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第百九十八話「夢から覚めて」



「休暇を取ります」


 竹彦が、突然、宣言した。


「松子さんと、地球を見て回りたいんです」


 松子は驚いた顔をしたが、断る理由もなかった。八年もの空白の後、自分が暮らしていた街がどうなっているのか――確かめたい気持ちが、彼女の中にもあった。


「私も、行く」


 ニーナが、すかさず言った。母親の権利を主張するような口調で。


「あ、じゃあ、私も……」


 山口萌が、遠慮がちに手を挙げた。


「面白そうね」


 初代ニイナも、グラスのワインを一気に飲み干した。


「子孫の恋愛模様も、見物だし」


 ニーナが鋭い視線を向けたが、初代は涼しい顔だった。

 こうして、奇妙な一行が、東京へ向かった。


 *


 東京上空――。


「これが……東京?」


 松子の声が、震えた。

 眼下に広がるのは、彼女の知っている東京ではなかった。

 超高層ビルが雲を突き抜け、その間を透明なチューブが複雑に結んでいる。空中には無数の車が音もなく飛び交い、巨大なホログラムが街のあちこちに浮かんでいた。

 昭和の面影など、どこにもない。平成すらも、遠い昔。


「あのアパートは……」


 かつて竹彦と暮らした六畳一間のアパートがあった場所には、五百階建ての超高層ビルが、そびえ立っていた。

 あの畳の部屋。あのちゃぶ台。あの窓から見えた電線とカラス。

 その全てが、地下何百メートルの底に、埋もれていた。


「アマガワ事務所も……」


 事務所があった場所は、アンナム・ブロードバンドの巨大な本社ビルになっていた。『取り壊し済み』という記録が、冷たく表示されている。


 松子の顔が、青ざめた。

 知っている場所が、何もない。

 知っている人も、いない。

 自分の人生の根が、跡形もなく削り取られていた。


「松子さん、大丈夫?」


 竹彦が、心配そうに覗き込む。


「う、うん……」


 松子は、力なく答えた。


(そういえば、私……無職だ)


 ふと、そう思った。八年前は事務所で働いていた。でも今は、その事務所もない。


「あの、仕事……探さないと」


「しなくても、大丈夫だよ。僕がいるから」


 竹彦が言ったが、松子は首を振った。働かないで養われるなんて、性に合わない。

 その時、初代ニイナが、口を開いた。


「うちの星は、どう? ワイン工場で、働いてみる? 手伝いが、欲しかったのよ」


 松子の目に、八年ぶりに、光が戻った。


「本当ですか?」


「もちろん。ニホンの事も色々と教えてほしいし」


「ありがとうございます!」


 松子が、深く頭を下げた。

 ようやく自分にも居場所が用意される――その感覚に、胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「あ、あのー……僕も、のんびりしたところで、過ごしたいなあ……」


 竹彦が慌ててついて行こうとする。露骨すぎて、逆に微笑ましかった。


「私も……ワイン工場、興味あります」


 山口も便乗した。


「私も、視察という名目で」


 ニーナも黙っていなかった。


「あら、大所帯になるわねえ」


 初代ニイナが笑った。本当は、最初から、こうなることを見越していた顔だった。


 *


 瞑想の星へ向かう、宇宙船の中。

 竹彦は、操縦席で、操縦桿に手を添えていた。窓の外には、藍色に染まった宇宙が広がり、無数の星々が、ゆっくりと流れていく。

 助手席には、松子が座っていた。

 後部座席からは、ニーナと初代ニイナと山口の話し声が、賑やかに漏れ聞こえてくる。


「すごいね、竹彦君。本当に、星の中を飛んでるんだね」


 松子が、ぽつりと呟いた。


「うん」


 竹彦は、短く頷いた。

 ふと――胸の奥が、痛いほどに、温かくなる。

 あの日、培養液の中で見た夢を、思い出した。

 立派な体格で、宇宙船のコックピットに座り、隣に松子を乗せて、銀河を巡る冒険。「次はどこの星に行く?」と、夢の中の松子が、微笑んでいた。

 そして、今――。

 窓の外を流れる星々。隣に座る松子。手元の操縦桿。

 全てが、あの夢と、同じだった。


(これは……夢の続きなのかな?)


 竹彦は、ふと、そう思った。

 あの病室での目覚めから、今まで――もしかして、自分はまだ、培養液の中で眠っているのではないか。


 竹彦は、そっと、隣の松子を見た。

 松子は、窓の外に夢中で、彼の視線には気づいていない。少し癖のある黒髪が、星明かりに照らされて、光っている。

 手を、伸ばす。

 恐る恐る、松子の手の甲に、自分の指先を、触れさせた。

 温かい。

 血が通っている。脈が、確かに、打っている。


「どうしたの?」


「……ううん、なんでもない」


 竹彦は、首を振った。

 そして――静かに、息を吐いた。


 ああ、もう、いいんだ。

 もう、夢を見る必要は、ない。

 夢の中に、いる必要も、ない。

 目を閉じても、開いても、松子は、ここにいる。明日も、明後日も。

 今から始まる、穏やかな日々。

 夢から覚めた、新しい日常を、生きる時が、来たのだ。


「綺麗だね、お星様」


 松子が、ぽつりと言った。


「うん。綺麗だ」


 竹彦は、頷いた。

 操縦桿を握る手に、ほんの少しだけ、力を込めた。

 夢ではない、確かな手応えがあった。


 *


 窓の外を、星々が静かに流れていく。

 その光の一つ一つに、これまで歩んできた日々が、映って見えるようだった。


 小さな足で歩いた、塩の廃墟。

 寒くてかび臭い、孤児院の壁。

 大切な人を失った、あの瞬間。

 復讐に狂い、燃え盛った、あの時。


 全ての記憶が、確かに現実となり――そして、過去の出来事になろうとしていた。


 宇宙船は、瞑想の星へと、ゆっくりと進んでいく。


【第四部 完】

# 第四部 あとがき


 爆弾によって体を壊し、父と母を失い、失意のどん底にいた小さな少年がいました。

 寒くてかび臭い孤児院での日々に耐えきれず、彼は逃げ出しました。


 逃げ出した先で、彼はようやく平穏を手に入れました。

 六畳一間の狭いアパート。湯気の立つ味噌汁と、焼きそばと、麦茶のポット。「お帰り」と言ってくれる人。それは、生まれて初めて手にした、彼の楽園でした。


 しかし――その平穏は、長くは続きませんでした。

 恩人を奪われ、彼は復讐に燃え、鬼となりました。


 虐殺と失意の果てに、彼は少しずつ、仲間を得ていきました。

 マリア、サヤカ、キヨシ、京介。アスカやデストロイヤーすら、いつしか彼のそばにいました。彼らと共に、彼はいくつもの冒険を繰り広げました。

 けれど――彼の心は、いつも過去の夢の中にありました。あの六畳の部屋に、戻りたかった。あの夕暮れのカラスの声を、もう一度聞きたかった。彼にとっての本当の幸せは、いつも過去の中にしかなかったのです。


 やがて、彼は、生き別れた母と再会しました。

 そして――銀河を、救いました。


 その代償として、彼は大切なものを、取り戻しました。

 夢の中にしかいなかったはずの、あの恩人を。


 第四部は、彼が「夢から覚める」までの物語でした。

 過去の中で生きていた男が、ようやく現在を生きる準備を整える物語でした。


 しかし――彼を許さない人々は、銀河に数多くいます。

 彼の犯した罪は、あまりに大きすぎるからです。

 多くの星を焼き、多くの命を奪い、多くの恨みを買いました。たとえ銀河を救った英雄であっても、その血は消えません。アマノガワ同盟の鉄の掟も、自由主義同盟の不気味な沈黙も、いつまでも続くわけではないでしょう。


 夢から覚めた竹彦の、本当の現実は、これから始まります。

 穏やかな日々を、彼が手放さずにいられるのか。

 過去の罪が、彼の前にどんな形で立ち現れるのか。


 彼の未来がどうなるかは、次の部にて、ご覧ください。


 長い旅路に、お付き合いいただき、ありがとうございました。

 第五部にて、また、お会いしましょう。

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