大西洋の風:二人の司令官
異郷の海 バハマ諸島の南西沖、キューバの北東付近 1946年7月
パナマを通過した艦隊を待っていたのは、太平洋のそれとは明らかに異なる、深く、重い藍色をした大西洋の波濤であった。 見渡す限りの水平線。この海の向こうには、かつて日本海軍が到達することなど夢想だにしなかったアメリカ東海岸が繋がっている。
伊藤整一司令官は、艦橋の窓際に立ち、刻々と変わる海の色を静かに見つめていた。その横顔には、高揚感よりも、背負わされた運命の巨大さに対する戸惑いと、深い畏怖の色が滲んでいた。
「……大西洋か。まさか、我ら帝国海軍がこの海を征く日が来るとはな」
伊藤は、隣に立つ《帰還艦隊》の司令官へ語りかけるでもなく、独り言のように呟いた。
「我々は太平洋での『迎撃』を教義として歩んできた。この艦も、そのために造られた。だが今、我々は故郷から18600kmも離れ、世界の裏側の海を走っている。……正直に言えば、このあまりの遠さに、足元が覚束なくなるような感覚を覚える。この海の先で我々が成そうとしていることは実現できるのか、我々は自らを制御できない領域に踏み込もうとしているのではないか……」
その声には、時代の断絶を一人で埋めようとする、現場指揮官としての孤独な苦悩が混じっていた。
《帰還艦隊》司令官は、伊藤の視線の先にある、夕闇に沈み始めた水平線を見つめ返した。彼は知っていた。この海戦に敗れれば、日本の国土を優しく包む平和な夕焼けではなく、すべてを焼き尽くす劫火で覆いつぶされることを。
「伊藤長官。君が感じているその震えは、この歴史に生きる人間として、あまりに正しい反応だ」
《帰還艦隊》司令官は、伊藤にそっと視線を向け、静かに、しかし鋼のような強さを持って言葉を継いだ。
「……案ずるな。君たちが救うのは、この時代の日本だけではない。人類の尊厳だ」
伊藤が言葉を失い、未来の司令官を直視した。
「尊厳、だと……?」
伊藤司令官は、水平線の彼方にアメリカを思い、声を震わせました。
「……見てくれ、あそこにいるのは、我らと同じように海に生き、国を思う若者たちだ。我々と彼らが戦えば今までの様に双方に甚大な死者がでるだろう。 戦うことは武人の本懐だが、この『大量死』に導く力が、本当に天の理にかなっているのか? 我々の勝利の後に残るのは、血に染まった静寂だけではないのか。私は、この引き金を引くことが恐ろしいのだ」
かつて親族との戦いを前に弓を置いた古代の神話の戦士のように、伊藤は「この大戦の最後の戦い」への倫理的葛藤に、その心を苛まれていました。
義務、使命、尊厳
《帰還艦隊》司令官は、微動だにせず海を見つめたまま、静かに口を開きました。その声には、時代を達観した者の「冷徹な慈愛」が宿っていました。
「伊藤長官。君が見ているのは『今、この瞬間の生』に過ぎない。しかし、私の目は『起こるべきだった残酷な未来』を見ている。 今、君が戦わなければ、あそこにいる者たちは生き残るかもしれない。しかし、その数ヶ月後、数十年後、百年後、君の愛する家族も、彼らの家族も、そして人類の心さえもが炎によって焼き尽くされる。それは『戦い』ですらない、救いようのない虚無の到来だ」
彼は一歩、伊藤に歩み寄りました。
「君は殺生を厭うているが、生命は不滅であり、歴史のうねりは止まらない。君は今、一人の将軍として戦っているのではない。果ての無い狂った欲望で『壊れつつある世界』を修復し、世界をあるべき秩序へ戻すための、この世界の存在の断片なのだ」
司令官の言葉は、熱を帯びていきます。
「敵軍を憎む必要はない。しかし、彼らが知らずに背負っている『破滅の火』は、ここで断ち切らねばならない。それが今、この瞬間に生きるあなた達に課せられた義務だ。 自らの行為の結果に執着してはいけない。勝敗や名誉のためではなく、ただ『なされるべきこと』として撃つのだ」
「武器を持たない何十万もの市民が、一瞬にして光の中に消える……そんな未来を、時空を越えてきた私は見てきた。それは戦争ですらない、ただの虐殺だ。それを防ぐために、我々は今、この未知の海を突き進んでいる。我々の一撃は、単なる弾丸ではない。理不尽な絶望を拒絶する、人間の意志そのものなのだ」
そして、彼は伊藤の瞳を真っ直ぐに見つめ、そして、再び同じ言葉を贈りました。
「君たちが救うのは、この時代の日本だけではない。人類の尊厳だ」
カリブ海の海風が心地よく艦橋を吹き抜ける。伊藤の瞳からは迷いが消えていた。《帰還艦隊》 司令官が語った「人類の尊厳」という言葉が、時代を超えた重みを持って、彼の胸に深く突き刺さったからだ。
「……そうか。ならば、征かねばならんな」
伊藤は深く頷くと、前方の戦艦『陸奥』の主砲と艦首の威容を見据え、力強く命じた。
「全艦、最大戦速。我らの手で、未来を守り抜くぞ」




