停留所での私とウッツ
お読みいただきありがとうございます。
結局一日二話あげています。
停留所にて馬車が止まると、乗客達は一斉に馬車を降りた。
二時間閉じ込められて揺られた乗客は、新鮮な空気を欲するものであり、生理的現象を解消せねば次の二時間に耐えられないからである。
オスカーは当たり前のように私を抱きながら馬車を降り、私が頼んでもいないのに公衆トイレの前にまで運んでくれた。
出るものも出なくなってしまいそうな、悪臭が立ち込める汚れ切ったトイレで逃げ出したいが、私にはトイレで無い場所で汚水を体から出してしまうなんてことなど、他の乗客がするようにできもしない。
「安心してください。私がここにいます。」
目の前の汚いトイレ事情よりも切迫したトイレ事情が出現した。
私はオスカーに顔を向けると、いなくてもいいわ、と笑顔で言った。
「何をおっしゃいます。ほんの一瞬の気のゆるみが人生を変えるのです!」
一瞬の気のゆるみが欲しいのよ、トイレでは!
出している時の音を聞かれたらと思うと嫌なのよ!
私は何を言っても揺るぎそうもない男と言い合うことを諦めた。
そこで言いたい事を全部のみ込むと、素直にトイレに入った。
実際に私の膀胱は限界だ。
「鍵は閉めないでください。いざという時に私が開けられないと困ります。」
「いざという時に開けられたら私が困ります!」
あ、ドアの前で若々しい青年の笑いが弾けた。
私がお尻をまる出しにしている所でも想像したのだろうか?
全く。
そして私は所用を済ましたのだが、ドアを再び開ける時にはドア前に立つ朴念仁への復讐も思いついていた。
「では、停留所の休憩所にご案内します。」
「いいえ。一人で休憩所であなたを待つのは怖いわ。だからここで待ちたいの。さあ、あなたこそトイレを済ませてしまってちょうだい。」
オスカーは頬骨のあたりを赤く染め、いつものように言い返して来た。
「ですが!」
「鍵を閉めなければ、私の一大事にはすぐに駆け付けられるのでは無いかしら?」
「私が、いざという姿で出て来てもよろしいのでしたら!」
だめだ。
私は吹き出して笑ってしまった。
するとオスカーも笑い出し、でも、すぐにはにかんだような顔となって笑いを打ち消した。
「あなたは意地悪だ。」
「いいえ。同じ経験をして欲しいだけよ。さあ、早くトイレに入って!」
オスカーはトイレに入った。
私は仕返しだという風に聞き耳を立てていると、なんと、酒場で聞くような調子がよいが調子の外れた声で、彼は歌をがなり始めたのである。
「ああ!その手があったのね!」
トイレの中は歌が途切れて、次には大笑いの声と変わった。
そして次にオスカーが姿を現わせたときは、それはもう、憎たらしい事この上ないしてやったりの勝利感に溢れた顔付であった。
「待たせてすいません。ペルレ。」
「よくってよ。さあ、休憩室に戻りましょう。悪辣うさぎちゃん。」
「ハハハ。では、私に腕を。」
「いいえ。腕を貸してくれるだけでいいわ。休憩所まで歌を歌ってくださる?あなたの歌声を聞きながら歩きたいの。」
オスカーは左腕を差し出し、私はその腕に自分の右手を絡めた。
それからオスカーを見上げたのだが、彼はほんの少しだけ唇を尖らせた顔つきとなっていた。
「あなたは意地悪だ。」
「あなたの歌で楽しい気持ちになれたのよ。嫌かしら?」
「私はあなたの歌声を聞いた事が無い。」
「だって私は音痴よ?誰にも歌なんか聞かせた事なんか無いの。」
オスカーは私に顔を向けた。
とっても嬉しそうな顔で。
「私をその最初の人にしてくれますか?」
「笑わないって約束して下さるなら。」
「約束します。アルビーナ。」
オスカーの水色の瞳は晴れ渡った空のようだった。
誰もいない空の下に一人であれば、前世の私だって下手くそな歌をがなり立てたりもしていたのだ。
いいえ、柴犬ジャンと一緒の時は、だった。
柴犬は犬でしか無いから、下手な歌なんか聞き流してくれた。
でもジャンは、ジャンの前では、私は歌なんか歌った事なんか無かった。
私は自分が音痴な姿を、どうしてジャンに隠しちゃったんだろう。
私の全てを彼に私は教えていないかったじゃないの!
いいえ!
ジャンが歌が上手な人かも、私は知らないままなのよ!
二度と知ることも出来ないのよ!
「アルビーナ。」
オスカーの心配した声に私はハッとした。
私はオスカーを見つめていながら、オスカーを見てはいなかったと、悲しそうな顔に変わっていたオスカーの顔を見て申し訳なく思った。
「ごめんなさい。ぼうっとしてしまいました。」
「いえ。私こそ出過ぎた真似をして、あの。」
私はオスカーがこれ以上謝らないように、そっと左の手の平を見せた。
オスカーは言葉を止め、私を見返した。
「いいの。音痴を知られてた後の事を考えて途方にくれちゃっただけ。よし、歌うわよ。その代わり、あなたもちゃんと歌うのよ。私がリクエストしたのをね。」
「その歌を私が知らなかったら?」
「あ、そうか。」
「じゃあ、恥ずかしがりの音痴同士、一緒に歌いませんか?間違えようのない、列車は行く、でも。」
私は吹き出して笑っていた。
そうだ、トイレの中でオスカーが歌っていたのは、シュシュポポシュシュシュというフレーズで子供達に人気の歌だったではないか、と。
「いやだ!分らなかった。嬉しいわ!私よりも音痴がいる!」
「ひどい。では、シュシュポポシュシュシュと汽車はいく~。」
「シュシュポポシュシュシュと汽車はいく~。」
たったワンフレーズで、私は崩壊してしまった。
四日間、私は泣いていなかった。
涙なんか出なかった。
それなのに、今、子供の歌う歌を一声歌っただけで、ジャンを完全に失ったのだと思い知らされて涙が出るなんて!
「アルビーナ。」
「う、ああ。ごめ、ごめんなさい。」
私は温かい胸に顔を押し付けていた。
オスカーがそうなるように私を抱き締めたから。
「ごめんなさい。あなたを手放せなくてごめんなさい。」
「構いません。このまましがみ付いていてください。俺には家族なんてありません。俺こそあなただけなのだから。」
「だけど、私と一緒に死んでしまうかもしれないのよ?」
「それはありません。俺があなたを殺させはしない。」
私はオスカーの胸から顔をあげて、彼の顔を見返した。
彼は私だけを見つめていた。
大丈夫だという風に微笑んでもいた。
私は再びオスカーの胸に顔を埋めた。
だって、涙が止まらない。
オスカーは自分は死なないって約束をしなかった。
それって、私の為に一人で死ぬってこと?
ジャンみたいに!




