清津の惨劇 悪鬼羅刹の蛮行 5-1 ソヴィエト軍の朝鮮への進軍
1945年8月、朝鮮半島北部に進出したソ連軍は、第25軍(チスチャコフ将軍指揮)を主力とし、満州侵攻の側面支援および主要拠点の占領を目的に行動した。
進攻開始と初期の戦闘(8月9日〜8月15日)
* 参戦直後: 8月9日の対日参戦と同時に、ソ連軍は朝鮮北東部の国境を越え、爆撃と地上部隊による進攻を開始した 。
* 主要港湾への攻撃: 第1極東方面軍のメレツコフ元帥は、朝鮮北部の主要港を占領するよう命じた。太平洋艦隊と連携し、雄基、羅津、清津などの重要拠点を相次いで攻撃・占領した 。
* 清津の戦闘: 8月13日にソ連太平洋艦隊の部隊が清津に上陸し、日本軍の激しい抵抗を受けましたが、16日までには制圧を完了した 。
北方本国軍の上陸前までの進軍と拡大(8月16日〜8月末)
* 本格的な進駐: ソ連軍は進撃を止めず、16日以降に朝鮮半島内へ本格的な侵攻を継続した。
* 主要都市の占領:
* 元山: 8月21日に平定。
* 平壌: 8月24日に進駐。
* 新義州: 8月29日までに到達。
* 8月末までに朝鮮のほぼ全域を制圧した。
軍政の開始と政治工作
* ソ連軍は、ソ連軍人として養われていたパルチザン・グループを伴って進駐し、親ソ政権の樹立に向けた布石を打ちだした 。
* 治安維持: 第25軍司令官チスチャコフは、日本植民地統治の遺掃と共産主義の強化を掲げる布告を出し、朝鮮建国準備委員会などの地方組織を利用して統治体制を整え始めた 。
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1945年8月における羅先(当時の羅津・先鋒)は、朝鮮半島の北東端に位置し、満州と日本本土を結ぶ「最短の補給線(海陸連絡)」の結節点として、軍事・物流の両面で死活的に重要な戦略拠点だった。
羅津の陥落:朝鮮半島の北門が破られた日
一九四五年八月。羅津は、日本海を隔てて本土の敦賀や新潟と繋がる「日本海の玄関口」であり、満州の資源を運び出し、内地からの増援を送り込むための巨大な兵站基地だった。しかし、その戦略的重要性が、そのまま悲劇の規模を決定づけることになる。
8月12日
霧の深い羅津湾に、不気味な鋼鉄の影が次々と現れた。ソ連太平洋艦隊の巡洋艦や駆逐艦が放つ艦砲射撃は、近代的な設備を誇った羅津港のクレーンや倉庫群を一瞬にして火の海に変えました。
「海から……海からソ連軍が来るぞ!」
港湾労働者や軍属たちの悲鳴が上がる中、爆煙を突いてソ連軍の魚雷艇と上陸用舟艇が殺到する。海軍歩兵部隊による上陸作戦だ。日本海側の防衛は、陸軍の主力が満州内部に引き抜かれていたため、あまりにも手薄でだった。
羅津が占領されたことは、単なる一都市の喪失ではなかった。
満州から朝鮮半島を経由して日本本土へ逃れようとしていた数万の避難民にとって、もっとも確実な「脱出口」が完全に塞がれた。
南下する第一極東方面軍と連携し、ソ連太平洋艦隊は羅津・先鋒を拠点として、朝鮮東岸の鉄道網を寸断。これにより、朝鮮軍(第17方面軍)は頭部を切り落とされた蛇のように、組織的な統制を失った。
街になだれ込んだソ連兵たちの行動は、牡丹江や松花江で見られたものと同じ、あるいはそれ以上に過酷なものだった。
羅津は当時、日本の資本が投じられた近代都市であり、物資が豊富だった。それゆえに、ソ連兵による略奪の規模も凄まじいものだった。
「ダワイ!」という怒号とともに、民間人の家々は打ち破られ、衣服、宝石、そして時計が組織的に奪い取られた。抵抗する者はその場で射殺され、埠頭には逃げ遅れた避難民の遺体が、波に洗われて漂っていた。
かつて「大東亜の玄関」と謳われた羅津の街は、いまやソ連軍の南進を支える前線基地へと変貌した。
港に翻る日章旗は引き裂かれ、代わりに赤い旗が掲げられた。しかし、瓦礫の陰に隠れ、あるいは山中に逃げ込んだ日本兵や民間人たちは、絶望の瞳で水平線の彼方を見つめていた。




