1話
山神鎮撫の雛代として、私は川へ流された。
その日、私は赤い着物を着せられていた。
可愛らしい色ではない。
黒を混ぜたような、沈んだ深紅。
濡れればそのまま血に溶けそうな色だった。
遠くから見れば立派に見えるよう、金の模様が入っていた。
麻の葉の柄——健やかに育つように、という意味だと教えられた。
けれど近くで見れば、金は鈍くくすんで、ところどころ欠けている。
袖の裏には別の布が継いであって、糸の太さも揃っていなかった。
表だけを整えた着物だった。
神様への供物だから、失礼がないように。
そう言って、大人たちは何度も私の襟を直した。
箱の前に立たされたとき、村の人たちは静かだった。
泣いている人はいない。
声をかけてくる人もいない。
ただ、皆、少しだけ離れた場所から見ていた。
近づきすぎないように。
触れてしまわないように。
まるで、もう私が“こちら側のものではない”みたいに。
それでも顔は笑っていた。
安心させるような、形だけの笑顔。
「いい子だね」
「山さまも喜ぶよ」
そう言いながら、誰も私の手を握らなかった。
箱の中に敷かれた白布は、新しい匂いがした。
私のために用意されたはずなのに、どこかよそよそしい。
背を押されるでもなく、導かれるでもなく、
私は自分で中に座った。
帯は硬く、きつく締められていた。
まるで、動けないように縛られているみたいだった。
蓋が閉まる。
外の音が、急に遠くなる。
そのとき初めて、
——ああ、本当に戻れないのだと分かった。
箱が沈み、水が耳の奥まで満ちていく。
——ここで終わるはずだった。
けれど、終わらなかった。
気づけば、身体は川の“境界”に縛られていた。
どれだけ歩いても川音がついてくる。
遠ざかったと思った瞬間、背後でまた鳴る。
境を越えようとすると、皮膚が紙のように裂けた。
痛みは薄いのに、裂ける感触だけがはっきり残る。
——まるで「ここから先は、お前の場所じゃない」と言われているみたいだった。
神を探した。
山へ呼びかけ、川へ祈り、夜の空にも手を伸ばした。
だが、神はどこにもいない。
それでも村は言った。
災いは収まった、と。
私はそれを信じたかった。意味がなければ、私はここに残る理由すら失う。
河原に建てられた綺麗な石碑を見つけた夜、私は初めて泣いた。
冷たい石に指を当てて、文字をなぞる。
神巫 雛
「忘れられていない」——そう思えた。
小さい頃から、何度も言われていた。
「雛は静かでいい子だね。山さまに好かれるよ」
「無理しなくていい。雛は“雛”だから」
十年後。
私は川辺に座って、手頃な石を拾い、川へ投げていた。
沈む音を数えるだけの遊び。
そのとき、川上から“箱”が流れてきた。
最初は流木だと思った。
けれど水面を滑る形が、あまりにも整いすぎている。
角がある。蓋がある。——箱だ。
私は理解できなかった。胸が冷え、喉が詰まった。
指先が先に動いて、岸へ引き寄せてしまう。
自分が入れられていた箱は、素朴だった。
木肌がむき出しで、釘の頭が見えていた。
けれど今、目の前にある箱は違う。
丁寧に漆が塗られ、黒が水を弾いて光っている。
「私は……まだ、ここにいるのに」
息がうまく吸えなかった。
——私の役目は終わっていないはずだ。
終わってしまったら、私は何のために縛られている?
自分の存在理由が、音もなく削られていく気がした。
箱を開けたのは、私の呪いの力だった。
あの村の信仰心の強さのせいか力が強くなっているのを感じた。
手で触れる前に、糸が勝手に伸びて、蓋の隙間へ潜り込む。
軋む音。
漆の匂いが、湿った空気に混ざった。
蓋が浮く。
その隙間から見えたのは——
あまりにも整えられた、布の重なりだった。
中には、自分と同じように飾られた少女がいた。
けれど、違った。
着物は、深い青を基調にしていた。
川の底の色ではない。夜の水面のような、澄んだ藍。
染めは均一で、むらがない。
私の着ていたもののような、継ぎも、誤魔化しも見えない。
光を受けるたび、織りの中から細い糸がきらりと浮かぶ。
本物の絹だった。
袖には細やかな刺繍が入っていた。
波と、花と、細い流水紋。
どれも意味を持たせるというより——
“美しく見せるため”に整えられている。
帯は新しく、厚みがあり、結びも大きい。
儀式の固定具ではなく、見せるための形だった。
髪も丁寧に結い上げられていた。
油で整えられ、櫛目がまっすぐ通っている。
小さな簪がいくつも差してあり、揺れる飾りまでついていた。
——まるで。
祈りのためじゃない。
見られるための装いだった。
私のときは、神様に失礼がないように、だった。
この子は違う。
誰かに見せるために、飾られている。
少女は驚くでもなくこちらを見る。たったそれだけの動きでも品性を感じた。
瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
私はその少女を沈めた。
憎しみでも、嫉妬でもない。
——取り返すために。
私の役目を。私の理由を。ここに縛られる意味を。
水の中で、少女の身体は軽かった。
軽すぎて、怖かった。
指先が触れるたび、壊れ物みたいに揺れる。
私は少女の首に手を添えた。絞めるためじゃない。
浮いてこないように。
沈むように。
水が肺へ入る、その瞬間まで——逃がさないために。
「これは私の役目だ」
息が泡になって散る。
「私が、ここにいる」
少女は抵抗しなかった。
悲しそうな目だけがこちらを見ていた。
暴れるでも、睨みつけるでもない。その無抵抗がいちばん刺さった。
——なんで抵抗しないの?
何を考えているのか分からなくて不気味に思った。
その目から逃げるみたいに、私は箱へ手を伸ばした。
少女が入っていた箱を引き寄せる。
漆の匂いがした。自分の箱より、ずっと丁寧だ。
黒が水を弾いて、いまだに光っている。
そして私は、穴を見つけた。
明らかに人の手で開けられた穴。
その周りに残る、紙が剥がれた跡。
——札だ。ひとがたの札。
その瞬間、胸の奥の何かが冷たく固まった。
私は確信した。
山神は“いない”。
いたのは恐怖に名前をつける人間だけだ。
村が恐怖に名前を付け、弱い者を捧げただけだ。




