ネロと家族
たいへん間が空いてしまい申し訳ありません
「……でも、少し心配なの。ネロと一緒にいると、どうしても愛らしさに顔が緩んでしまって……。淑女の微笑みを保たなくてはいけないのに」
溜息を零すエリザベスの頭を、ダンテスが微笑んで撫でた。
「部屋の中でなら、少しくらい崩しても構わないと私は思うよ。王妃殿下だって自室では寛いでおいでの筈だ」
以前から幾度か言っている事だが、エリザベスはどうも真面目なだけではなく少々不器用だった様で、自室でも緊張をほぐせていない事はアンナからも良く聞いている。
こうしてこの居間で語らっている時は昔のままの明るくて朗らかな少女なのだが、エイダやメラニー、他の護衛達が付き従う自室では、茶会や王宮に赴いた時と同じように完璧な淑女を貫いていた。
王妃教育、王太子妃教育共に厳しい物ではあるが、それでも自室内において息を抜く事を否定するまでのものではない筈なのに、と思うが、彼女を引きずり落としたい連中の事を考えれば、あくまでも王宮に雇われている侍女や護衛達の前で気を抜いてはいけない事も確かだ。
実際ダンテスやフランツも彼女らを一定以上信頼する事はないし、使用人達にもうかつな言動はしないよう厳しく言い渡してある。
高位の貴族であれば大なり小なり持っている探られてはならないものについては彼らが決して立ち入る事の出来ない場所に厳重に保管されていた。
勿論王家も各貴族家のそうした部分についてはある程度把握した上で気付かぬふりをしているから敢えて探りに来るような事は無いだろうが、万が一目に触れれば彼らも報告せざるを得ない。
それは王家にも公爵家にも、双方にとって不利益となるので、彼らの方も踏み込まず、こちらからも見せない様上手く取り計らっていた。
今、公爵邸に迎え入れている者達については同派閥であり、敵対派閥とかかわりが無い事が確定している者ばかりだが、最初の選考時には幾人か敵対派閥の息が様々な形で掛かった人間が混じっていて、それを徹底的に排除するのに随分と金と時間をかけている。
採用した者達はしっかりと身元も人格も係累、友人関係に至るまで徹底的に調査し、その家族まで安全を確保した状態だから間諜の様な真似や無意味に不利な報告はしない。
選別の際に出来るだけエリザベスに好感か同情を抱きそうな人間を選んだ事もあり、侍女や護衛達は最初こそ他人行儀だったが今はエリザベスを気遣って監視の緩和を奏上してくれる程に大切にしてくれる様になった。
しかし、やはり彼らの主は王宮だから、有利も不利も無く、あるがまま、見たまま、聞いたままの全てを王宮に報告する義務がある。
その報告内容をどう使うかは聞いた側の考え一つで変わり、例えば私室で零したたった一言の弱音や愚痴も報告されるから、それを過大解釈して不適格、淑女らしからぬと引き摺り下ろされる可能性があった。
婚約者を外れる事自体は本音を言えば構わないが、不適格者として婚約者では無くなった場合、エリザベスの人生が滅茶苦茶にされてしまう。
場合によっては学園にも入学出来ず、まともな結婚も難しくなる。
傷物として様々な場所で無礼な扱いをされ、公爵令嬢として有り得ない様な縁談を強引に持ち込まれる事も増えるだろう。
貴族の令嬢がそれより高位の相手に破棄されれば、それよりも下位の男達、或いは同格や高位でもあまりに難があり過ぎる男達がそれこそ雲霞の様に群がるのが常だった。
所詮傷物、と、その令嬢が無理矢理汚されても相手が難ありの同格以上なら抗議する事すらせず嫁がせる家が多いから、傷のついた、しかし家や本人に価値がある令嬢は早い者勝ちとばかりにひどい目に遭わされる事が多々ある。
中にはそれを期待して傷心の娘を強引に夜会に出席させた上、付添人に敢えて目を離させる様な家すらあるのだ。
傷がついて良縁の望めない娘に、難はあれど同格以上の男が付くなら、それも汚されたのならば持参金も不要で上手くすれば賠償金も取れる、と突き放される令嬢は実際に存在している。
更に言えば、引きずり落とそうとする者達は引きずり落とした後、二度と相手が舞台に上がれない様、深い傷を付ける事を忘れたりはしないのだ。
そういった、レリック公爵家でも易々と手を出せない相手に守られた下劣な男達が何をしようとするか、想像するだけでも腸が煮えくり返る。
まだ十三ながら優秀で美しく、そして公爵家の娘であるエリザベスにも当然そういったおぞましい目が向けられるのは確実だった。
勿論全力を挙げて守るが、エリザベスが名誉を損なわれる事無く自由の身になる為には他の貴族からの横槍や計略で婚約者を外れる訳にはいかない。
横槍では無くとも婚約を白紙にすれば醜聞になるが、それでも傷の程度が違うのだ。
その為にはあと五年、十八になるまでに慎重に事を運ばねばならない。
父の隣に座り、反対側に座る兄と共に昔と変わらぬ微笑みで猫をじゃらして遊ぶ愛娘を今すぐにでも自由にしてやりたい気持ちをぐっと堪えて、妻によく似た色の髪を優しく撫でる。
撫でられたエリザベスはきょとんとした顔でこちらを見上げ、嬉しそうに微笑んでから父の手に頭をすりつけた。
その表情はここしばらく見た中でもとりわけ明るく輝いていて、顔立ちは少々不細工だがこの仔猫のおかげとなれば感謝しかない。
屋敷の主治医は医師としては人間専門だが、マリーを長生きさせる為に研究費の加算を餌に猫の医療についてもしっかりと学ばせているから、改めてネロと名付けられた仔猫の健康管理を命じなければ、と思いながら、エリザベスの膝で猫じゃらしにしがみつく猫の背を撫でる。
撫でられた猫はあまり……いや、かなり生気の感じられない目でダンテスを見上げると、ぷにゃあ、と鳴いた。
やはりあまり愛らしいとは言い難いが、辛うじて個性と言える範囲で異常な姿という訳でもないし、見慣れてくるとそれなりに愛嬌も感じられる気がする。
何より、見ている限り遊んでいてもエリザベスの手に爪を立てたりする事は無いし、勢い余って離れた場所に飛んだ玩具は身軽……とは言えない動作ながら拾ってエリザベスの元まで運んで来るので、頭も良いらしい。
マリーとの相性も良かったと言っていたし、とても良い出会いだったのだろう。
先日アンナ伝いに知らされた情報に沿って行っている根回しが終われば、私室での言動、邸内でも他家の人間を招いた茶会などを除いた私的空間での行動は報告される事がなくなる。
まだ未確定の情報ゆえ、エリザベスに伝える事は出来ないのだが、監視が緩むタイミングと仔猫を迎えたタイミングも悪くない。
エリザベスの性格を考えれば、監視が緩んだからといって容易く態度を変える事は難しいだろうが、そこに仔猫が加われば、心も表情も自然とほぐれていく可能性が高い。
出来ればもう少し活発な猫ならば良いのだが、最初からずっと大人しかったマリーに比べるとまだ遊ぶ動きに勢いがあるし、妙に撫で心地の良い背中を無意識に撫でているダンテスの手にも爪を立てずにじゃれかかって来る程度には元気がある様なのでどうにかなると思われた。
軽くひらつかせた手に飛びついて来たのでマリーに時々やっていたように首回りを指先で掻いてやると、小さいくせに一人前に喉を鳴らして気持ち良さげな顔をする。
こうして接していると確かに愛嬌があり、思わず笑みを浮かべたダンテスが視線を感じてそちらを見ればエリザベスとフランツがじっとこちらを見ていた。
「……なんだい」
「なんでもないわ。でも、お父様もネロを気に入ってくれたみたいで、嬉しいの」
うふふ、と嬉しそうに微笑む天使のような愛娘に、苦笑して頷く。
「うん。最初はまあ……変わった顔の猫だと思ったけれどね、こうして懐いてくれると可愛いく感じてくるものだ」
「解ります、父上。あと、この猫、なんというか……不思議な弾力感があって触り心地が凄く良いんだよね」
手を伸ばし、ダンテスの膝の上で転がっているネロを撫でたフランツの言葉に笑って同意した。
「マリーとはまた違う感触だが……他の仔猫もこんな風なのかい?」
仔猫に触れるのはこれが初めてだったので問うと、エリザベスは首を傾げる。
「……他の子とは少し違うかも。おでぶさんではないと思うのだけど、ふくよかな猫ちゃんとも少し違うのよね。でも、とても気持ちいいのは同意だわ。ずっと撫でていられそうなんですもの」
言いながらエリザベスもネロを撫で、三人がかりで撫でられたネロはゴロゴロと喉を鳴らしながらあくびをした。
そのまま自分の前足を毛繕いし、時々軽く噛んでは再び舐める仕草が、小さいながら一人前の猫と同じ動きでなんとも微笑ましい。
新たに家族となった仔猫を囲んだ団欒は常よりも更に和やかな空気のまま、ゆっくりと過ぎていった。
お読み頂きありがとうございます。
繁忙期&残業がなかなか倒せない上に休日が全部出勤になってしまい……書く暇が捻り出せません。
すみません。
12月上旬位までのろのろ更新になるかと思います。
エタりはしないと思うので今しばらくお待ちください。
ネロ君はもちもちボディです。餅が存在しない国なので「何か気持ちいいけど不思議な感触」と思われていますが日本だと「かしわ餅だ……」と思われるかもしれません。
評価、ブクマ、感想などいつもありがとうございます。
明日はもう一本の方が多分更新できそうです。よろしくお願いします。




