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17/17

ノイズ

読んで頂き、ありがとうございます。

新展開スタートです。

詩音は「この世界」に別れを告げることを、後からやってきた王女と国王・王妃に告げた。

王女は拒否しかけるも、詩音の覚悟が決まっていることを悟ると、涙ながらに送り出してくれた。






「ここが、私たちの『神社』。境界ノ(きょうかいのやしろ)だよ」


不思議な門を紗蘭に手を引かれながら歩き、抜けた先。

そよそよと新緑の匂いが香る中、大きな本殿が姿を見せる。

境内には龍の角の生えた水色の髪の、着物の男性。

詩音が夢枕で見たことのあるものだった。


「確か、梗矢の死を教えてくださった……」


はっきりしている記憶の最後の方。そこにある姿と一致する。名前までは分からなかったが、寸分たがわぬ姿で詩音たちを出迎えてくれた。


「……ああ、記憶が欠けているんだね」


少し悲しげな瞳で詩音を見つめる龍神は、改めて名を教えてくれた。

天水分尊(アマツミクマリノミコト)、通称ミクマ。


「ミクマ、様……」


まだしっくりきてはいなかったが、恩人の名を忘れないようにしよう。詩音はそう思った。


「梗矢くんが亡くなってから数えると、もう5年も経つんだけどね」


苦笑いしながらミクマが答えると、詩音は目を丸くした。

たった5年!?

私がシオン・エルフェンリートとして過ごしてきた18年が、こっちではたった5年だというのか。

時の流れの違いが、詩音を不安にさせる。 


「正確には、梗矢くんが死んだのが5年前、詩音ちゃんが死んだのは……2年前だね」


もっとすごい情報に上書きされ、詩音は理解が追いつかなくなる。

訂正するとつまり、ここの2年が転生後の世界の18年。

転生後の世界、どれだけ時の流れが早いんだ……。

そして、空白の3年。一体自分は何をしていたのか。


転生後、違和感はあった。

前世より圧倒的に体が軽かったし、実戦なんてしたことがなかった筈なのに、体が全く問題なく動いた。

空白の3年間にその答えがあるのだろう。

そして、紗蘭と皐月との出会いも、きっとそこだ。


「……色々教えてください」


詩音は頭を下げる。

だが。


「私が色々語るより、自分で体験して思い出した方がいいよ」


と、ミクマにやんわりと断られてしまう。


「そうですね。詩音ちゃんはそういうタイプだ」


皐月も同意した。


「私は色々話したいよ!詩音にいっぱい聞いてほしいことあるし!」


フォローするように、紗蘭は手を挙げる。

後ろで、桔梗がため息をついた。


詩音はまだ桔梗のことが何も分からなかった。

明らかに自分のことを知っていそうなのに、あえて何も語らない。

なのに、戦闘になると妙に頼れるというか……。

そこが不思議で仕方がなかった。





紗蘭に案内されながら、台所、広間、医務室など、様々な部屋を見ていく詩音。

だが、なかなか思い出せることはない。

そして最後に案内されたのが、前世の自分の部屋だった。


「ここで3年、過ごしてたんだよ」


紗蘭にそう言われ、ゆっくり部屋を眺める。

2年も放置された割には、埃を被っていない。きっとここの誰かが掃除してくれていたのだろう。

自分はさほど物を持たない主義だったので、懐かしいものと言えば、鏡台の隅に置かれた家族写真と、床の間に置かれた弟の形見の木刀、それに自分の練習用の薙刀くらいだった。

その奥に、一着の服と靴のセット。

巫女服っぽいのだが、インナーに黒のノースリーブのタートルネック、脇の空いた袖、スリットの入った袴、少しヒールのあるロングブーツ。

ボロボロになったのであろう。何度も繕った跡があった。


ふと、その服を見ていると、涙が一筋。

無意識の涙だった。


「詩音!?大丈夫!?」


そのまま涙が止まらなくなり、ハンカチで拭う。

まだ何故かは分からないけれど、胸に込み上げてくるものを抑えられない。


「ふっ……ぅ……」


弟の死以来、久しぶりの涙。

本人は知る由もないが、転生して記憶を失う前から通算しても、久々に泣いた瞬間であった。

妙な懐かしさと、安心感。それが詩音を襲ったものであった。


「……袖、通していいか?」


ひとしきり泣いた後、紗蘭に尋ねる。


「いいも何も。あれは詩音の服だよ」


私も久しぶりに見たい、と紗蘭はうきうきしていた。

部屋の扉を閉め、卒業パーティーで着ていた騎士の衣装を脱ぐ。窮屈だった為、開放感がすごかった。

記憶が無くても、体がこの服の着方を覚えている。インナーを着、着物を合わせ、グローブをはめ、袖を通し――


ぴったりだった。


転生して少しは体型が変わっているかと思ったが、そんなことは無かった。

襖を空け、紗蘭に見せる。彼女ははち切れんばかりの笑みを浮かべ、


「やっぱり私の知ってる詩音はその格好じゃないと!」


と語った。

その様子を語る紗蘭を見て、詩音は少しだけ違和感を覚えた。


「そういえば紗蘭……少し顔立ちが変わったか?」


自分の記憶の紗蘭より、なんだか大人びたような……。

それはそうか、2年経っているのだから。


「詩音に追いついちゃったからね。年齢」


紗蘭も18歳になったのか。どおりで。

にしし、とイタズラっぽく笑う紗蘭。


「さ、みんなにも見せに行こう!」


彼女は嬉しそうに、詩音の背を押しながら広間に戻って行った。






ちょうど夕餉の時間だったらしく、この日は宴会だった。

詩音の帰還を祝う宴だ。

龍の子たちも、詩音の帰還を心待ちにしていたようで、広間に入るなり大勢の子たちに出迎えられた。

一人ひとりに「ただいま」だの「心配かけたな」だの、声をかけていく詩音。記憶はまだ戻っていないが、それでも待ってくれた子たちの期待は裏切れなかった。


「はぁー!今日はお酒が美味しい〜」


顔を真っ赤にしながら、皐月は猪口に清酒を注いでいく。

普段飲酒をしないだけに、鯛の煮付けを肴に飲む皐月の姿を見るのは新鮮で、紗蘭は「ほどほどにね」と声をかける。

一方、上品に食事を進めるミクマも、よく見れば大量の酒を空けているのだが、全く顔色が変わらない。ウワバミだろうか。

紗蘭は小さい口でちまちまと料理を食べすすめながら、ちらちらと詩音を見ては「美味しい?」「日本食、久しぶりでしょ?」と声をかけてくる。

確かに、日本食はとても久しぶりだった。

箸の使い方は流石に覚えていた。出汁の香るみそ汁や、銀シャリの艶、大きな煮付けの照り。

見ているだけでも食欲をそそられる。

一方、桔梗もご飯はバクバクと食べていたが、酒には手を付けていなかった。


「桔梗、いちおう今年で20歳でしょ?お酒飲めないの?」


紗蘭が尋ねる。


「死んでんだから年齢変わんないだろ。俺は永遠の18歳でいいんだよ」

「うわ、発言がオッサン」

「んだと!?」


紗蘭はニヤニヤしながら、徳利を持った。


「そんなこと言って、お酒弱いんでしょ?」

「弱くねえ」

「なら飲めるでしょ?」

「お前な、それ何らかのハラスメントになるぞ」


飲める、飲めないの応酬を続ける2人。皐月は「いいぞー、やれやれー」などと煽っている。


「すまないね、詩音ちゃん。帰還早々やかましくて」


ミクマが苦笑いしながら言うが、あまり申し訳なさそうな素振りはない。むしろ、この空気を楽しんでいる。


「いえ……」


ただ、あまり空気に馴染めていないのか、詩音は少し萎縮していた。

それだけ向こうでの18年が長すぎたのだろう。人との馴染み方を忘れてしまうというのは。


「あー、もう!上等だ!」


そこに、イライラしながら桔梗が立ち上がると、紗蘭から徳利を奪った。

そして、徳利から直接酒をあおり出す。


「そんなに一気に飲んで大丈夫!?」


煽った本人が言うのも難だが、紗蘭が心配そうにおろおろしだした。冗談のつもりだったのだろう。

皐月に至っては「そーれイッキ、イッキ」と逆にコールまで始めてしまっている。

皐月のコールに合わせて、桔梗は徳利を飲み干した。

すると、一気に顔が真っ赤になる。


「あれ、もう酔ったっぽいね」


ミクマが言った時には、「次持ってこい、次!」と竜の子に徳利をけしかけていた。

そして更にもう1本飲み干す。


「ぷはあっ!」


だん、と強めの力で徳利を置いた桔梗は完全に目が据わっており、焦点の合わない目で辺りを見回した。

そして、たまたまその様子をずっと眺めていた詩音と目が合う。


「おまえ……」

「な、何……」


たじろぐ詩音。

桔梗はふらふらと彼女に近づくと、目の前にどかっと座った。

詩音が距離を置こうとするが、桔梗はその分距離を詰めてくる。

やがて、背に襖が当たる。

すると桔梗は詩音の両手首を掴み、襖に押し付けた。

いわゆる、壁ドンの体勢である。


「なんで、おれだけ覚えてないんだよ……」


桔梗は涙目でそう言う。

よほど応えていたのであろう。酒の力で放たれた本音が、詩音の胸にちくりと刺さる。


「……すまない」


それでも、やはり覚えていないものは覚えていない。

詩音は目を伏せ、謝ることしかできない。

それが桔梗の癪に障った。


「こうすりゃ、思い出すかもな!」


そう言うと。

桔梗は詩音に顔を近づけ、そのまま唇を重ねた。


「……っ!?」

「ちょっと、桔梗!?」


紗蘭は顔を真っ赤にしながら、手で覆いつつ、指の隙間からその様子を見てしまう。

何度も何度も、執拗に。舌を絡ませながら、長い時間たっぷりと。


「ん……ぁ……っ……」


詩音の喘ぐ声が艶めかしい。頬を真っ赤に染めながら抵抗しようとしているが、よほど桔梗の力が強いのか、抜け出せない。

皐月もミクマも、呆然とその様子を眺めていたが、ミクマは教育に悪いと龍の子たちを慌てて退散させた。


詩音は一瞬何事か分からず、思考が真っ白になる。

触れた感触。 息の近さ。 心臓の鼓動。

そのすべてが、初めてではないと、告げていた。

――誰かと、こうしたことがある。

でも。


(……誰だ……?)


頭の奥で、何かが引っかかる。

伸ばせば届きそうなのに、 その直前で霧散する記憶。


「……っ、は……」


それが終わっても、桔梗は腕を掴んだまま離さなかった。


「ちょっと桔梗!詩音に何してんのよ!?」


我に返った紗蘭が、ものすごい剣幕で桔梗に詰め寄る。


「こうすりゃ、おもいらふと……」


だが、桔梗の呂律が段々回らなくなり……。

そのまま詩音に覆いかぶさるように倒れ込んでしまう。


「詩音、大丈夫!?」


紗蘭は倒れた桔梗より、詩音の方を心配した。

当の詩音本人は、呆然としながら、先ほどまで重ねられていた唇に手を当てる。


「私……」


少し考え込むようにしてから。


「前も、誰かと、こうして……」


唯一違ったのは、舌にひりつく魔力の感覚。

それが目の前の彼なのかは、やはり分からない。

紗蘭は困ったように少し唸るが、彼女の胸に顔を埋めている酔っ払いを見た瞬間、頭に血が上る。


「とりあえず離れなさい!このセクハラ男!!」


紗蘭が桔梗を引き剥がす。

完全に気絶している桔梗はぐったりと畳に転がった。


「うわー、やっちゃったねぇ」

「やっちゃったじゃ済まないでしょこれ!?」


皐月の軽口に、紗蘭が本気で怒鳴る。


「まぁまぁ」


ミクマが静かに口を開く。


「今は詩音ちゃんの方が優先だよ」


その一言で、場の空気が少し落ち着いた。


「……変なんだ」


ぽつりと、詩音が呟く。


「感触は、覚えている」


自分の唇に触れる。


「でも……そこにいるはずの相手だけが、いない」


紗蘭が息を呑む。


「思い出そうとすると……」


視線が、無意識に桔梗へ向く。


「……頭が、痛む」


ずきり、と鈍い痛みが走る。


「まるで……そこだけ、消されているみたいなんだ」

「詩音……」


紗蘭はその場面を知っている。だからこそ、教えてあげたかったが……。

言葉にしようとした瞬間、皐月に肩を叩かれる。

彼は何も言わず、首を横に振る。


「……だろうな」


すると、気絶していたはずの桔梗が、低く呟いた。


「桔梗!?起きてたの!?」


紗蘭が驚く。


「……半分な」


ゆっくりと起き上がる桔梗。

だが、詩音を見ない。


「無理に思い出すな」


そして短く、それだけ言った。


「え……?」

「どうせ今は無理だ」


そう言って立ち上がる。


「……そのうち、勝手に戻る」


酔いが覚めたのか、桔梗はぶっきらぼうに言い残し、そのまま部屋を出ていった。







宴も酣、皆が解散してから。

そよそよと凪ぐ夜風にあたりながら、詩音はぼんやりと月を眺めていた。

朧月。明日は雨になりそうだ。


「……詩音」


縁側に座る詩音の隣に、紗蘭がそっと腰を下ろした。


「……大丈夫?」


その声は、いつもよりずっと小さかった。


「……ああ」


詩音は短く答える。

だが、その視線はどこか遠くを見ていた。


「正直に言えば、整理はついていないがな」


苦笑する。


「記憶も……感覚も、ちぐはぐだ」


自分の胸元に手を当てる。


「ここは、覚えていると言っているのに」


次にこつん、と頭を軽く叩く。


「頭が、それを否定する」


紗蘭は黙って、その言葉を聞いていた。


「……でもさ」


そして、少しだけ前を向く。


「それでも、いいよ」

「……?」


詩音が視線を向ける。


「全部思い出さなくても」


紗蘭は、少しだけ笑った。


「今ここにいる詩音が、全部だもん」


その言葉は、驚くほどまっすぐだった。


「……怖くないのか」


詩音はぽつりと問う。


「また、変わるかもしれないぞ」

「うん、変わると思う」


即答だった。


「でも、それでもいい」


紗蘭は、そっと詩音の手を取る。


「だってさ」


少しだけ、声が震えた。


「また会えたから」


その一言に、詩音は何も返せなかった。

ただ、その手の温もりだけはやけに懐かしかった。







その後、紗蘭はもう寝ると言って去っていった。

詩音はまだ眠る気になれず、またぼんやりと月を眺める。

明日には、ここで何をするか教わるだろうか。

記憶はもどるのだろうか。

様々な不安が胸をよぎる。

すると。


「……眠れない?」


背後から声がした。

振り返ると、皐月が壁にもたれていた。


「まあな」


詩音は軽く肩をすくめる。


「色々ありすぎて」

「だろうねぇ」


皐月は苦笑する。


「いきなりキスされるし」

「……それは言うな」


不貞腐れる詩音に、皐月はくくっと笑った。


「でもさ」


すると、少しだけ真面目な顔になる。


「どうだった?」

「……何がだ」

「思い出しそうだった?」


詩音は、少しだけ黙る。


「……感覚はあった」


やがて、ぽつりと答えた。


「だが、誰だったのかが思い出せない」

「さっきもそう言ってたね」

「ああ」


目を閉じる。


「そこに誰かがいるはずなのに、それだけが抜けている」


皐月は小さく息を吐いた。


「……なるほどね」

「何か知っているのか」


詩音が問う。


皐月は少しだけ考えてから――


「知ってるよ」


あっさりと言った。


「……なら」

「でも言わない」


皐月はイタズラっぽくそう言う。


「は?」

「ヒントは出すけど、答えは出さない。その方が、ボクらしいでしょ?」


詩音は眉をひそめる。


「意地が悪いな」

「お褒めに預かり光栄でーす」


楽しそうに言う。

そして、少しだけ視線を逸らした。


「……たださ」


声のトーンが、ほんの少し落ちる。


「一個だけ忠告」

「……なんだ」

「桔梗くんのこと」


間が空く。


「無理に思い出そうとしない方がいいよ」


詩音の目が細まる。


「理由は?」

「壊れるから」


即答だった。


「今の詩音ちゃんじゃあ、多分耐えられない」


軽く言うが、その目は笑っていない。


「……そうか」


詩音はそれ以上は聞かなかった。

皐月も、それ以上は言わなかった。

ただ最後に。


「まあでも」


いつもの軽い調子に戻る。


「どのみち、思い出さずにはいられないとボクは踏んでるけどねぇ」

「……だろうな」


小さく、詩音は笑った。







障子の隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。

境界ノ社の朝は静かだ。

昨日の喧騒が嘘みたいに、空気が澄んでいる。


「……最悪だ」


桔梗は一人、縁側に腰掛けながら頭を押さえた。

鈍い頭痛。

だが、それ以上に問題なのは――


(……やっちまった)


思い出してしまった。全部。

詩音を押さえつけて、

あろうことか――キスした。

しかも、かなり強引に。


「……死ねばいいのに」


ぼそっと自分に吐き捨てる。

いや、もう死んでるんだが、というどうでもいいツッコミが頭をよぎるが、それすらどうでもよかった。

問題はそこじゃない。


(あいつ、覚えてねえのに)


ぎり、と奥歯を噛み締める。

覚えていない相手に、あんなことをした。

それがどれだけ一方的で、押し付けがましいことかは分かっている。

けど。


「……あんな顔、するなよ」


思い出すのは、あの時の詩音の表情だった。

拒絶でも、恐怖でもなく――

戸惑いと、どこか引っかかるような顔。


(……気づいてたな。初めてじゃないって)


あの一瞬の反応。

あれだけで、十分だった。


「……それでも」


拳を握る。


「俺だけ、記憶から抜けてるんだよな」


低く、絞り出すような声。

紗蘭も、皐月も、ミクマも。

全員、詩音の中に繋がりが残っている。

なのに自分だけが、完全に切り落とされている。

契約が一度破棄された影響――

頭では理解している。

だが、感情が納得しない。


「……クソ」


その時。


「朝から荒れてるねぇ」


軽い声が後ろから飛んできた。

振り返ると、皐月が柱にもたれかかっていた。

いつものように飄々とした顔だ。


「……うるせぇ」

「いやー、昨夜は見ものだったよ?」


にやにや笑う皐月。


「まさかあそこまでやるとは思わなかったなぁ。ボクちょっと引いたもん」

「ぶっ殺すぞ」

「はいはい、物騒物騒」


まるで堪えていない。

皐月は桔梗の隣に腰を下ろした。

少しの沈黙がよぎる。


「……で?」


ぽつりと、皐月が言う。


「どうだったのさ」


何を、とは言わない。

だが、桔梗は舌打ちした。


「……微妙だ」

「へぇ?」


意外そうに眉を上げる皐月。


「もっと劇的に思い出すとか、そういうの期待してたんじゃないの?」

「してねえよ」


即答だった。

だが、一拍おいて。


「……いや、少しは思ってたかもな」


少しだけ、訂正する。


「けど、現実はあれだ。中途半端に引っかかって終わりだ」

「ふーん」


皐月は空を見上げた。


「でもさ、今はそれで十分じゃない?」


その言葉に、桔梗は眉をひそめる。


「……何がだよ」

「ゼロじゃないってこと」


皐月はあっさりと言った。


「完全に消えてるなら、違和感なんて言葉すら出ないよ。反応があったってことは、ちゃんと残ってる」

「……」

桔梗は何も言わない。


だが、その拳の力は少しだけ緩んだ。


「焦りすぎなんだよ、桔梗くんはさ」


皐月は肩をすくめる。


「契約切れて、記憶飛んで、それで即元通りとか、そんな都合いい話あるわけないでしょ」

「……分かってる」


分かってはいるけど、納得はしていない。

そんな声音だった。

皐月はくすっと笑う。


「ま、でも」


少しだけ、声のトーンを落とす。


「昨日のはやりすぎ」

「……」

「嫌われても文句言えないレベル」


その一言が、妙に重く落ちた。

桔梗の視線が、わずかに揺れる。


「……ああ」


短く返す。

完全な同意だった。

その時。


「……あの」


遠慮がちな声が、二人の間に割り込んだ。

ぴたりと、空気が止まる。

振り向かなくても分かる。

この声は――


「詩音ちゃん……」


皐月が小さく呟く。

桔梗は、ゆっくりと振り返った。

そこには、少しだけ気まずそうに立っている詩音がいた。

昨日と同じ巫女装束。

だが、その表情は明らかに落ち着いている。

そして。

ほんの少しだけ、視線が揺れていた。


「……その」


詩音は言葉を選ぶように口を開く。


「昨日のこと、だが」


桔梗の喉が、ごくりと鳴る。


「……忘れてくれていい」


先にそう言ったのは、桔梗だった。

ぶっきらぼうに。

目も合わせずに。


「酔ってただけだ。気にすんな」


それは、逃げだった。

分かっている。

だが、それしか言えなかった。

すると。


「……そうか」


詩音は一度、頷いた。

そのまま引き下がるかと思われたが――


「だが」


一歩、踏み出す。


「一つだけ、確認したい」


桔梗の肩が、ぴくりと揺れた。


「……なんだよ」


ぶっきらぼうに返す。

詩音は、まっすぐに桔梗を見た。


「私は」


少しだけ言葉を詰まらせてから。


「……前にも、お前とああいうことをしたのか?」


空気が、固まった。

皐月が「うわぁ」とでも言いたげな顔で視線を逸らす。

桔梗は一瞬、言葉を失った。


(……突っ込むか、そこ)


当然の疑問だ。

そして、一番答えにくい問いでもある。


「……さあな」


しばらくして、そう吐き捨てる。


「覚えてねえんだろ、お前が」

「……」

「なら、今はそれでいいだろ」


突き放すような言い方。

だが。

その奥にある感情は、隠しきれていなかった。

詩音は少しだけ目を細める。


「……そうか」


それ以上は追及しなかった。

ただ。


「なら」


静かに言う。


「思い出した時に、改めて聞くことにする」


その言葉に。

桔梗の視線が、わずかに上がった。

詩音はくるりと背を向ける。


「朝餉ができたそうだ」


まるで何事もなかったかのような声音。

だが、その背中は――

ほんの少しだけ、意識しているようにも見えた。


「……今行く」


短く答える桔梗。

二人の距離は、まだ遠い。

だが。

完全に切れてはいない。

そんな、微妙な距離感のまま――

時が、静かに動き出した。

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