第二十九話
「私こっちなので」
信号を渡るとちーちゃんさんは右方向を小さく指さした。
俺は左方向へ帰る。
もうお別れだ。
「俺はこっちなので」
「お仕事お疲れさまでした。また明日お待ちしております」
「ありがとうございます、必ずお伺いします」
「はい、ありがとうございます」
俺とちーちゃんさんは見つめ合った。
というより俺が帰らないのでちーちゃんさんも気を使って帰れないようだった。
ちーちゃんさんはもうバイトは終わってるのに、俺がお客さんだからだろうか、先に背を向けて歩き出すのを躊躇っているのだろう、奥ゆかしいし、真面目だし、やっぱりいい子なのだと思った。
疲れてるだろう。
この辺りは城塞のお膝元ということで日本で一番治安がいい所だが、もう冬で暗いし、寒いからいつまでもこうしているわけにはいかない。
送って行きたいけど、客の男に住所知られるの嫌だろうし、言わない方がいい。
せっかく上手くいってるんだ。
ケーキ屋の店員とその店の常連客。
これ以上望んじゃいけない。
だってちーちゃんさんは俺のことを知っていてくれた。
それだけで十分だ。
今日のちーちゃんさんだけで、この一か月の俺が得られるはずだったちーちゃんさんを十分補える。
有り難い。
誰に感謝したらいいんだろう。
神様、か?
それにしてもなんて可愛いんだろう。
こんな可愛い女の子いるだろうか?
可愛い上に優しいとか。
二物与えすぎだろ。
どっちかにしろ。
どっちかだけで十分だ。
困ってる、戸惑ってる表情可愛すぎる。
俺のたまりに貯めたちーちゃんさん動画の中でも最高のちーちゃんさんなのでは。
当たり前か。
だって今見てるちーちゃんさんはお店で見るちーちゃんさんとは少し違う。
ちーちゃんさんはお店ではこんな顔しない。
いつだって笑顔で朗らかな声で待っていてくれる。
こんなちーちゃんさんは見たことない。
だってちーちゃんさん、今にも泣き出しそうで、こんな寒い冬の夜空に溶けて行ってしまいそうに儚くて。
ああ、ずっと見ていたい。
永遠に見ていたい。
時を止めてくれても構わない。
ほんの少しでいいから。
今このちーちゃんさんを摑まえないと、このちーちゃんさんにはもう二度と永遠に会えない気がする。
そう思えるほどに今日は寒くて、空は澄み切った暗闇で、ちーちゃんさんのマフラーの白が寂しそうで、悲しくて。
とてもじゃないけどこのまま帰れなかった。
帰りたくなかった。
このまま帰ったら夢になってしまう。
そうならないのはわかり切っていたけど、何故だかそう思った。
夢でもちーちゃんさんに会えたら嬉しいけれど、もう永遠に会えなくなるのなら夢でなんか会わない方がましだと思う。
ああ、そうだ。
結局会いたいのはこのちーちゃんさんなんだ。
メモリーカードに保存されたちーちゃんさんじゃない。
そのちーちゃんさんにはいつだって会えるけれど、本当に会いたいのは永遠に見ていたいと思ってしまうのは、手を伸ばせば触れられる、お客様への笑顔じゃない、ほんのわずか垣間見えた微かなちーちゃんさんなんだ。
俺は本当はそれをずっと望んでいたんだ。
それは今日見えたんだ。
見てしまったらもっと欲しくて堪らなくなったんだ。
だからもう帰らなくちゃいけない。
それを望んでしまえばもう、ケーキ屋の常連さんと店員さんではいられなくなるのだから。




