6 最終回 回想 旅の終わり
鹿児島県枕崎市《火之神公園》(ひのかみこうえん)海の見える公園。
鹿児島県、枕崎。鹿児島駅から指宿枕崎線へ乗る、路線は状態があまり良くない箇所が続く、そこを通ると『ぐわんぐわん』と体全体が揺れて、おしりが浮きそうになる。指宿温泉を抜けて、さらに行くと、きれいな巨大な三角形の開聞岳が見えてくる、天気が良い日は青空に映える。その先は海岸沿いを走るのでとても気分がいい。さらに揺られて乗っていくと、枕崎に着く。時間として2時間30分くらいで着く。
そこから、自転車で30分ぶらぶら走っていくと火之神公園キャンプ場に着き、キャンパーの人たちの横を通り過ぎる。その先の丘に行くと火之神公園に着く。目の前には、坊ノ岬沖海戦で沈んだ軍艦の紹介の掲示があったり、丘へ上げる道の両側に灯篭がいくつもあって、軍艦に関係のある団体の名前が彫ってある。記念碑がたくさんある丘へ登るとその先に柵があって、その下は崖だ。視線を海に向けると海から岩が立ち上がっている、立神岩だ。
九州最南端に近いこの断崖に立つ《火之神公園》は、東シナ海の荒波が鋭い岩礁に砕け散る、峻烈な美しさに満ちていた。
彼は手帳に挟んであった古びた写真を取り出す。近所の古い家をの整理の手伝いをしたときにその家族から、手渡された写真だ。
彼はこの写真の中にこの写真の持ち主がいたのだと思う。写真の裏にはニューギニア、ホーランディア 皇紀2605年9月と書かれていた。
夕陽で枕崎の岬が赤く照らされている。
彼は太陽が沈む坊ノ岬沖を見ながら佇む。
《いのち》は海岸の丘にある公園の記念碑と彼を残し、永遠なる宇宙の創造者の元へ帰る。
待たせたな!
おわり
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あとがき
終わらない小説に価値はない。飽きるので忘れ去られるから。しかし、終わった小説は完結のストーリーと共に記憶に残る。
終わらない物語は、出口のない迷路に似ている。
最初は壁に刻まれた見事な装飾に目を奪われ、曲がり角の先に待ち受ける未知の展開に胸を躍らせる。しかし、いつまで経っても出口が見えず、景色に変化がなくなれば、高鳴っていた鼓動はただの動悸へと変わる。期待は緩やかに摩耗し、やがて「飽き」という名の霧が思考を覆い尽くす。どれほど美しい言葉で綴られていても、終わりのない物語は日常のノイズに紛れ、いずれ忘れ去られてしまう。完結しないということは、その物語が「永遠」を手に入れたのではなく、誰の人生にも深く根を下ろせなかったという敗北の宣言に等しい。
対して、「終わり」を伴って幕を下ろした小説は、読者の記憶の中で結晶化する。
「終わり」という一点が打たれることで、それまでの膨大な言葉たちは一つの意味へと収束していく。あの時の絶望も、あの瞬間の歓喜も、すべては結末という出口へ向かうための必然だったのだと、読み手は事後的に理解する。物語の輪郭が確定し、読了という体験が血肉化されたとき、小説は単なる娯楽であることをやめ、その人の人生の一部、あるいは消えないよろこびとして刻まれる。
物語の真の価値は、「終わり」に宿る。
本を閉じた瞬間に訪れる静寂の中で、私たちはようやくその物語の全貌を抱きしめることができる。記憶に残るのは、延々と続く停滞ではなく、劇的な、あるいは静謐な、納得を伴う「終止符」なのである。
私たちの時代の物語に終わりを告げよう、次の物語のために。
新連載「悪魔とよばれる者たちの話」を始めます。




