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雛代の箱庭  作者: N
4/5

4話

ある日、縁側で風を作って遊んでいると、

キクが私の袖を軽く引いた。


「ねえ、雛」


「なに?」


「それ、着てみたい」


「……これ?」


自分の着物を見下ろす。


私の着物は、決して粗末ではない。

でも、質素な村で仕立てられたものだ。


糸の太さも揃っていないし、ところどころに繕った跡がある。

触れれば分かる程度の歪みが、布のあちこちに残っていた。


それに比べて、キクの着物は違う。


生地はなめらかで、光を吸うみたいに落ち着いている。

糸目が細かくて、重さも均一で、触れるだけで「上等」だと分かる。


「……私の、あんまり綺麗じゃないよ」


そう言うと、キクはきょとんとした顔をした。


「そう?」


もう一度、私の袖を持ち上げる。


繕いの跡も、色の違う糸も、まるで気にしていない。


「これ、雛が着てたんでしょ」


「そうだけど……」


「じゃあ、好き」


あまりにあっさり言うから、返事に詰まった。



結局、着物を交換することになった。


キクは嬉しそうに袖を通した。

裾を整えるでもなく、鏡を見るでもなく、

ただ布の感触を確かめるみたいに撫でている。


「うん……雛のは、ちゃんと人が着てた形が残ってる」


その意味が、私にはよく分からなかった。


逆に、私はキクの着物を着せられた。


布が柔らかくて、肌に沿う。

重さも、暖かさも、全部が均等で、

まるで最初から私の体に合わせて作られたみたいだった。


……落ち着かない。


袖の中に、自分じゃない誰かがいる気がする。


「似合うよ」


キクが帯を結び直しながら言う。


その手つきが、やけに丁寧で、

私は視線を逸らした。


「……なんか、自分のものじゃないみたい」


「うん」


キクは頷いた。


「だって貸してるもん」


からかうでもなく、ただ当然みたいに言う。


今まで言わなかったけれど、

どうしても、ひとつだけ気になっていた。


「……ねえ、キク」


「なに?」


「これ、同じ村で作ったんだよね?」


キクは頷く。


「そうだよ」


「……なんで、こんなに違うの?」


糸の細かさも。

染めの深さも。

触れたときの重さも。


まるで、最初から別の場所のものみたいだった。



キクは少し考えるように視線を落として、

それから、あっさりと言った。


「見に来る人が増えたからじゃない?」


「見に来る人……?」


「流し雛、珍しいんだって。遠くからも来るみたい。

お金、いっぱい落としてくれるんだよ」


悪気のない声だった。


ただ事実を言っているだけの調子で。


「だから、いいものを作れるようになったんじゃない?」


私は、返事ができなかった。


——じゃあ、私のは。


これはまだ“お金がなかった頃”のものだったんだ。


誰にも見られない、生贄のための着物。


体裁だけ整えた、

あの村の、ぎりぎりの精一杯。


キクは私の着物の袖を嬉しそうに撫でながら言う。


「でも、こっちのほうが好きだよ」


私はしばらく、その顔を見ていた。


それから、そっとキクの袖を引き寄せる。

繕いの跡に指を当てる。


きれいじゃない。

でも——雑でもなかった。


「……ううん」


小さく首を振る。


「やっぱり、私はこっちを着る」


儀式用に作られた着物。

少し固くて、手に馴染まない感触。


でも、それが妙に落ち着いた。


「貧しかったんだと思う」


指で継ぎ目をなぞる。


「でも……その中で、できるだけちゃんとしたものを作ろうとしてくれたんだよ」


キクは少し黙って、それからふっと笑った。


「そっか」


否定しない。

理由も聞かない。


ただ、もう一度だけ私の袖を撫でて、


「じゃあ、これは雛のだね」


当たり前みたいに言った。



またある日の昼下がり。


季節を作るのにも少し飽きて、

私たちは縁側に並んで座っていた。


風は、キクがさっき作ったものだ。

強すぎず、弱すぎず、ただ布の袖を揺らすだけの風。


「……静かだね」


キクが言う。


「うん」


それ以上、会話は続かなかった。


話すことがないんじゃなくて、

話さなくても困らない時間だった。


庭に作った草の上へ、私はごろんと寝転ぶ。


空は、少し白くしすぎたかもしれない。

眩しいほどじゃないけれど、輪郭が曖昧で、夢みたいな色をしていた。


「雛、行儀悪い」


呆れた声が聞こえたけれど、

怒ってはいないのが分かる。


「誰も見てないもん」


「……私が見てる」


そう言いながら、キクも隣に座った。


しばらくして、私の視界に黒い影が落ちる。


キクが覗き込んでいた。


「眠いの?」


「ちょっとだけ」


本当は、眠いというより——

こうして横になっているのが気持ちよかった。


地面が硬くないこと。

静寂が怖くないこと。

誰かが近くにいること。


それ全部が、まだ少し不思議だった。


「じゃあ、寝ていいよ」


キクはそう言って、膝を軽く叩いた。


「ほら、ここ」


「え……」


意味が分からなくて見返すと、

キクは当たり前みたいな顔をしている。


「そのほうが楽でしょ」


少し迷ってから、そっと頭を乗せた。


……近い。


思っていたより、ずっと近い。


着物の布越しに、体温が伝わってくる。

規則的な呼吸が、耳のすぐ上で揺れていた。


「重くない?」


「軽い」


即答だった。


キクの指が、私の髪に触れる。


撫でる、というより、

ほどけていないか確かめるみたいな触り方だった。


一度触れて、

少し間を置いて、

また触れる。


まるで、本当にそこにあるか確認しているみたいに。


「……雛」


「ん……」


「寝た?」


「まだ」


「そっか」


それだけ言って、また髪を撫でる。


瞼を閉じると、川の音は聞こえなかった。


代わりに聞こえるのは、

衣擦れの音と、キクの呼吸だけだった。


それが、妙に安心できて。


「雛、どこにも行かないよね」


唐突に、キクが言った。


目は開けなかった。


「行かないよ」


そう答えると、

髪を撫でる手が、ほんの少しだけ強くなった。


「……よかった」


その声は、ほとんど息みたいに小さかった。


気づいたら、本当に眠っていた。


夢は見なかった。


ただ、温度だけが残っていた。


起きたとき、

キクの手はまだ、私の髪に触れたままだった。


まるで、眠っているあいだもずっとそこにいたみたいに。


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