プロローグ
本当に恐い人だった。
その方は東雲の屋敷において、全てを手にしていながら全てを壊そうとし、加虐的な嘲いを堪えず浮かべているような人だった。
その大祖父様が亡くなったのは三日前のことだ。
死因は心不全。胸を患っていたらしいが、私のような一介の使用人には知らされてもいなかった。
しかし、事実大祖父様が亡くなって、悲しみ打ちひしがれている者などいないのではないだろうか。
私のお世話させていただいているお嬢様が良い例だ。
東雲家の三女 東雲萌葱様。
十六才になったばかりのお嬢。
お目付役兼、彼女専用の運転手というのが私の身分だが、この頃、私はお嬢にはもうお目付役はいらないのではと思うことが多い。
お嬢は東雲家三人姉妹の中でも一番しっかりしているし、もうそれなりに大人と云ってもいいはずだ。
私は自分の身の振り方について、一度お嬢に告げたが、まったく相手にされなかった。
だが、私の心は既に決まっているのだ。
近いうち、私はここを去るだろう。
お嬢の先行きを祈りつつ。
晴れた冬の朝の張りつめた風の中。
私はお嬢に内緒で東雲の当主、仁様と東雲夫人である桜子様に退職願を受理していただき、このお屋敷の門までの長い道を少ない荷物片手に歩いていた。
お嬢が後で知って怒り狂い、追いかけてくるかもしれないので、なるべく遠くまでを朝早く出て稼ぐつもりだ。
このお屋敷で過ごした八年、そう思っても脳裏に浮かぶのは十六才のお嬢の怒った顔だけだった。
感傷に浸るタイプではないが、ここまでサバサバしているのも不思議だった。
そして、私はお嬢の前から姿を消す。
一九九三年一月二十八日、一日晴れていた寒い日だった。




