ノイズ
読んで頂き、ありがとうございます。
新展開スタートです。
詩音は「この世界」に別れを告げることを、後からやってきた王女と国王・王妃に告げた。
王女は拒否しかけるも、詩音の覚悟が決まっていることを悟ると、涙ながらに送り出してくれた。
「ここが、私たちの『神社』。境界ノ社だよ」
不思議な門を紗蘭に手を引かれながら歩き、抜けた先。
そよそよと新緑の匂いが香る中、大きな本殿が姿を見せる。
境内には龍の角の生えた水色の髪の、着物の男性。
詩音が夢枕で見たことのあるものだった。
「確か、梗矢の死を教えてくださった……」
はっきりしている記憶の最後の方。そこにある姿と一致する。名前までは分からなかったが、寸分たがわぬ姿で詩音たちを出迎えてくれた。
「……ああ、記憶が欠けているんだね」
少し悲しげな瞳で詩音を見つめる龍神は、改めて名を教えてくれた。
天水分尊、通称ミクマ。
「ミクマ、様……」
まだしっくりきてはいなかったが、恩人の名を忘れないようにしよう。詩音はそう思った。
「梗矢くんが亡くなってから数えると、もう5年も経つんだけどね」
苦笑いしながらミクマが答えると、詩音は目を丸くした。
たった5年!?
私がシオン・エルフェンリートとして過ごしてきた18年が、こっちではたった5年だというのか。
時の流れの違いが、詩音を不安にさせる。
「正確には、梗矢くんが死んだのが5年前、詩音ちゃんが死んだのは……2年前だね」
もっとすごい情報に上書きされ、詩音は理解が追いつかなくなる。
訂正するとつまり、ここの2年が転生後の世界の18年。
転生後の世界、どれだけ時の流れが早いんだ……。
そして、空白の3年。一体自分は何をしていたのか。
転生後、違和感はあった。
前世より圧倒的に体が軽かったし、実戦なんてしたことがなかった筈なのに、体が全く問題なく動いた。
空白の3年間にその答えがあるのだろう。
そして、紗蘭と皐月との出会いも、きっとそこだ。
「……色々教えてください」
詩音は頭を下げる。
だが。
「私が色々語るより、自分で体験して思い出した方がいいよ」
と、ミクマにやんわりと断られてしまう。
「そうですね。詩音ちゃんはそういうタイプだ」
皐月も同意した。
「私は色々話したいよ!詩音にいっぱい聞いてほしいことあるし!」
フォローするように、紗蘭は手を挙げる。
後ろで、桔梗がため息をついた。
詩音はまだ桔梗のことが何も分からなかった。
明らかに自分のことを知っていそうなのに、あえて何も語らない。
なのに、戦闘になると妙に頼れるというか……。
そこが不思議で仕方がなかった。
紗蘭に案内されながら、台所、広間、医務室など、様々な部屋を見ていく詩音。
だが、なかなか思い出せることはない。
そして最後に案内されたのが、前世の自分の部屋だった。
「ここで3年、過ごしてたんだよ」
紗蘭にそう言われ、ゆっくり部屋を眺める。
2年も放置された割には、埃を被っていない。きっとここの誰かが掃除してくれていたのだろう。
自分はさほど物を持たない主義だったので、懐かしいものと言えば、鏡台の隅に置かれた家族写真と、床の間に置かれた弟の形見の木刀、それに自分の練習用の薙刀くらいだった。
その奥に、一着の服と靴のセット。
巫女服っぽいのだが、インナーに黒のノースリーブのタートルネック、脇の空いた袖、スリットの入った袴、少しヒールのあるロングブーツ。
ボロボロになったのであろう。何度も繕った跡があった。
ふと、その服を見ていると、涙が一筋。
無意識の涙だった。
「詩音!?大丈夫!?」
そのまま涙が止まらなくなり、ハンカチで拭う。
まだ何故かは分からないけれど、胸に込み上げてくるものを抑えられない。
「ふっ……ぅ……」
弟の死以来、久しぶりの涙。
本人は知る由もないが、転生して記憶を失う前から通算しても、久々に泣いた瞬間であった。
妙な懐かしさと、安心感。それが詩音を襲ったものであった。
「……袖、通していいか?」
ひとしきり泣いた後、紗蘭に尋ねる。
「いいも何も。あれは詩音の服だよ」
私も久しぶりに見たい、と紗蘭はうきうきしていた。
部屋の扉を閉め、卒業パーティーで着ていた騎士の衣装を脱ぐ。窮屈だった為、開放感がすごかった。
記憶が無くても、体がこの服の着方を覚えている。インナーを着、着物を合わせ、グローブをはめ、袖を通し――
ぴったりだった。
転生して少しは体型が変わっているかと思ったが、そんなことは無かった。
襖を空け、紗蘭に見せる。彼女ははち切れんばかりの笑みを浮かべ、
「やっぱり私の知ってる詩音はその格好じゃないと!」
と語った。
その様子を語る紗蘭を見て、詩音は少しだけ違和感を覚えた。
「そういえば紗蘭……少し顔立ちが変わったか?」
自分の記憶の紗蘭より、なんだか大人びたような……。
それはそうか、2年経っているのだから。
「詩音に追いついちゃったからね。年齢」
紗蘭も18歳になったのか。どおりで。
にしし、とイタズラっぽく笑う紗蘭。
「さ、みんなにも見せに行こう!」
彼女は嬉しそうに、詩音の背を押しながら広間に戻って行った。
ちょうど夕餉の時間だったらしく、この日は宴会だった。
詩音の帰還を祝う宴だ。
龍の子たちも、詩音の帰還を心待ちにしていたようで、広間に入るなり大勢の子たちに出迎えられた。
一人ひとりに「ただいま」だの「心配かけたな」だの、声をかけていく詩音。記憶はまだ戻っていないが、それでも待ってくれた子たちの期待は裏切れなかった。
「はぁー!今日はお酒が美味しい〜」
顔を真っ赤にしながら、皐月は猪口に清酒を注いでいく。
普段飲酒をしないだけに、鯛の煮付けを肴に飲む皐月の姿を見るのは新鮮で、紗蘭は「ほどほどにね」と声をかける。
一方、上品に食事を進めるミクマも、よく見れば大量の酒を空けているのだが、全く顔色が変わらない。ウワバミだろうか。
紗蘭は小さい口でちまちまと料理を食べすすめながら、ちらちらと詩音を見ては「美味しい?」「日本食、久しぶりでしょ?」と声をかけてくる。
確かに、日本食はとても久しぶりだった。
箸の使い方は流石に覚えていた。出汁の香るみそ汁や、銀シャリの艶、大きな煮付けの照り。
見ているだけでも食欲をそそられる。
一方、桔梗もご飯はバクバクと食べていたが、酒には手を付けていなかった。
「桔梗、いちおう今年で20歳でしょ?お酒飲めないの?」
紗蘭が尋ねる。
「死んでんだから年齢変わんないだろ。俺は永遠の18歳でいいんだよ」
「うわ、発言がオッサン」
「んだと!?」
紗蘭はニヤニヤしながら、徳利を持った。
「そんなこと言って、お酒弱いんでしょ?」
「弱くねえ」
「なら飲めるでしょ?」
「お前な、それ何らかのハラスメントになるぞ」
飲める、飲めないの応酬を続ける2人。皐月は「いいぞー、やれやれー」などと煽っている。
「すまないね、詩音ちゃん。帰還早々やかましくて」
ミクマが苦笑いしながら言うが、あまり申し訳なさそうな素振りはない。むしろ、この空気を楽しんでいる。
「いえ……」
ただ、あまり空気に馴染めていないのか、詩音は少し萎縮していた。
それだけ向こうでの18年が長すぎたのだろう。人との馴染み方を忘れてしまうというのは。
「あー、もう!上等だ!」
そこに、イライラしながら桔梗が立ち上がると、紗蘭から徳利を奪った。
そして、徳利から直接酒をあおり出す。
「そんなに一気に飲んで大丈夫!?」
煽った本人が言うのも難だが、紗蘭が心配そうにおろおろしだした。冗談のつもりだったのだろう。
皐月に至っては「そーれイッキ、イッキ」と逆にコールまで始めてしまっている。
皐月のコールに合わせて、桔梗は徳利を飲み干した。
すると、一気に顔が真っ赤になる。
「あれ、もう酔ったっぽいね」
ミクマが言った時には、「次持ってこい、次!」と竜の子に徳利をけしかけていた。
そして更にもう1本飲み干す。
「ぷはあっ!」
だん、と強めの力で徳利を置いた桔梗は完全に目が据わっており、焦点の合わない目で辺りを見回した。
そして、たまたまその様子をずっと眺めていた詩音と目が合う。
「おまえ……」
「な、何……」
たじろぐ詩音。
桔梗はふらふらと彼女に近づくと、目の前にどかっと座った。
詩音が距離を置こうとするが、桔梗はその分距離を詰めてくる。
やがて、背に襖が当たる。
すると桔梗は詩音の両手首を掴み、襖に押し付けた。
いわゆる、壁ドンの体勢である。
「なんで、おれだけ覚えてないんだよ……」
桔梗は涙目でそう言う。
よほど応えていたのであろう。酒の力で放たれた本音が、詩音の胸にちくりと刺さる。
「……すまない」
それでも、やはり覚えていないものは覚えていない。
詩音は目を伏せ、謝ることしかできない。
それが桔梗の癪に障った。
「こうすりゃ、思い出すかもな!」
そう言うと。
桔梗は詩音に顔を近づけ、そのまま唇を重ねた。
「……っ!?」
「ちょっと、桔梗!?」
紗蘭は顔を真っ赤にしながら、手で覆いつつ、指の隙間からその様子を見てしまう。
何度も何度も、執拗に。舌を絡ませながら、長い時間たっぷりと。
「ん……ぁ……っ……」
詩音の喘ぐ声が艶めかしい。頬を真っ赤に染めながら抵抗しようとしているが、よほど桔梗の力が強いのか、抜け出せない。
皐月もミクマも、呆然とその様子を眺めていたが、ミクマは教育に悪いと龍の子たちを慌てて退散させた。
詩音は一瞬何事か分からず、思考が真っ白になる。
触れた感触。 息の近さ。 心臓の鼓動。
そのすべてが、初めてではないと、告げていた。
――誰かと、こうしたことがある。
でも。
(……誰だ……?)
頭の奥で、何かが引っかかる。
伸ばせば届きそうなのに、 その直前で霧散する記憶。
「……っ、は……」
それが終わっても、桔梗は腕を掴んだまま離さなかった。
「ちょっと桔梗!詩音に何してんのよ!?」
我に返った紗蘭が、ものすごい剣幕で桔梗に詰め寄る。
「こうすりゃ、おもいらふと……」
だが、桔梗の呂律が段々回らなくなり……。
そのまま詩音に覆いかぶさるように倒れ込んでしまう。
「詩音、大丈夫!?」
紗蘭は倒れた桔梗より、詩音の方を心配した。
当の詩音本人は、呆然としながら、先ほどまで重ねられていた唇に手を当てる。
「私……」
少し考え込むようにしてから。
「前も、誰かと、こうして……」
唯一違ったのは、舌にひりつく魔力の感覚。
それが目の前の彼なのかは、やはり分からない。
紗蘭は困ったように少し唸るが、彼女の胸に顔を埋めている酔っ払いを見た瞬間、頭に血が上る。
「とりあえず離れなさい!このセクハラ男!!」
紗蘭が桔梗を引き剥がす。
完全に気絶している桔梗はぐったりと畳に転がった。
「うわー、やっちゃったねぇ」
「やっちゃったじゃ済まないでしょこれ!?」
皐月の軽口に、紗蘭が本気で怒鳴る。
「まぁまぁ」
ミクマが静かに口を開く。
「今は詩音ちゃんの方が優先だよ」
その一言で、場の空気が少し落ち着いた。
「……変なんだ」
ぽつりと、詩音が呟く。
「感触は、覚えている」
自分の唇に触れる。
「でも……そこにいるはずの相手だけが、いない」
紗蘭が息を呑む。
「思い出そうとすると……」
視線が、無意識に桔梗へ向く。
「……頭が、痛む」
ずきり、と鈍い痛みが走る。
「まるで……そこだけ、消されているみたいなんだ」
「詩音……」
紗蘭はその場面を知っている。だからこそ、教えてあげたかったが……。
言葉にしようとした瞬間、皐月に肩を叩かれる。
彼は何も言わず、首を横に振る。
「……だろうな」
すると、気絶していたはずの桔梗が、低く呟いた。
「桔梗!?起きてたの!?」
紗蘭が驚く。
「……半分な」
ゆっくりと起き上がる桔梗。
だが、詩音を見ない。
「無理に思い出すな」
そして短く、それだけ言った。
「え……?」
「どうせ今は無理だ」
そう言って立ち上がる。
「……そのうち、勝手に戻る」
酔いが覚めたのか、桔梗はぶっきらぼうに言い残し、そのまま部屋を出ていった。
宴も酣、皆が解散してから。
そよそよと凪ぐ夜風にあたりながら、詩音はぼんやりと月を眺めていた。
朧月。明日は雨になりそうだ。
「……詩音」
縁側に座る詩音の隣に、紗蘭がそっと腰を下ろした。
「……大丈夫?」
その声は、いつもよりずっと小さかった。
「……ああ」
詩音は短く答える。
だが、その視線はどこか遠くを見ていた。
「正直に言えば、整理はついていないがな」
苦笑する。
「記憶も……感覚も、ちぐはぐだ」
自分の胸元に手を当てる。
「ここは、覚えていると言っているのに」
次にこつん、と頭を軽く叩く。
「頭が、それを否定する」
紗蘭は黙って、その言葉を聞いていた。
「……でもさ」
そして、少しだけ前を向く。
「それでも、いいよ」
「……?」
詩音が視線を向ける。
「全部思い出さなくても」
紗蘭は、少しだけ笑った。
「今ここにいる詩音が、全部だもん」
その言葉は、驚くほどまっすぐだった。
「……怖くないのか」
詩音はぽつりと問う。
「また、変わるかもしれないぞ」
「うん、変わると思う」
即答だった。
「でも、それでもいい」
紗蘭は、そっと詩音の手を取る。
「だってさ」
少しだけ、声が震えた。
「また会えたから」
その一言に、詩音は何も返せなかった。
ただ、その手の温もりだけはやけに懐かしかった。
その後、紗蘭はもう寝ると言って去っていった。
詩音はまだ眠る気になれず、またぼんやりと月を眺める。
明日には、ここで何をするか教わるだろうか。
記憶はもどるのだろうか。
様々な不安が胸をよぎる。
すると。
「……眠れない?」
背後から声がした。
振り返ると、皐月が壁にもたれていた。
「まあな」
詩音は軽く肩をすくめる。
「色々ありすぎて」
「だろうねぇ」
皐月は苦笑する。
「いきなりキスされるし」
「……それは言うな」
不貞腐れる詩音に、皐月はくくっと笑った。
「でもさ」
すると、少しだけ真面目な顔になる。
「どうだった?」
「……何がだ」
「思い出しそうだった?」
詩音は、少しだけ黙る。
「……感覚はあった」
やがて、ぽつりと答えた。
「だが、誰だったのかが思い出せない」
「さっきもそう言ってたね」
「ああ」
目を閉じる。
「そこに誰かがいるはずなのに、それだけが抜けている」
皐月は小さく息を吐いた。
「……なるほどね」
「何か知っているのか」
詩音が問う。
皐月は少しだけ考えてから――
「知ってるよ」
あっさりと言った。
「……なら」
「でも言わない」
皐月はイタズラっぽくそう言う。
「は?」
「ヒントは出すけど、答えは出さない。その方が、ボクらしいでしょ?」
詩音は眉をひそめる。
「意地が悪いな」
「お褒めに預かり光栄でーす」
楽しそうに言う。
そして、少しだけ視線を逸らした。
「……たださ」
声のトーンが、ほんの少し落ちる。
「一個だけ忠告」
「……なんだ」
「桔梗くんのこと」
間が空く。
「無理に思い出そうとしない方がいいよ」
詩音の目が細まる。
「理由は?」
「壊れるから」
即答だった。
「今の詩音ちゃんじゃあ、多分耐えられない」
軽く言うが、その目は笑っていない。
「……そうか」
詩音はそれ以上は聞かなかった。
皐月も、それ以上は言わなかった。
ただ最後に。
「まあでも」
いつもの軽い調子に戻る。
「どのみち、思い出さずにはいられないとボクは踏んでるけどねぇ」
「……だろうな」
小さく、詩音は笑った。
障子の隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
境界ノ社の朝は静かだ。
昨日の喧騒が嘘みたいに、空気が澄んでいる。
「……最悪だ」
桔梗は一人、縁側に腰掛けながら頭を押さえた。
鈍い頭痛。
だが、それ以上に問題なのは――
(……やっちまった)
思い出してしまった。全部。
詩音を押さえつけて、
あろうことか――キスした。
しかも、かなり強引に。
「……死ねばいいのに」
ぼそっと自分に吐き捨てる。
いや、もう死んでるんだが、というどうでもいいツッコミが頭をよぎるが、それすらどうでもよかった。
問題はそこじゃない。
(あいつ、覚えてねえのに)
ぎり、と奥歯を噛み締める。
覚えていない相手に、あんなことをした。
それがどれだけ一方的で、押し付けがましいことかは分かっている。
けど。
「……あんな顔、するなよ」
思い出すのは、あの時の詩音の表情だった。
拒絶でも、恐怖でもなく――
戸惑いと、どこか引っかかるような顔。
(……気づいてたな。初めてじゃないって)
あの一瞬の反応。
あれだけで、十分だった。
「……それでも」
拳を握る。
「俺だけ、記憶から抜けてるんだよな」
低く、絞り出すような声。
紗蘭も、皐月も、ミクマも。
全員、詩音の中に繋がりが残っている。
なのに自分だけが、完全に切り落とされている。
契約が一度破棄された影響――
頭では理解している。
だが、感情が納得しない。
「……クソ」
その時。
「朝から荒れてるねぇ」
軽い声が後ろから飛んできた。
振り返ると、皐月が柱にもたれかかっていた。
いつものように飄々とした顔だ。
「……うるせぇ」
「いやー、昨夜は見ものだったよ?」
にやにや笑う皐月。
「まさかあそこまでやるとは思わなかったなぁ。ボクちょっと引いたもん」
「ぶっ殺すぞ」
「はいはい、物騒物騒」
まるで堪えていない。
皐月は桔梗の隣に腰を下ろした。
少しの沈黙がよぎる。
「……で?」
ぽつりと、皐月が言う。
「どうだったのさ」
何を、とは言わない。
だが、桔梗は舌打ちした。
「……微妙だ」
「へぇ?」
意外そうに眉を上げる皐月。
「もっと劇的に思い出すとか、そういうの期待してたんじゃないの?」
「してねえよ」
即答だった。
だが、一拍おいて。
「……いや、少しは思ってたかもな」
少しだけ、訂正する。
「けど、現実はあれだ。中途半端に引っかかって終わりだ」
「ふーん」
皐月は空を見上げた。
「でもさ、今はそれで十分じゃない?」
その言葉に、桔梗は眉をひそめる。
「……何がだよ」
「ゼロじゃないってこと」
皐月はあっさりと言った。
「完全に消えてるなら、違和感なんて言葉すら出ないよ。反応があったってことは、ちゃんと残ってる」
「……」
桔梗は何も言わない。
だが、その拳の力は少しだけ緩んだ。
「焦りすぎなんだよ、桔梗くんはさ」
皐月は肩をすくめる。
「契約切れて、記憶飛んで、それで即元通りとか、そんな都合いい話あるわけないでしょ」
「……分かってる」
分かってはいるけど、納得はしていない。
そんな声音だった。
皐月はくすっと笑う。
「ま、でも」
少しだけ、声のトーンを落とす。
「昨日のはやりすぎ」
「……」
「嫌われても文句言えないレベル」
その一言が、妙に重く落ちた。
桔梗の視線が、わずかに揺れる。
「……ああ」
短く返す。
完全な同意だった。
その時。
「……あの」
遠慮がちな声が、二人の間に割り込んだ。
ぴたりと、空気が止まる。
振り向かなくても分かる。
この声は――
「詩音ちゃん……」
皐月が小さく呟く。
桔梗は、ゆっくりと振り返った。
そこには、少しだけ気まずそうに立っている詩音がいた。
昨日と同じ巫女装束。
だが、その表情は明らかに落ち着いている。
そして。
ほんの少しだけ、視線が揺れていた。
「……その」
詩音は言葉を選ぶように口を開く。
「昨日のこと、だが」
桔梗の喉が、ごくりと鳴る。
「……忘れてくれていい」
先にそう言ったのは、桔梗だった。
ぶっきらぼうに。
目も合わせずに。
「酔ってただけだ。気にすんな」
それは、逃げだった。
分かっている。
だが、それしか言えなかった。
すると。
「……そうか」
詩音は一度、頷いた。
そのまま引き下がるかと思われたが――
「だが」
一歩、踏み出す。
「一つだけ、確認したい」
桔梗の肩が、ぴくりと揺れた。
「……なんだよ」
ぶっきらぼうに返す。
詩音は、まっすぐに桔梗を見た。
「私は」
少しだけ言葉を詰まらせてから。
「……前にも、お前とああいうことをしたのか?」
空気が、固まった。
皐月が「うわぁ」とでも言いたげな顔で視線を逸らす。
桔梗は一瞬、言葉を失った。
(……突っ込むか、そこ)
当然の疑問だ。
そして、一番答えにくい問いでもある。
「……さあな」
しばらくして、そう吐き捨てる。
「覚えてねえんだろ、お前が」
「……」
「なら、今はそれでいいだろ」
突き放すような言い方。
だが。
その奥にある感情は、隠しきれていなかった。
詩音は少しだけ目を細める。
「……そうか」
それ以上は追及しなかった。
ただ。
「なら」
静かに言う。
「思い出した時に、改めて聞くことにする」
その言葉に。
桔梗の視線が、わずかに上がった。
詩音はくるりと背を向ける。
「朝餉ができたそうだ」
まるで何事もなかったかのような声音。
だが、その背中は――
ほんの少しだけ、意識しているようにも見えた。
「……今行く」
短く答える桔梗。
二人の距離は、まだ遠い。
だが。
完全に切れてはいない。
そんな、微妙な距離感のまま――
時が、静かに動き出した。




