4話
ある日、縁側で風を作って遊んでいると、
キクが私の袖を軽く引いた。
「ねえ、雛」
「なに?」
「それ、着てみたい」
「……これ?」
自分の着物を見下ろす。
私の着物は、決して粗末ではない。
でも、質素な村で仕立てられたものだ。
糸の太さも揃っていないし、ところどころに繕った跡がある。
触れれば分かる程度の歪みが、布のあちこちに残っていた。
それに比べて、キクの着物は違う。
生地はなめらかで、光を吸うみたいに落ち着いている。
糸目が細かくて、重さも均一で、触れるだけで「上等」だと分かる。
「……私の、あんまり綺麗じゃないよ」
そう言うと、キクはきょとんとした顔をした。
「そう?」
もう一度、私の袖を持ち上げる。
繕いの跡も、色の違う糸も、まるで気にしていない。
「これ、雛が着てたんでしょ」
「そうだけど……」
「じゃあ、好き」
あまりにあっさり言うから、返事に詰まった。
結局、着物を交換することになった。
キクは嬉しそうに袖を通した。
裾を整えるでもなく、鏡を見るでもなく、
ただ布の感触を確かめるみたいに撫でている。
「うん……雛のは、ちゃんと人が着てた形が残ってる」
その意味が、私にはよく分からなかった。
逆に、私はキクの着物を着せられた。
布が柔らかくて、肌に沿う。
重さも、暖かさも、全部が均等で、
まるで最初から私の体に合わせて作られたみたいだった。
……落ち着かない。
袖の中に、自分じゃない誰かがいる気がする。
「似合うよ」
キクが帯を結び直しながら言う。
その手つきが、やけに丁寧で、
私は視線を逸らした。
「……なんか、自分のものじゃないみたい」
「うん」
キクは頷いた。
「だって貸してるもん」
からかうでもなく、ただ当然みたいに言う。
今まで言わなかったけれど、
どうしても、ひとつだけ気になっていた。
「……ねえ、キク」
「なに?」
「これ、同じ村で作ったんだよね?」
キクは頷く。
「そうだよ」
「……なんで、こんなに違うの?」
糸の細かさも。
染めの深さも。
触れたときの重さも。
まるで、最初から別の場所のものみたいだった。
キクは少し考えるように視線を落として、
それから、あっさりと言った。
「見に来る人が増えたからじゃない?」
「見に来る人……?」
「流し雛、珍しいんだって。遠くからも来るみたい。
お金、いっぱい落としてくれるんだよ」
悪気のない声だった。
ただ事実を言っているだけの調子で。
「だから、いいものを作れるようになったんじゃない?」
私は、返事ができなかった。
——じゃあ、私のは。
これはまだ“お金がなかった頃”のものだったんだ。
誰にも見られない、生贄のための着物。
体裁だけ整えた、
あの村の、ぎりぎりの精一杯。
キクは私の着物の袖を嬉しそうに撫でながら言う。
「でも、こっちのほうが好きだよ」
私はしばらく、その顔を見ていた。
それから、そっとキクの袖を引き寄せる。
繕いの跡に指を当てる。
きれいじゃない。
でも——雑でもなかった。
「……ううん」
小さく首を振る。
「やっぱり、私はこっちを着る」
儀式用に作られた着物。
少し固くて、手に馴染まない感触。
でも、それが妙に落ち着いた。
「貧しかったんだと思う」
指で継ぎ目をなぞる。
「でも……その中で、できるだけちゃんとしたものを作ろうとしてくれたんだよ」
キクは少し黙って、それからふっと笑った。
「そっか」
否定しない。
理由も聞かない。
ただ、もう一度だけ私の袖を撫でて、
「じゃあ、これは雛のだね」
当たり前みたいに言った。
またある日の昼下がり。
季節を作るのにも少し飽きて、
私たちは縁側に並んで座っていた。
風は、キクがさっき作ったものだ。
強すぎず、弱すぎず、ただ布の袖を揺らすだけの風。
「……静かだね」
キクが言う。
「うん」
それ以上、会話は続かなかった。
話すことがないんじゃなくて、
話さなくても困らない時間だった。
庭に作った草の上へ、私はごろんと寝転ぶ。
空は、少し白くしすぎたかもしれない。
眩しいほどじゃないけれど、輪郭が曖昧で、夢みたいな色をしていた。
「雛、行儀悪い」
呆れた声が聞こえたけれど、
怒ってはいないのが分かる。
「誰も見てないもん」
「……私が見てる」
そう言いながら、キクも隣に座った。
しばらくして、私の視界に黒い影が落ちる。
キクが覗き込んでいた。
「眠いの?」
「ちょっとだけ」
本当は、眠いというより——
こうして横になっているのが気持ちよかった。
地面が硬くないこと。
静寂が怖くないこと。
誰かが近くにいること。
それ全部が、まだ少し不思議だった。
「じゃあ、寝ていいよ」
キクはそう言って、膝を軽く叩いた。
「ほら、ここ」
「え……」
意味が分からなくて見返すと、
キクは当たり前みたいな顔をしている。
「そのほうが楽でしょ」
少し迷ってから、そっと頭を乗せた。
……近い。
思っていたより、ずっと近い。
着物の布越しに、体温が伝わってくる。
規則的な呼吸が、耳のすぐ上で揺れていた。
「重くない?」
「軽い」
即答だった。
キクの指が、私の髪に触れる。
撫でる、というより、
ほどけていないか確かめるみたいな触り方だった。
一度触れて、
少し間を置いて、
また触れる。
まるで、本当にそこにあるか確認しているみたいに。
「……雛」
「ん……」
「寝た?」
「まだ」
「そっか」
それだけ言って、また髪を撫でる。
瞼を閉じると、川の音は聞こえなかった。
代わりに聞こえるのは、
衣擦れの音と、キクの呼吸だけだった。
それが、妙に安心できて。
「雛、どこにも行かないよね」
唐突に、キクが言った。
目は開けなかった。
「行かないよ」
そう答えると、
髪を撫でる手が、ほんの少しだけ強くなった。
「……よかった」
その声は、ほとんど息みたいに小さかった。
気づいたら、本当に眠っていた。
夢は見なかった。
ただ、温度だけが残っていた。
起きたとき、
キクの手はまだ、私の髪に触れたままだった。
まるで、眠っているあいだもずっとそこにいたみたいに。




