断章 3-1『国家安全保障情報局』諜報機関の再建
黎明の日本国諜報機関
1945年11月。
ユーラシア大陸の奥深く、日本軍がイルクーツクおよびモンゴルを征伐し、その圧倒的な版図を確固たるものにしつつあった頃。東京の陸軍省会議室には、日本の軍政・軍令の最高中枢が一堂に会していた。
会議室の正面に立つ陸軍大臣・阿南惟幾大将が会議室の皆々に語り掛けるように話を始めた。
そこに並ぶのは、日本軍総司令部総司令官・畑俊六元帥、参謀総長・梅津美治郎大将、海軍大臣・米内光政大将、軍令部総長・豊田副武大将。さらに海軍の強硬派たる軍令部次長・大西瀧治郎中将に加え、この大戦の生産、物流を司る統合兵站本部総裁・迫水紘一、そして国家の針路を司る総合国家政治戦略企画機関の代表であった。
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「これより、情報機関の抜本的再編についての最高中枢会議を始める」
阿南陸相の声が響く。彼が机上に提示したのは、陸海軍のセクショナリズムを完全に解体する、超法規的な組織改革案であった。
「現在の世界規模の戦争状況において、旧来の『陸軍参謀本部第二部』『海軍軍令部第三部』が幅を利かす、縦割りの情報機関だけでは、激変する世界情勢と高度化する防諜戦に対応しきれん。これらを完全に一つに統合する」
さらに阿南は言葉を継いだ。
「同時に、過去に陸軍大臣の管轄下にあった憲兵隊。憲兵隊を中心とした『国家保安隊』も、この新しい情報機関の一部として組み込む。各地域で活動する憲兵の網の目を、新機関の『手足』として機能させるのだ」
この提案に、参謀総長の梅津と軍令部総長の豊田が、わずかに眉をひそめた。陸海軍の壁を取り払い、さらに憲兵隊という強力な実力組織を情報機関に直結させる。それは、国家の諜報組織の構造を根底から作り変えることを意味していた。
「陸海統合、そして憲兵隊の組み込みか」
海軍大臣の米内光政が静かに呟く。
「言うは易いが、この巨大な組織を束ね、他国の老獪な諜報網と渡り合える頭脳が、果たして我が国に残されているか?」
『頭脳』はあったのだ。しかし、目覚めるべき時に眠っていた。
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中華民国のアメリカ合衆国へのロビー活動、アメリカとイギリスの対日感情の悪化、若しくは経済覇権の対立、共産勢力の台頭と英米とのつながり、さまざまな時点でその国際情勢を観察、調査、交渉、大国の行動の深い意味の洞察、日本の諸外国への影響力、戦争における戦況の予想を信頼できる情報として国際政治と戦争に利用されなければならなかった。
諜報活動はこの大戦前からすでに行われていた。しかし、一人が進めば、別の者が逆へ進む。このような状態では、正確な進路図を描けない。正しい方向へ向かうことができない。調停者が必要だったのだ。眠ることなく、分析と観察と実行する者たちが。
その頂点に、総合国家政治戦略企画機関が参加する。別部門として『情報局』が設立されて、総合国家政治戦略企画機関の応えうる人材を陸軍、海軍からもスカウトを行い、戦後、帰還艦隊にゆかりのある新・連合艦隊や《因幡の白兎》の作戦に参加した将官達も参加する。
要望される独立した個人
1 「何ものにも同一化しない」という徹底した知的態度
2 常にすべてに対して同一化することなく判断する努力をする者
3 国家という枠組み、軍人としての名誉、学問的権威、あるいは「日本は勝つべきだ」「米欧は敵だ」といった一般的な思い込み。既存のイデオロギーや固定観念から、自らの精神を完全に独立させている者。
4 情報から、国家の情念を排し、『願望』ではなく『実相』を見る者
5 官僚機構の自己保身を客観的な「障害」として分析し、軍人でありながら、武力の限界を冷徹な数式として理解し、一人の独立した人間として、目の前の事象をありのままに探索し、自らの認識によって世界の構造を捉え直そうとする「観察者」の集団の一人になりうる者
6 特定の政治思想に染まることなく、歴史や経済、精神をフラットな地平で融合させた。それは、既存のどの国家も到達し得なかった、「世界の在り方」そのものを理解しようする者。
7 既存の社会が「常識」という名の眠りに落ちている中で、唯一、覚醒した眼で世界を『観察』し、その調和的発展のための手段を考案する、孤独で強靭な知性の連帯できる者
「我々が動かなければ、敵対的国家の策略によって、何万、何千万の同胞たちの命が失われる、人々の財産、国家基盤、生命が失われる。現実に眠ることなく、国内、国外のあらゆる状態に心を静かかたむけ、内なる《魂》と対話して、何が真実であるかを選択をしろ。ベストではなく、より良い選択をしろ。」
阿南惟幾大将は、軍人が政治に関わり、積極的に介入することは断固として反対すると表明する。例として「将校団による、宇垣一成内閣の組閣阻止のための妨害」などを述べる一方、宇垣内閣が成立しても、国民党との対中交渉などはその場限りの交渉で結果など望みようもないと予想していた。満州からの日本軍の撤退などしていたら、ソヴィエトの侵入を防ぐこともできず、中国共産党による浸食を防ぐこともできなかっただろうことも理解していた。何よりも、イギリス、アメリカの野心的な覇権主義、アジアへの干渉を防ぐこともできなかったことも理解していた。
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会議の全会一致後、国家戦争遂行機関代表、内閣総理大臣鈴木貫太郎と内閣の許諾を得た後、天皇陛下の許可のもとに日本の諜報機関は生まれ変わった。
陸海軍の垣根を取り払い、国内から大陸、そして世界へと張り巡らされる膨大な情報網。そして憲兵隊という牙を併せ持つ、文字通りの攻勢的諜報組織。その頂点に、総合国家政治戦略企画機関が参加する。東京に冷たい風が吹く中、新組織は静かに、しかし恐るべき速度で機能を開始した。他国の諜報機関が、この「新生・日本情報機関」の真の恐ろしさを知るまでに、さほどの時間はかからなかった。
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戦前から日本陸軍情報部はイギリスの陸軍情報部、SISまたはMI6、ソヴィエトのNKVD、赤軍参謀本部諜報総局、アメリカの諜報機関とも引けをとらなかった。しかし、日本陸軍参謀本部においてはエリート主義の作戦課によって、情報部によってもたらされた、大変重要な国際情報の分析結果と戦争の予測情報を最大限に役立てることを行わず、葬られた。そして、海軍情報部においても、規模が陸軍情報部よりも規模が小さく、また、防諜体制に問題があった。陸軍憲兵隊は当時から防諜の役割を担っていた。検閲などによって、外国勢力の浸透や情報収取を見張っていた。
■ 情報が作戦を裁く日
国家安全保障情報局が発足してから、わずか数か月。東京・第一生命館に設けられたその庁舎には、陸軍参謀本部とも海軍軍令部とも異なる、奇妙な緊張感が漂っていた。そこには軍服姿の将校もいれば、背広を着た外交官もいた。大学から招かれた歴史学者。金融市場を専門とする経済学者。鉄道網を研究する技術官。ロシア語、中国語、英語、フランス語、モンゴル語を操る通訳官。そして、かつて陸軍情報部、海軍情報部、憲兵隊で勤務していた者たち。
彼らを結びつけていたものは、軍歴でも学閥でもなかった。「自分の所属する組織に都合の悪い情報であっても、そのまま上申する」という、極めて単純で、しかし軍隊という組織にとっては難しい原則だった。
■ 「作戦課は情報を必要としているのか」
ある日、国家安全保障情報局に陸軍参謀本部から一つの作戦案が届けられた。北方方面における大規模な軍事行動。作戦案そのものは、軍事的には整然としていた。
兵力 輸送能力 補給計画 鉄道輸送 航空支援
すべてが数字によって計算されている。だが、情報局の分析官たちは、その計画書を読んだ瞬間に一つの疑問を抱いた。
「前提となっている敵情が、古い」
敵軍の編成が変化している。鉄道輸送能力にも変化がある。燃料備蓄量についても、従来の推定値と実際の市場データが一致していない。さらに、現地から送られてきた複数の報告には、軍事施設周辺の人口移動に関する小さな変化が記録されていた。どれも決定的な証拠ではない。しかし、複数の情報を組み合わせると、作戦計画が想定している情勢と現実との間に、無視できない差が生じていた。
局長は報告書を閉じた。
「参謀本部へ返す」
副局長が顔を上げる。
「修正要求ですか?」
「違う」
局長は首を振った。
「情報上の疑義を付したまま返す。最終判断は参謀本部に任せる」
それが、新しい情報機関の基本姿勢だった。
■ 情報局は「作戦部の敵」なのか
数日後、参謀本部との合同会議が開かれた。作戦課の将校が資料を机に置いた。
「情報局は、我々の作戦計画に干渉するつもりか」
情報局長は静かに答えた。
「干渉ではありません」
「では何だ」
「検証です」
室内が静まり返った。
「作戦課には作戦課の責任がある。情報局には情報局の責任がある。作戦課が作戦を立案することを、我々は否定しない」
「ならば、なぜ異議を挟む?」
「作戦計画が情報に基づく以上、その情報が変化したならば、計画も再検討されるべきだからです」
将校は不満そうに資料を閉じた。
「戦場では、すべてが確実に分かるわけではない」
「その通りです」
「ならば、最後は決断するしかない」
「それも、その通りです」
局長は一枚の紙を差し出した。
「だからこそ、決断する人間には、何が分かっていて、何が分かっていないのかを知らせなければならない」
その言葉に、誰も反論できなかった。
■ 「情報が間違っている」のではない
国家安全保障情報局では、情報を三種類に分類する制度が定められた。
確定情報。複数の独立した情報源によって確認された事実。
蓋然情報。一定の根拠があるものの、完全な確認には至っていない情報。
推測情報。分析官による仮説であり、今後の検証が必要なもの。
以前の軍隊では、これらが一枚の報告書の中に混在することが珍しくなかった。
そして、上級司令官が欲しい情報だけを取り出せば、いつの間にか「確定した敵情」に変わってしまう。新制度では、それを許さなかった。推測を事実として記載することは禁止された。不都合な情報を削除することも禁止された。情報源の信頼性について疑問があれば、その疑問そのものを報告書に残す。そして、分析官が上級者の意向に合わせて結論を変更することも、重大な規律違反とされた。
■ 作戦を止める権限
しかし、ここにはさらに大きな問題があった。国家安全保障情報局は、作戦そのものを停止させる権限を持つべきなのか。議論は激しくなった。陸軍側からは、
「軍令への文民的介入につながる」
という意見が出た。海軍側からは、
「情報官僚が作戦指揮を理解できるのか」
という疑問が出た。一方、情報局側は、
「重大な前提条件が崩れていると判断した場合、それを黙って見過ごすことこそ職務放棄だ」と主張した。最終的に採用されたのは、その中間だった。情報局には、作戦を直接指揮する権限は与えない。しかし、重大な情報上の矛盾を発見した場合、作戦計画に対して正式な再検討要求を提出する権限が与えられた。
作戦部は、それを拒否することもできる。ただし、拒否した場合には、その理由を文書化しなければならない。そして、その文書は総合国家政治戦略企画機関と国家安全保障情報局の双方に保存される。つまり、作戦課は自由に決断できる。
しかし、「なぜ、その情報を無視したのか」については主権者に対して説明する責任を負う。
では主権者とは一体誰を指すのか?
唯一の方である。
■ 過去への反省
制度を設計した阿南惟幾は、会議の最後にこう語った。
「我々は、情報がなかった時代を悔いているのではない」
「……」
「情報はあった」
誰も口を挟まなかった。
「報告書もあった。警告もあった。異論を唱えた者もいた」
阿南はゆっくりと資料をめくった。
「問題は、それらが組織の意思決定に届かなかったことだ」
そして、さらに続けた。
「だから新しい制度では、情報を集めるだけでは不十分だ」
「情報が、作戦立案者の耳に届かなければならない」
「そして、作戦立案者がそれを無視したならば、無視したという事実そのものが記録されなければならない」
それが、新生日本情報機関の最大の改革だった。
■ 世界を見る者たち
そのころ、国家安全保障情報局の海外分析部では、別の仕事が始まっていた。
ワシントン ロンドン モスクワ 重慶 南京
上海 そして、ヨーロッパ各国
そこから送られてくる公開情報、外交報告、経済統計、新聞、議会記録、企業情報、学術資料。それらが一つの巨大な情報地図へと統合されていった。分析官たちは、国家そのものを見るのではなく、国家と国家の間に生じる変化を見ようとした。
アメリカの対中政策が変化する。
イギリスのアジア政策が変化する。
ソヴィエトの軍需生産が増加する。
中国の政財界で新しい勢力が台頭する。
市場が変化する。
人々が移動する。
鉄道が伸びる。
港が拡張される。
大学で新しい研究が始まる。
その一つ一つは、小さな変化に過ぎない。だが、それらを十年単位で眺めれば、国家の進路そのものが浮かび上がってくる。
■ PACLDDへの指令
そして、その巨大な分析網を支えるため、奉天から一通の文書が届いた。差出人は、まだ正式名称すら決定していない新組織だった。後に、汎反共産リベラル防衛部――PACLDDと呼ばれることになる機関である。文書には、簡潔な命令が記されていた。
「秘密を探す前に、公開された事実を集めよ。」
続いて、
「市場を観察せよ。」
「人の移動を観察せよ。」
「鉄道と港を観察せよ。」
「各国政府が何を発表しているかを記録せよ。」
そして最後に、
「観察した事実と、そこから導いた推論を混同するな。」
と記されていた。
PACLDDは、国家安全保障情報局の「手足」であると同時に、その情報局自身が見落とす可能性のある変化を拾い上げる、巨大な観測網となっていった。
ハルビン。
奉天。
ウランバートル。
三都市を起点に、大陸の各地へ情報の網が広がっていく。
■ 日本の諜報機関が恐れたもの
やがて外国の情報機関も、この変化に気づき始めた。日本には、以前から情報機関が存在していた。陸軍情報部には優秀な人材がいた。海軍情報部にも専門家がいた。憲兵隊には広範な防諜能力があった。しかし、新しい組織は、それらとは性質が違っていた。
陸軍だけでもない。
海軍だけでもない。
憲兵だけでもない。
外交官だけでもない。
学者だけでもない。
それらを一つの分析体系に接続する組織だった。そして、その中心にいる人間たちは、自分たちの組織を絶対視しないよう訓練されていた。
「日本に都合のいい情報」ではなく、
「日本にとって重要な情報」を求める。
「勝てる理由」ではなく、
「勝てない可能性」を探す。
「敵が弱い証拠」だけではなく、
「敵が強い証拠」も同じ机の上に置く。
それが、新生日本情報機関の文化になっていった。そして、その文化こそが、従来の参謀本部型情報組織との最大の違いとなった。
■ 眠らない観察者
1946年の冬。
東京の国家安全保障情報局では、深夜になっても明かりが消えることはなかった。一人の分析官が、窓の外を見ながら呟いた。
「世界は、我々が思っているよりも速く変化している」
隣の同僚が答えた。
「だから眠れない」
「違う」
分析官は首を振った。
「眠らないためではない」
そして机の上の膨大な資料に視線を戻した。
「眠ったまま決断しないためだ」
その言葉を聞いた局長は、何も言わなかった。ただ、新しい報告書の表紙に日付を記した。日本の諜報機関にとって、この日は特別な日ではなかった。戦争に勝つための情報機関が生まれた日でもない。敵を打ち倒すためだけの組織が生まれた日でもない。それは、国家が自らの願望によって現実を歪めないための仕組みが、ようやく形になった日だった。
そして大陸の北方では、PACLDDの分析官が一冊の新聞を開いていた。そこには、誰も気に留めないほど小さな経済記事が掲載されていた。
彼は記事を切り抜き、資料番号を付けた。その情報が何を意味するのか、まだ誰にも分からない。だからこそ、記録する。やがて十枚、百枚、千枚の小さな事実が積み重なったとき、それは国家の進路を示す一枚の地図になる。
新生日本情報機関の戦いとは、敵を見つける戦いではなかった。世界を、願望ではなく実相として見るための戦いだった。




