5話
ある日、家の中に見慣れないものが増えていた。
低い卓。
小さな器。
湯気のようなものまで立っている。
「……なにこれ」
思わず立ち止まると、奥からキクが顔を出した。
「ごはん」
「ごはん?」
聞き慣れない言葉みたいに、私は繰り返した。
「座って」
キクは嬉しそうに手招きする。
言われるまま座ると、
器が私の前に置かれた。
白い。
丸い。
湯気が出ているように見える。
でも、匂いはしない。
「……これ、本物じゃないよね」
「うん、作っただけ」
キクはあっさり言った。
「だって、私たち食べなくても平気でしょ」
「うん」
「でもね」
キクは自分の前にも同じ器を置く。
「こういうの、やってみたかったんだ」
それは、遊びの声だった。
互いの髪をいじったときと同じ。
着物を交換したときと同じ。
ただの、やってみたかったこと。
「外にいたときね、こういう時間が好きだったの」
キクは器を持ち上げる。
「家族で食べてる人たちとか、
友だち同士で笑ってる人とか」
少しだけ間が空いた。
「……見てただけけど」
私は、なんて返せばいいか分からなかった。
だから、とりあえず真似をした。
器を持つ。
口へ運ぶ。
何もないのに、食べたふりをする。
「……変な感じ」
「やっぱり?」
キクが笑う。
「でも、それでいいの」
しばらく無言で、二人で“食べるふり”をした。
食感もない。
味もしない。
満腹にもならない。
でも。
妙に落ち着いた。
「雛」
「なに?」
「ちゃんと噛んで」
「噛む必要ないよ」
「だめ。そういう遊びだから」
言われて、仕方なくもぐもぐする真似をする。
キクは満足そうに頷いた。
その顔が、あまりに真剣で
私は少し笑ってしまう。
「雛、笑ってる」
「だって、変なんだもん」
「変じゃないよ」
キクは少しだけむっとした顔をして、
それから、すぐ柔らかくなる。
「こうしてるとね」
小さく言った。
「雛がちゃんとここにいる気がする」
その言葉に、手が止まった。
私たちは、もう“生きていない”のに。
ここにいると、思っていいのだろうか。
「……じゃあ」
私は、もう一度器を持ち直した。
「ちゃんとやる」
それから、少しだけ大げさに真似をした。
食べるふり。
飲むふり。
おいしいと言う。
キクは、楽しそうに笑った。
本当に楽しそうだった。
食べ終わったあとも、卓はそのままにしておいた。
片付ける必要なんてないのに、
キクは丁寧に器を重ねる。
「またやろうね」
当たり前みたいに言う。
私は頷いた。
ここでは必要ないことばかり増えていく。
でもその“必要じゃないこと”が、
少しずつ、
私たちを人間に戻していく気がした。
ある日、互いの髪を結って遊んだ後
私たちはそのまま縁側に座っていた。
箱庭の空は、相変わらず季節も時間も曖昧で、
光だけがやわらかく広がっている。
しばらく、何も話さなかった。
沈黙が気まずいわけじゃない。
ただ、隣にいることが当然になってきただけだった。
やがてキクが、ぽつりと言った。
「雛って、小さい頃どんな子だったの?」
不意の質問に、少しだけ考える。
「……静かだった、と思う」
「思う?」
「うん。そう言われてたから」
私は膝の上の手を見ながら言った。
「病弱で走れなくて、外でも遊べなかった。村のために働けなくてずっと家で過ごしてた。
村の人は私を邪魔だと思ってたと思う。」
キクは黙って聞いている。
「でもね、雛流しの話がでるようになってからは、みんな、優しかったよ。
“雛は特別だから”って」
その言葉を口にすると、
なぜか胸の奥が少し重くなった。
「特別って言われると、嬉しかった?」
「……分からない」
少し笑ってしまう。
「嬉しいって思っていいのか、分からなかった。
だって、私だけ何もしなくてよかったから」
手伝いも。
叱られることも。
期待されることも。
「ただ、座ってるだけでよかったの」
キクが、ゆっくり息を吐いた。
「それ、楽じゃないね」
私は少し驚いた。
「そう見える?」
「うん」
キクは即答した。
「だって、それって最初から“いなくなる前提”じゃん」
言われて、言葉が止まった。
……考えたこともなかった。
でも、確かにそうだった。
今度は、私が訊いた。
「キクは?」
キクは少し空を見上げてから言った。
「私はね、逆だったよ」
「逆?」
「ちゃんとしてなさい、ってずっと言われてた」
声は軽いのに、
どこかだけ硬かった。
「言葉遣いとか。
姿勢を直しなさい、とか。
人前に出るんだから恥ずかしくないようにって」
私は思い出す。
あの箱の中の少女は、
確かにとても“整って”いた。
「……嫌だった?」
「ううん」
キクは首を振った。
「最初は、ちょっと嬉しかった。
綺麗にしてもらえるし、
みんな褒めてくれるし」
でも、と続ける。
「誰も“私”を見てなかった」
その言葉は静かだった。
「出来上がった形だけ見てた。
上手にできた人形みたいに」
私は何も言えなかった。
雛として扱われた私と、
飾られたキク。
似ているようで、
違う場所に閉じ込められていたのだと、やっと分かった。
少しして、キクが笑った。
「でも、今は違う」
「どう違うの?」
「雛はちゃんと私を見てる」
そう言って、
私の結び直した髪を指でつつく。
「これ、ちょっと曲がってるし」
「えっ、ほんと?」
慌てて触ると、
キクがくすっと笑った。
「でも、そういうのがいい」
私は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「……キクも、ちゃんと笑ってるよ」
前に見た、
箱の中の整った顔じゃない。
今ここにいる、
少し崩れて、でもずっと自然な顔。
キクは一瞬だけ驚いた顔をして、
それから、いつもの柔らかい笑みに戻った。
「ねえ」
キクが小さな声で言う。
「私たち、似てるね」
私は頷いた。
「うん」
似ている。
同じ雛代だけど同じじゃない。
だから、こうして隣に座れているのかもしれないと思った。
今思うとこの時が今まででいちばん楽しかった。




