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待たせたな!  作者: 僧籍
第五部 悪鬼・羅刹

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シベリア戦役 14-4 二人のヴァシレフスキー

シベリア戦役


二人のヴァシレフスキー


 夜、オムスクから西へ向かう街道の脇で、ヴァシレフスキーは一人、火の消えかけた暖炉の前に座っていた。外では兵士たちが眠っている。眠れない者もいる。負傷している者。

家族のことを考えている者。そして、明日も生きていられるのか考えている者。ヴァシレフスキーはそれを知っていた。知っているからこそ、眠れなかった。


 机の上には、オムスクから持ち出した地図がある。赤い線が東から西へ伸びている。ノヴォシビルスク。オムスク。その二つに大きな印がついていた。どちらも、もうソヴィエト軍の手にはない。彼は地図の上に手を置いた。そして、不意に昔の自分を思い出した。


---


 十五年前、まだ政治将校だった頃。彼は若い兵士たちの前に立っていた。兵士たちは疲れていた。泥だらけの軍服。眠っていない目。手には古い小銃。食事も十分ではなかった。それでも、ヴァシレフスキーは言った。


「諸君、我々は祖国のためにここにいる」


 兵士たちは顔を上げた。


「敵は強大に見える」


 そこで一拍置く。


「だが、敵も人間だ」


 彼は確信を込めて続けた。


「我々には祖国がある」


「我々には同志がいる」


「そして我々には、勝利する理由がある」


 兵士たちは黙って聞いていた。ヴァシレフスキーは知っていた。彼らが怖がっていることを。だが、その恐怖を言葉で押し返すのが自分の仕事だった。


「一歩も退くな」


 その言葉を言った。


「祖国が諸君を見ている」


 兵士たちは立ち上がった。誰かが叫んだ。


「ウラー!」


 それが広がる。


「ウラー!」


 ヴァシレフスキーは満足していた。あの頃の彼は、本当にそう思っていた。兵士の恐怖を消すことができる。言葉には力がある。国家には力がある。命令には力がある。そしてソヴィエトは、最後には勝つ。そう信じていた。


---


1946年


「閣下」


 声がした。ヴァシレフスキーは目を開けた。若い参謀が立っている。


「どうした?」


「前線から報告です」


「言え」


「第二線の一部が突破されました」


ヴァシレフスキーは地図を見る。


「死傷者は?」


「確認できていません」


「残存兵力は?」


「わかりません」


 彼は少し黙った。昔なら、ここで命令を出した。


「予備隊を投入しろ」


「反撃させろ」


「陣地を死守させろ」


 しかし今は違った。


「撤退させろ」


参謀が顔を上げた。


「撤退、ですか?」


「そうだ」


「ですが、命令では――」


「私が命令している」


 静かな声だった。


「部隊を戻せ」


---


 参謀が去った。ヴァシレフスキーは再び一人になった。そして、昔の自分に問いかける。

――なぜ退却させる?昔の彼なら答えただろう。


「退却は敗北だ」


 今の彼は答える。


「違う」


「退却できるうちは、軍隊はまだ死んでいない」


 昔の彼。そして今の彼。同じ人間だった。だが、二人はもう同じ戦争を見ていなかった。


---


 満洲戦役を境に、彼の中で何かが壊れた。それはソヴィエトへの忠誠ではなかった。祖国への忠誠でもない。もっと単純なものだった。言葉への信頼。


「勝利する」


「死守する」


「敵を撃退する」


「一歩も退かない」


 そんな言葉を何千回口にしてきた。だが、満洲では言葉を叫んでも戦車は動かなかった。燃料がなければ戦車はただの鉄塊だった。弾薬がなければ砲兵は沈黙した。航空機が飛べなければ、空は敵のものになった。そして兵士が疲れ果てれば、どれだけ勇敢な言葉を与えても身体は動かない。ヴァシレフスキーは初めて理解した。


精神論は、弾薬の代わりにはならない。


 それは彼が政治将校だった自分自身に突きつけた、最も残酷な結論だった。


---


 オムスクの戦場で、彼は望遠鏡を覗いた。日本軍戦車が進んでくる。その後ろに歩兵。さらに砲兵。航空機。整然としている。彼は敵を憎んでいた。当然だった。自分の兵士を殺した軍隊だ。ノヴォシビルスクを奪った軍隊だ。オムスクを奪おうとしている軍隊だ。それでも、彼は敵を過小評価しなかった。それだけが、昔の自分との大きな違いだった。政治将校だった頃なら、


「敵は士気が低い」


「帝国主義者は恐怖に支配されている」


「ソヴィエトの前に敗北する」


 そう説明しただろう。今は違う。敵が強いなら、強いと認める。敵の補給が優れているなら、そう報告する。自軍が弱いなら、弱いと認める。それを認めなければ、次に死ぬのは兵士だからだ。


---


 ある夜、若い参謀が彼に尋ねた。


「閣下」


「何だ?」


「政治将校だった頃は……違う命令を出していたのではありませんか?」


 ヴァシレフスキーは少し笑った。


「そうだな」


「では、今はなぜ?」


 彼は答えなかった。暖炉の炎を見つめる。


「昔の私は、兵士に勇気を与えることが仕事だった」


「今は?」


「今は、兵士を死なせないことが仕事だ」


 参謀は黙った。ヴァシレフスキーは続けた。


「昔は、兵士に『死ぬな』と言う必要はなかった」


「国家がそれを言ってくれると思っていたからだ」


「今は違う」


 彼は窓の外を見る。闇の中に、撤退してきた兵士たちの焚き火が見える。


「今は、私自身が言わなければならない」


「生きろ、と」


---


 翌、ヴァシレフスキーは兵士たちの前に立った。かつてと同じ光景だった。疲れた兵士。泥、銃、包帯、沈黙。彼は一瞬だけ、昔の自分を思い出した。もし十五年前の自分なら、

ここで叫ぶ。


「同志諸君!」


「祖国は諸君を見ている!」


「敵は敗北する!」


「一歩も退くな!」


 そして兵士たちを戦場へ送り出す。だが、今のヴァシレフスキーは違った。


「オムスクは失った」


 兵士たちは黙っている。


「我々は敗北した」


 誰も目を逸らさない。


「私は諸君に勝利を約束できない」


 その言葉に、何人かの兵士が顔を上げた。


「だが、一つだけ約束する」


 ヴァシレフスキーは言った。


「意味のない死は、できる限り減らす」


 風が吹いた。


「退く必要があるなら退く」


「戦う必要があるなら戦う」


「助けられる者は助ける」


「そして、生き残った者は次の戦場へ連れていく」


 彼は一人一人の顔を見た。


「私は昔、諸君に祖国のために死ねと言った」


「今は言わない」


「祖国のために、生きろ」


誰も叫ばなかった。


「ウラー」もなかった。


 だが、兵士たちは動いた。武器を取った。荷物を背負った。負傷者を担いだ。そして西へ歩き始めた。ヴァシレフスキーは、その背中を見送った。


---


 そのとき彼は理解した。政治将校だった頃の自分が完全に間違っていたわけではない。あの言葉が必要だった時代もあった。恐怖に震える兵士を立たせるためには、信じるものが必要だった。だが、それだけでは足りなかった。戦争には言葉だけではなく、鉄がいる。燃料がいる。弾薬がいる。休息がいる。そして何より、人間がいる。人間は数字ではない。師団の「一万人」ではない。戦車兵の「一名」でもない。それぞれに名前があり、家族がいて、恐怖があり、帰りたい場所がある。それを知ってしまった以上、昔のようには戻れない。


---


 ヴァシレフスキーは地図を広げた。赤い線はさらに西へ伸びている。次の防衛線。その先にはウラル。そして、その向こうにはモスクワ。彼はペンを取った。かつてなら、「死守」と書いただろう。彼はしばらく考えた。そして、その言葉を消した。代わりに別の言葉を書いた。


「時間を稼ぐ」それから、その下に小さく書き足した。


「できるだけ多く、生きて帰す」


 彼はその紙を折りたたんだ。それが、政治将校だった男が敗軍の将になって初めて見つけた、自分自身の新しい命令だった。

シベリア戦役 終


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