2話 封じたはずの力
草原の風が、少しだけ変わった。
さっきまで頬を撫でていた風に、別の音が混じる。
草を踏む音だった。
俺は足を止めた。隣を歩いていたエラも、少し遅れて立ち止まる。
「……シン」
「ああ」
草原の向こうに、人影が見えた。
三人。先頭には杖を持った年配の男。その後ろに、護衛らしい若い男女が続いている。
誰だろう。近くに集落でもあるのか。
そう思ったものの、男たちは迷う様子もなく、まっすぐ俺たちの方へ歩いてきた。
遭遇抑制は有効にしたままだ。危険な存在との遭遇率を下げる力だが、目の前の三人が何者かまでは分からない。
さっきの黒い魔物が頭をよぎる。
俺はエラの少し前に立った。
「エラ、俺のそばにいてくれ」
「……うん」
三人は少し離れた場所で足を止めた。
年配の男の視線が、俺からエラへ一瞬だけ移る。そして、また俺に戻った。
男は深く頭を下げた。
「お探ししておりました」
その言葉に、俺は思わず眉を寄せた。
「……誰をですか?」
男は顔を上げた。その目は、まっすぐ俺を捉えている。
「還り人さまを」
還り人。
帰ってきた人、という意味だろうか。だが、俺にはまるで心当たりがない。
それよりも気になったのは、男が俺たちを探していたと言ったことだった。
「……どうして、俺だと分かるんですか?」
「風の兆しがありました。語りも、同じものを示しております」
「語り?」
「この地に古くから伝わるものです」
男は静かに続けた。
「閉ざされた場所より現れし者。白き静寂を越え、草原に立つ者。帰ってきたものを迎えよ、と」
白き静寂。
俺は、何もないあの空間を思い出した。
エラが袖を強くつまむ。
「シン……」
「大丈夫。まずは話を聞こう」
そう答えたものの、「白き静寂」という言葉が気にかかった。
この人たちは、俺がどこから来たのかを知っているのだろうか。
「その語りには、俺がどこから来たのかも書かれているんですか?」
「いいえ。伝えられているのは、今お話ししたことだけです。詳しくは語りの長にお尋ねください」
「語りの長……」
「村までお越しください。そこでなら、お話しできることがあるはずです」
俺はすぐには頷かなかった。三人の表情を確かめる。敵意は見えないが、それだけで信用するわけにはいかない。
「村までは、どれくらいかかりますか?」
「そう遠くはありません。草原の向こう、丘の中腹です」
白い空間の手がかりがあるなら、確かめたい。だが、エラを巻き込むことにもなる。
俺はエラを見る。
「エラは、どうしたい?」
「……わたし?」
「一緒に行くかどうか、エラにも決めてほしい」
エラは三人の顔を順に見た。
男たちは急かさず、黙って待っている。
「……話を聞きたい」
「怖くないか?」
「怖い。でも……知らないままなのも、怖い」
俺は小さく頷いた。
自分で歩きたいと言ったエラが、今度は自分で行き先を選んだ。
「分かりました。案内してください」
男はもう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
礼を言われるようなことをした覚えはない。けれど、男は俺たちの歩幅を確かめるように、ゆっくり歩き始めた。
俺とエラは、三人の後について草原を進んだ。
* * *
しばらく歩くと、エラが俺の隣から小声で尋ねた。
「シン。還り人って、なに?」
「分からない。たぶん、俺のことをそう呼んでるんだと思う」
「シンは、帰ってきたの?」
帰ってきた。
その言葉に、足が止まりそうになった。
俺はここを知らない。草原も、空も、目の前を歩く人たちも、何ひとつ覚えがない。
「……いや。少なくとも、俺には初めての場所だよ」
「じゃあ、どうして?」
「それを聞きに行くんだ」
エラは小さく頷いた。
前を歩く男が、俺たちの会話を聞いたのか、少しだけ振り返った。
「語りの長は、長くこの日を待っておりました」
「俺が来ることも、俺の顔も、前から分かっていたんですか?」
「いいえ。いつ、どなたが現れるかまでは分かりません。ただ、迎えるべき方が来ると伝えられていたのです」
「だったら、俺が還り人だと決めた理由は?」
「風の兆しと、語りにある場所が重なったからです。ですが、間違いがないと申し上げられるのは、長のお話を聞いてからでしょう」
男にも、分からないことがあるらしい。だからこそ、長に会う意味があった。
* * *
草原を抜けると、低い丘が見えてきた。
その中腹に、小さな村がある。
石垣と木造の家。古びてはいるが荒れていない。長い時間、人が暮らしてきた場所なのだと分かった。
村の入口に近づくと、何人かの村人がこちらを見た。
そして、動きを止める。
「……あれが」
「本当に……」
小さな声が聞こえた。
誰かが頭を下げる。それに続くように、周囲の人たちも静かに道を開けていった。
驚きと戸惑い。その中に、祈るような色が混じっている。
俺は居心地が悪くなった。
何かをした覚えもないのに、知らない人たちからこんなふうに見られている。
「シン……みんな、見てる」
「そうだな」
「わたし、どうすればいい?」
「無理に何もしなくていい。俺の近くにいればいいよ」
エラは小さく頷き、俺の少し後ろに寄った。
村の奥には、大きな樹が一本立っていた。
地面を抱えるように根を広げたその樹の下に、小さな建物がある。
ほかの家と大きく違うわけではない。それでも、近づくにつれて、周囲の声が遠のいていく気がした。
男が扉の前で立ち止まる。
「語りの長が、中でお待ちです」
俺は扉を見た。
ここに、俺たちのことを知る人がいるのかもしれない。
なぜ還り人と呼ばれるのか。白い空間について、何か分かるのか。
そして、エラがあの部屋にいた理由も。
すべての答えがあるとは思わない。それでも、聞かずにはいられなかった。
「エラ」
「うん」
「入ろう」
エラが頷く。
俺は木の扉に手をかけ、静かに押し開けた。
中には、一人の老女が座っていた。
深い皺の刻まれた顔。けれど、その目だけは不思議なほど澄んでいる。
老女は俺たちを見た。すぐには口を開かない。
澄んだ瞳が俺を捉え、それから隣のエラへ移った。
エラの指が、俺の袖をそっとつまむ。
老女は再び俺に視線を戻した。何かを問われると思ったが、先に聞こえたのは静かな歓迎の言葉だった。
「……ようこそ、還り人さま」
ただ迎え入れられただけのはずなのに、俺はあの短い沈黙が気になっていた。




