3話
ある日、
私は石を拾って川に投げる真似をしていた。
音は鳴らない。
でも、昔の癖だった。
「それ、なに?」
キクが覗き込む。
「遊び」
「……それが?」
「それしか、なかったから」
言ってから、
また少し恥ずかしくなる。
キクはしばらく考えて、
同じように石を拾う真似をした。
「じゃあ、それも遊びにしよ」
ぽい、と投げる。
音の代わりに、
キクが「ちゃぽん」って言った。
私は思わず笑ってしまった。
「なにそれ」
「音、ないから」
真顔で言う。
「代わりに言えばいいかなって」
くだらないのに、
おかしくて。
もう一度、投げる。
「……ちゃぽん」
今度は、私が言った。
キクが笑った。
気づけば、
白はほとんど見えなくなっていた。
景色が増えたからじゃない。
二人で使う場所が、できたからだった。
白がほとんど見えなくなった頃、
キクがふと空を見上げて言った。
「ねえ、雛」
「なに?」
「ここ、ずっと同じだね」
言われて、気づいた。
空は明るいまま変わらない。
影も動かない。
風も、時間も、どこにも進んでいない。
「……そうだね」
私はそれまで、
変わらないことに安心していた。
でもキクは、
少しだけ首を傾げる。
「外ってさ、変わるんだよ」
「変わる?」
「暑くなったり、寒くなったり。
匂いが変わったり、音が変わったり」
私は知らない。
山の記憶はあっても、
季節を“楽しむ”記憶はなかった。
ただ過ぎるものだったから。
「じゃあ」
キクが私のほうを振り向く。
「作ろっか」
「……作る?」
「うん。せっかく雛、なんでもできるんでしょ?」
その言い方が、少しだけ楽しそうで。
私は、断る理由を探せなかった。
最初に作ったのは、春だった。
キクが言う。
「花、咲かせたい」
「どんな花?」
「……雛の知らないやつ」
困った。
知らないものは作れない。
だから、
山に咲いていた小さな花を思い出して、
少しだけ色を増やした。
白。
薄い桃色。
名前のない花。
「これでいい?」
キクはしゃがみ込んで、しばらく見ていた。
それから、ひとつ頷く。
キクは花びらを一枚取って、
私の髪に挿した。
「春だから似合うよ」
「……分からない」
理由になっていないのに、
なぜか納得してしまった。
次に作ったのは、夏だった。
「水、増やそう」
川を広げた。
流れを少し速くした。
キクは迷いなく足を入れる。
「冷たい!」
私は温度を変えてないことよりも、品のあるキクが初めて年相応の子供っぽい声をだしたのを驚いた。
そして、手で水をすくって、
私にかけた。
「ちょっと……!」
驚いた拍子に、私もやり返す。
気づけば、
二人で水をかけ合っていた。
濡れる感覚なんて本当はないのに、
袖を払う真似をして笑っていた。
「夏ってこういうの!」
「子どもみたい」
「今さらでしょ」
笑い声が、
初めてこの場所に響いた気がした。
三つ目に作ったのは、秋だった。
空を高くした。
雲を薄くして、
風の音だけを少し長く残す。
キクは縁側に座って、
何も言わず外を見ていた。
私も隣に座る。
沈黙が続く。
でも、それは嫌な沈黙じゃなかった。
「静かだね」
キクが言う。
「……うん」
それだけで十分だった。
誰かと同じ方向を見ていることが、
こんなに落ち着くなんて知らなかった。
最後に作ったのは、冬だった。
「火、いるよね」
必要ないのに、
囲炉裏を作った。
火を灯す。
揺れる光だけが、
ゆっくり動いていた。
キクが手をかざす。
「ほら、冷えてる」
そう言って、
私の手を包んだ。
作った火より、そっちのほうが温かかった。
それから二人は、
何度も季節を繰り返した。
同じ春を、違う春にした。
同じ夏を、少しだけ長くした。
本当の時間は流れていないのに、
ここには確かに「過ごした時間」が積もっていった。
白しかなかった場所は、
もうどこにもなかった。
景色が増えたからじゃない。
二人で過ごした記憶が、
空間を埋めてしまったからだった。
ある日、縁側に座っていると、キクが畳の上に櫛と紐を並べていた。
「雛、こっちおいで」
「……なにしてるの?」
「遊ぶの」
遊ぶ、と言いながら、
やけに真剣な顔をしている。
私は言われるまま、キクの前に座った。
すると、キクは私の後ろへ回る。
衣擦れの音が、すぐ近くでした。
「動かないでね」
指が、髪に触れる。
……思っていたより、ずっと優しかった。
絡まったところを引っ張らない。
ほどくみたいに、なだめるみたいに、
何度も指で撫でてから櫛を通す。
さら、と小さな音がした。
「雛の髪、やわらかい」
「そう?」
「うん。触ってて楽しい」
そんな理由で触られていることが、
少しくすぐったかった。
キクは髪を持ち上げて結び始めた。
迷いがない。
結ぶたびに指が確かめるように止まって、
また動く。
「今日はね、いろんな髪型試したい」
「そんなにあるの?」
「いっぱいあるよ。外ではみんなやってた」
私は何も知らなかったから、
ただ任せるしかなかった。
最初は高い位置でまとめられた。
「できた」
「……これ、なに?」
「うさぎ」
「うさぎ?」
「耳みたいでしょ」
言われて想像したら、
変で、思わず笑ってしまう。
その瞬間、キクの手が止まった。
「雛、笑うと崩れる」
「だって変だよ」
「変じゃない」
言いながら、
もう一度、結び直す。
さっきより丁寧に。
ほどけないように、確かめるみたいに。
「……今度は?」
「似合う」
「見えないよ」
鏡を見ようと立とうとすると、
キクが、私の肩に頬を寄せた。
「私が見てるからいいの」
距離が近すぎて、
少しだけ息がくすぐったい。
でも、離れようとは思わなかった。
「次、雛の番」
今度はキクが前に座る。
キクは自分の髪をほどくと黒髪がそのまま背中に流れた、
触っていいのか少し迷った。
「……触るよ?」
「うん」
許されたので、そっと指を入れる。
「……すごい」
「なにが?」
「髪、きれい」
そう言うと、キクが少し笑った。
「雛に触られるから、ちゃんとしてる」
意味が分からなくて、
でも聞き返せなかった。
「ここを三つに分けて」
キクが手を添えて教えてくる。
そのまま、
私の手の上にキクの手が重なった。
一瞬、動けなくなる。
温かい。
ただそれだけなのに、
胸の奥が変に静かになる。
「……雛?」
「ご、ごめん」
慌てて編もうとして、
失敗する。
するするとほどけた。
キクが笑う。
「もう一回」
今度はゆっくり、
教えられた通りに指を動かす。
途中で何度も崩れて、
そのたびにやり直して、
二人で笑って。
やっと結べた頃には、
最初の形なんてどうでもよくなっていた。
「できた」
「うん」
キクは自分の髪を触って、
嬉しそうに目を細めた。
「これ、雛がやったやつ」
誇らしそうに言う。
そんな顔をされると、
失敗ばかりだったのに、
ちゃんとできた気がしてしまう。
その日から、
髪を結うのは遊びになった。
今日はどんな形にしようか、と相談して。
うまくいかなくて笑って。
ほどけても気にしなくて。
景色を作るのとは違う、
もっと小さなこと。
でもその小ささが、
なぜかいちばん楽しかった。




