0話 誰にも見つけられなかった彼女
その日は、いつもと変わらない夜だった。
仕事帰りに立ち寄ったコンビニ。
駐車場の端で、買ったばかりの缶コーヒーを開ける。店から漏れる白い明かりが、足元まで伸びていた。
冷たい風が頬を撫でる。
「……どっか、遠くに行きたいな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
別に、今の生活が嫌になったわけじゃない。
ただ、時々そんなことを考える。
知らない場所へ行って、知らない空を見て、知らない風を感じる。
そんなことができたら、少しは何かが変わるんじゃないかと。
もちろん、本気で叶うとは思っていなかった。
缶コーヒーをもう一口飲む。
苦い。
「……帰るか」
そう呟いて、一歩踏み出した。
その瞬間、足元の感覚が消えた。
「――え?」
視界が白く染まる。
コンビニの明かりも、道路を走る車の音も、頬に触れていた風も、遠ざかっていく。
踏ん張ろうとしても、足に力が入らない。
落ちているのか、浮いているのか。
それさえ分からないまま、俺は白い光の中に呑み込まれた。
***
気づいた時には、何かの上に立っていた。
足の裏には、地面を踏む感触がある。
けれど、見下ろしても床は見えない。顔を上げても、壁も天井もなかった。
どこを向いても、ただ白い。
「……夢、か?」
声は普通に出た。
手を開き、握ってみる。
指は思ったとおりに動いた。
さっきまで持っていた缶コーヒーは、どこにもない。
夢にしては、妙に感覚がはっきりしている。
「……なんなんだ、ここ」
辺りを見回しても、景色は変わらなかった。
どこまでも続く白。
歩いてみようかと思ったが、どちらへ進めばいいのかさえ分からない。
その時だった。
『接続を確認しました』
「……っ!?」
突然、目の前に文字が浮かび上がった。
思わず後ずさる。
誰かの声が聞こえたわけではない。
それなのに、不思議と文字の意味が直接頭に伝わってくる。
「接続……? 何と?」
当然、返事はない。
代わりに、次々と文字が現れた。
身体能力の調整。
技能の開放。
所持品の確認。
転移先の選択。
未解放領域。
「……何だよ、これ」
見覚えのない表示ばかりだった。
ただ、『転移先の選択』という言葉だけは気になった。
転移先。
それは、ここから別の場所へ行けるということなのだろうか。
だとすれば、ここはいったい何なのか。
俺はもう一度、並んだ文字を見つめた。
身体能力の調整。
もし、この場所へ来たことで自分の体に何か起きているのなら。
少しは手がかりになるかもしれない。
恐る恐る指を伸ばす。
触れた瞬間だった。
「……っ!」
頭の奥に、何かが流れ込んできた。
速さ。力。感覚。
自分の体がどこまで変わり得るのか。
その限界すら見えないほどの情報が、一瞬にして押し寄せる。
「な、なんだ……これ……!」
慌てて手を引いた。
途端に、流れ込んでいたものが途切れた。
息が荒くなっている。
指先を見つめても、見た目に変化はない。
けれど、今の感覚だけは、はっきりと残っていた。
あれ以上触れていたら、どうなっていたのだろう。
「……やめておこう」
何が起きているのかも分からない。
そんな状態で、自分の体を変えるようなことはしたくなかった。
俺は表示から目を離そうとした。
その時、ふと気づいた。
並んだ項目の一番下。
『未解放領域』
その下に、ほかの項目とは少し違う、小さな文字が表示されていた。
『ERA-01』
「……エラ?」
何気なく読み上げた、その瞬間だった。
白い空間が、かすかに揺れた。
「……え?」
何もなかったはずの場所に、一枚の扉が立っていた。
古びた木の扉だ。
壁もないのに、それだけが白い空間の中に立っている。
俺はしばらく、その扉を見つめていた。
触れてもいいのだろうか。
さっき表示に触れた時の感覚が、頭をよぎる。
それでも、扉の向こうに何かがあるのなら、ここから出る手がかりになるかもしれない。
ゆっくり近づく。
「……誰か、いるのか?」
返事はない。
けれど、扉の向こうにかすかな気配を感じた。
俺と同じように、ここへ来た誰かかもしれない。
少し迷ってから、取っ手に手をかけた。
そっと押す。
扉は、思ったよりも簡単に開いた。
***
向こう側は、小さな暗い部屋だった。
戸口から差し込んだ白い光が、床の一部を照らしている。
その奥に、少女がいた。
長い髪と、白に近い淡い服。
膝を抱えて座っていた少女が、ゆっくり顔を上げた。
俺を見て、それから開いた扉を見る。
唇がわずかに動いた。
「……開いた」
驚いているようにも、怯えているようにも見えた。
俺は戸口で足を止めた。
「ここに、いたのか?」
少女は小さく頷いた。
「ずっと」
「ずっとって……どれくらい?」
少し考えるように目を伏せてから、少女は答えた。
「分からない」
俺は部屋の中を見回した。
暗がりに、ほかの人影は見えない。
どれくらいここにいたのか、自分でも分からない。その間、ずっとひとりだったのだろうか。
何から聞けばいいのか迷って、俺はもう一度少女を見た。
「名前は?」
少女の唇が、ためらうように動く。
「名前は、ある」
「うん」
「でも、呼ばれたことはない」
返す言葉が出なかった。
少女はそっと胸元に手を当てた。
「エラ」
「エラ?」
「そう呼んでほしい」
今度は、はっきりとした声だった。
俺は頷いた。
「分かった。エラ」
名前を呼ぶと、エラの目がわずかに見開かれた。
胸元に添えた指が動き、服をそっと掴む。
それから、口元がほんの少し緩んだ。
「……もう一回」
「エラ」
「……うん」
自分の名前を確かめるように、エラは頷いた。
ここが何なのかも、どうして俺が来たのかも、まだ分からない。
けれど、目の前のエラを、さっきの文字と同じようには思えなかった。
名前を呼ぶだけで、こんな顔をする。
俺も、自分の名前を伝えた。
「俺はシン」
「シン」
「うん」
エラは俺の顔を見つめた。
「シンが、開けてくれたの?」
「ああ。この扉なら、俺が開けた」
どうして扉が現れたのかは分からない。
でも、開けたことまで曖昧にする必要はなかった。
エラはもう一度、戸口へ目を向けた。
「シン」
「ん?」
「ここ、出られる?」
声が、少し震えていた。
俺は扉を振り返った。開いたままだ。
向こうには、さっきと同じ白い空間が見えている。
「扉の外には出られそうだ。その先は、俺もまだ分からない」
エラは戸口を見たまま動かなかった。
白い光の届く床と、自分の足元を見比べている。
「エラは、ここから出たいか?」
すぐには答えが返ってこなかった。
やがてエラは顔を上げ、俺を見た。
「……わたし、行ってもいいの?」
出たいかと聞いたのに、行ってもいいのかと返された。
俺は一度、開いた扉を見た。
このまま背を向けて、ひとりで戻る気にはなれなかった。
「いいと思う。エラが出たいなら、一緒に行こう」
「本当に?」
「うん」
エラはじっと俺を見つめていた。
俺はそのまま待った。
やがて、膝に置かれていた手がほどける。
エラは床に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
その体がふらついた。
俺は反射的に手を差し出した。
エラは、目の前の手を見つめた。
自分の手を少し持ち上げて、途中で止める。
「掴まるか?」
そう聞くと、エラは俺の顔を見た。
それから、そっと手を重ねてきた。
小さくて、冷たい手だった。
「……あたたかい」
「俺の手が?」
「うん」
指に、わずかに力がこもった。
俺は握り返し、エラが歩き出すのを待った。
一歩。
エラの足が、戸口から差す光の中へ入る。
俺たちは歩幅を合わせて、部屋の外へ出た。
***
白い空間には、まだ文字が浮かんでいた。
その中で、『転移先の選択』が淡く光っている。
さっき指を伸ばした時の感覚を思い出し、手が止まった。
けれど、ほかに出口らしいものは見当たらない。
俺はエラの手を握ったまま、慎重に表示へ触れた。
文字が切り替わる。
地名らしいものがいくつも並んだ。読めても、どんな場所なのかは分からない。
その中に、『草原』という表示があった。
思い浮かんだのは、風に揺れる草と、頭の上に広がる空だった。
本当にそんな場所へ出られるのか。安全なのか。
表示を見つめていても、それ以上は分からなかった。
「エラ」
「うん」
「ここから出られるかもしれない。ただ、どんな場所かまでは分からない」
エラは文字を見上げてから、俺を見た。
「……シンも一緒?」
「一緒だ」
繋いだ手を見下ろし、エラは頷いた。
「なら、行く」
俺も頷き返した。
草原の文字に触れる。
足元から、白い光が広がった。
エラの指に力が入る。
俺も、その手を離さないように握り返した。
何が待っているのかは分からない。




