地ではないこんな所までいらっしゃったんですか?」
「君がヤン・ヘルツォークだと知っていたら、私はここまで来なかった。アロイス卿がカンターレ侯爵家を掌握されて、なぜ敵対していた君がヘルツォークとなってここにいるのだ!」
人を平等に見て人が好いと有名だったはずの伯爵は、貴族院ではジャンに一度も絡んでは来なかった人だとジャンは思い出していた。
「お嬢様は変わられた。なぜか知らないけれど変わられました。それはヤン様にお会いしたからでしょうか。」
執事のコンラートの言葉が急に思い出された。
ジャンは今のアルビーナしか知らない、と執事に答えると、執事は目を細めて嬉しそうにしながらさらに言葉を続けたのだ。
「人を人と見られるようになりました。階級の差などで態度を変えることなく、人は人としてご覧になられます。公爵だろうと奴隷だろうが、気に入らない奴は気に入らない、好きな人は好き、そんな風にお変わりになられましたよ。」
ジャンはコンラートの言葉の意味を思い返しながら、自分の領地から逃げるしかなかったらしい目の前の男を見返した。
それで気が付いた。
この男は偽善者だと。
人の上に立っていると思っているからこそ、下々への情けをかける事が出来るが、その下々が同じ位置に立つのは許さない、そんな人間でしかないのだと。
「ご心配なく、伯爵様。ヤン・ヘルツォークは正当さを大事にします。アロイス卿を幽閉から解き放ったのは彼でございますよ。」
ジャンは自分の横に幽霊のように現れた男を横目見た。
バールは契約の悪魔そのものの顔で笑みを作っている。
ジャンは彼に全部任せてしまえと、そのまま歩きだした。
「ヤン!お嬢様をまず安全な所に連れて行って。ビアンカ様。さあ、お手をどうぞ。我が隊もヤンも気が利かない男ですいませんね。まだ若いからでしょうか。」
「い、いいえ。でもご迷惑では。」
「大丈夫です。私はあなたのお父様とお話がありますからね。」
そこで伯爵とその娘の悲鳴が上がった。
神の御業を見た人間の感嘆の悲鳴だ。
ジャンはうんざりしながら、バールに手を差し出した。
この単なる金の亡者なのか世界の破壊を企んでいる悪魔なのかわからない男は、ジャンの手に自分が受けている白い手を手渡して来た。
バールの回復魔法によって殴られた顔から傷が消えた、今や幸福そうに金色に輝く美しき少女の手である。
「ヤン。この方も白というお名前だ。大事に扱いましょうね。」
ジャンはビアンカの手を素直に受け取り、しかし、バールには歯噛みした顔をして見せた。
自分はいつだってお前の手からは飛び出してやれるぞ、そんな意思を込めた表情であったが、バールは軽くウィンクして返しただけだった。
「てめえ。」
「不幸を癒すのは幸せになることだ。」
ジャンはバールなど消えてしまえと言う風に振り返ると、小さく感じる少女の手を支えながら歩きだした。
彼が一緒に歩きたい人はどこにもいないが、その空っぽな場所は誰にも埋めさせたくはないのだと思いながら。




