9-2 間に合わなかった命
「うわっ! くっさ!!」
アレスとラウィは同時に叫ぶ。穴の中へ身を沈めた瞬間鼻に殴り込んできた悪臭に、叫ばずにはいられなかった。
生臭い。酸っぱくすらある。目にしみる気さえしてきた。昔、棚にしまったまま忘れて何ヶ月か放置してしまった弁当よりひどい臭いである。おまけに生暖かい。これは一体何なのだ。
(この匂い……くそっ。嫌な予感しかしやがらへんぞ!)
アレスは思わずリシアを見やる。
この暴力的な臭気。リシアにもアレスと同じ考えがよぎってもおかしく無いと考えたのだ。その場合、正常な精神は保てないであろう。
しかしリシアは、首を傾げて、アレスとラウィに問いかけてきた。
「え、くさいかな? へんなにおいだけど、そこまでだとおもう。さっきのほうがくさかったよ」
「……鼻曲がっちまったようやな。ご愁傷様」
アレスはリシアを思わず憐れむも、悪臭を感じていないのなら好都合である。最悪の可能性を、まだ彼女は考えついていないだろう。
アレスは、新鮮な空気を吸いたいと願うも、それを黙殺してさらに奥へと歩を進めていく。
蒸し暑かった。それに、空気がこもっている。おそらく、循環していないのだろう。それが、臭気を酷くするのに一役買っているようだ。
洞窟内は、ところどころに黄色いイールドが吊り下げられており、内部を明るく照らしていた。おかげで、比較的容易に進むことができる。
そして三人は、分かれ道を発見し、その場で立ち止まる。
「どっちへ行く?」
最初に口を開いたのは、ラウィだった。彼も、未だに慣れないであろう臭いに眉をひそめていた。
「まあ、どっちでも変わらへんやろ。内部構造がわからん以上、手当たり次第探すしか無いんや」
「じゃあ、アレス。みぎにいかない?」
突然提案をしてくるリシア。
「何でや?」
「あのね、なんかね、へんなにおいがこっちのほうからするの」
「……ほんまか?」
アレスはジトッとリシアを目を細めて見やる。こいつ、鼻が曲がったのではなかったのか。
「まあええわ。ほな、そっち行くか」
そう言うとアレスは、右側の道を選ぶ。なるほど、確かに腐ったようなキツイ臭いは、奥に進むにつれて強くなってきた気がする。
ラウィも、「うぅ……」とか呻きながらリシアの手を引いて付いてくる。その空色の瞳からは、涙が滲んでいた。
(……お?)
アレスは、足元に冷感を感じ取った。どうやら、奥の方から流れてきているようだ。
(これは、あれか。当たりみたいやな。いや、むしろはずれなのか。わからへん)
アレスは、何も言わずに先へ進んでいく。アレスが感じたということは、後ろの二人も感じているだろう。しかし二人も、口を開かなかった。
アレスの予想。
それは、教会の地下室にあったものと、同じ部屋。死んだ人間を『保存』する、低温の空間があるのでは無いか、という可能性である。
集落の人間たちの行方が発覚するかもしれないという点では、当たり。
集落の人間たちが殺された事が確定してしまうという点では、はずれ。
(いや、元々全員を救える可能性なんて無いことくらいわかっとったやろ。問題は、どれだけ殺されたかと、イリアって奴の安否や)
アレスは歯を食い縛る。どうしようもない現実を認識してしまうも、足を止めることはない。そんな事をしている暇はない。
徐々に寒さが増していく空気を肩で切って、奥へ奥へとその身を押し込んでいく。
そして、たどり着いた。
少し広い空間だった。群生林の地下にこれほど広い部屋がある事に、アレスは少し感心すらしてしまう。
生身では到底届かない高さの天井に、かなり奥行もある。壁には当然のように霜が降りていた。
しかし、教会の地下室とは違い、天然の冷凍室というわけではなさそうだ。至る所に、氷を生じる藍色のイールドが置かれているのだ。
無理やり室温を下げられている。つまりここは、意図的に作られた冷凍室だという事である。
そして。
アレスは、その光景に絶句する。
(……ちく、しょう。遅かった、のか?)
そこでは、おびただしい量の首の無い死体が、床一面に並べられていた。
規則的にずらっと並ぶそれらには、番号が振られていた。管理されているように感じる。
それらの手足はやけに細く、しわがれていた。
血抜き。おそらく、頭を切断して体内の血液を全て搾り取った後で、ここに保存しているのだろう。強烈な生臭さの正体は、どう考えてもこれらであった。
頭部はこの部屋には無いようだ。別々に保管されているのだろう。
アレスの脳内に、『加工』の二文字がよぎる。
申し訳程度に服は着せられているものの、大小様々な首の無い死体は、もはやどれが目的の女性のものなのかわからなかった。冷たいが、まだ完全に凍ってはいなさそうだ。それは、死体がここへ運び込まれてから時間が経過していない事を意味する。
そして、絶望的なのがその数である。細かく数えていないためわからないが、ぱっと見る限りでは、百体くらいはあるように思える。
集落の人数と、一致する。そんな大量の、首のない死体。
アレスの後ろから、「うぇっ」と吐きそうな声が聞こえてくる。ラウィのものだ。命を奪う事に対して鈍感なラウィも、猟奇的な光景には人並みの嫌悪感を感じるようだ。
そして当然、リシアはそれだけでは済まなかった。
ラウィが慌ててリシアに見えないように彼女の視界を遮っていたようだが、何もかも手遅れだった。
「いやあああああああああああああああああああああああああーーーッッッッ!!!!」
発狂。
頭を抱え、どこかわからない場所へ声の限り叫ぶ。そんなリシアを、アレスが無理やり冷凍室の外へ引っ張り出した。
あんなもの、いたいけな少女が見るものではない。見てはいけない。見るべきではない。
この世の絶望を詰め込んだような寒い部屋から出ると、その先では大量の人間が行く手を阻んできていた。アレスたちは思わず立ち止まる。
(……ちっ! こんなとこで会う奴が普通の人間なわけないやろ)
おそらく全員、グールだ。リシアの激しい叫びに、どこからか駆けつけてきたのだろう。
しかし、リシアを責めることなど出来ない。こうなるリスクを考えて、それでも彼女を連れてきたのは、アレスなのだから。
「何事かと思えば……ふん、餌がわざわざご苦労様」
そのグールの集団の中で、一際目立つ男が声を放ってくる。
おそらく、こいつがグールのボスだろう。纏っている雰囲気が、明らかに他の連中とは一線を画している。
アレスは、そのグールを睨む。それに対しボスグールは軽く溜息をつき、やれやれといった表情を浮かべてアレスを蔑む眼差しで捉えてくる。
「何だよその眼は? お前らだって動物を殺して食うだろ? 俺らも一緒だ。生きるために、食ってる。何が悪い」
「……ッ」
アレスは何かを言い返そうとしたが、言葉に詰まってしまう。
その通りだったからだ。グール以外の種族だって、肉は食す。対象が、『種族』か『獣』かという違いでしか無い。もちろん、獣の同意を取ったわけではない。知能ある種族が勝手に、一方的に食らっている。
現に自分たちは、ほんの数十分前には大きな肉塊を貪っていたばかりなのだ。
グールがやっている事も、そういう事。同じ事をしている以上、アレスに何かを言い返す権利は無かった。
「俺らグールは、種族しか食べないんじゃない。食べられないんだよ。そういうカラダの作りになっちまってるんだ」
ボスグールは、一歩前へ出て来る。
「だからせめて、命を頂いている事に感謝して、食後の遺体は丁重に埋葬してる。知能ある種族の尊厳を出来るだけ守る為、調理の直前まで衣服を着せたまま保存してる」
ボスグールは肩をすくめ、アレスに問いかけてきた。
「どうだ? むしろお前らより食肉に対する扱いは丁重だと思うが。むやみやたらと殺してるわけじゃないんだよ。だから、無駄なく命を頂くために加工する。肉、血液、軟骨、内臓……骨だって煮込んで出汁を取る。全て余す事なく食わせてもらってるんだよ。雑に扱うのは、欲求を抑えられない一部の馬鹿だけだ」
アレスは、先ほどラウィと奪い合っていた肉塊の行方を思い出す。この上なく乱暴に食した上に、最終的には半分を灰にし、片方は地面に落としてしまった。顔もわからない少年に持って行かれてしまったが、きっと砂まみれであろう。
自分たちは、食に対する感謝に欠けていた。自分たちが許せないと豪語した、目の前のグールたちよりも。
「……それなら、何で今回は百人もの人間を襲ったんや?」
「あの集落の連中が、俺らを根絶やしにする計画を立ててやがったのを知ったからだよ。殺すつもりだった以上、殺されても文句は言えねえだろ」
ボスグールは、憎しみのこもった声でアレスの問いに返答する。
ここで、アレスは一つの事実に気がつく。
(……あ、れ? イリアは、グールの全滅を提案しとったのは一部の過激な奴だけって、言っとった、よな)
それは、悲しいすれ違い。勘違い。自分たちの生活が危ぶまれると誤認した、グールの早とちり。
そしてその事実は、ビアルダ集落で生を謳歌していたリシアにも、わかっていた。
彼女の表情はその紺色の髪で隠れて見えなかった。
極めて平坦な声で、ぽつりと呟く。
――グールなんて、いなくなっちゃえばいいんだ、と。




