百八十一
今回はシンディ視点のお話です。
ガシリと掴まれた腕の骨が軋む音を聞いた気がした。
明らかに人間の力ではない。痛む腕を引き寄せてなんとか剥がそうと試みるもその手は離れる気配がなかった。間近で見た彼女の目は虚ろで、先程から辺りに漂う黒い煙のようなものはその体にまとわりついているように見える。
おかしい。レイランは確かにエルにとっては敵だったのかもしれない。でも彼女は貴族の婦人らしくとても品が良く、それでいて気が強く、捕らえられてからもその態度は変わらなかったとエルも感心していたはずだから。こんな明るい時間帯に公衆の面前で誰かに襲いかかるだなんて、そんなことするはずがない。
それが、どうして。
「……ろ……て…………」
「え……」
ぽたり、ぽたり。頬を伝い落ちる涙と同時に耳を疑う言葉を聞いた。側にいたルトたちには聞こえないくらいの小さな声。それを彼女と取っ組み合っている自分だけが聞き取ってしまったのだ。
「ころ、して……」
「どうして、」
どうしてそんなことを言うのですか。本人たちは認めていないようだけどこの方はエルの家族でもあって、情報を引き出すためとはいえエルが生かした人でもある。そんな命を簡単に捨てようとしないでほしい。
それに、みんなの前では一生懸命笑っていた貴女の子供はどうするのです。あの子はいつかまた母親に会える日を夢見ているかもしれないのに。
そう叫んでしまいたいのに、目の前にいるレイランは意識があるのかもわからない状態で静かに涙を流しながら「殺して」とうわごとのように繰り返している。いったい何があったのだろう。
訳がわからなくて、どうしたらいいのかもわからなくて。ただ、道の真ん中での取っ組み合いが続くとざわざわと周囲に人が集まりだす。このままではいけない。そう思った時だった。
――いけない子。逃げ出してしまったのね。まだ意識が残っていただなんて本当に貴女は気が強くて困ってしまうわ。
頭の中に直接響く声があった。その言葉が向けられているのは自分ではないとわかるけれど、忘れるはずのない声に一瞬にして全身の血の気が引く。
――でも、そうね。どうせなら貴女の力を彼女に見せてあげて?
笑っている。姿は見えなくてもそれだけはわかった。
次の瞬間、頭の中に響く声に反応するかのように腕を掴む彼女の力が増す。周囲に漂う黒いそれがその体に吸い寄せられ取り込まれるのを見た。
「なに、を」
何をする気なのですか。
何をさせる気なのですか。
問いただしたいのにその相手はここにはいない。あるのは何が起こるかわからない恐怖と、次第に苦しそうに呻き声を上げ始めたレイランが合間に呟くあの言葉。
「ころして……!」
「っ、」
一瞬、様々なものが脳裏を過った。
当時はまだ幼かった公爵令嬢に怪我を負わせてしまった時のこと。そこからこの身に降りかかったこと。この国は人間の国であり、貴族が支配する国であり、魔力の有無で変わる身分は絶対に超えることのできない壁であること。エルに出会ったこと。自分の踊りで人々を笑顔にできたこと。そして、ここまでの旅の日々が。
その最後に過ぎるのがあの方の冷たい視線なのは少し怖気付きそうになってしまうけれど。
「……わかり、ました」
全てはあの方の思い通りなのかもしれない、とは思う。でも今は。ここにはいない怖い人よりも、目の前で苦しむ人の声に耳を傾けてあげたかった。
皮膚を破り肉を断ち骨を砕き貫いたその人は、最後に感謝の言葉を述べて、そして逝ってしまう。
すぐさま周囲から上がった悲鳴。騎士団と思われる人たちの登場はやけに早い。抵抗もしないでいれば簡単に地面に押さえつけられて、近くでルトの声が聞こえた気もしたけれど口を開くことはできなかった。
覚悟を決めたのは、この時。
背負う覚悟。そして何より、見上げることしかできずにいたトロップ・ラトリッチ公爵令嬢に立ち向かうという覚悟。
それを強く心に刻んで、暗く冷たい牢獄に沈む。
「また、この夢……」
三日前の出来事は自分の中のかなり深いところに大きな傷を残したらしい。牢の冷たい寝台の上で眠ると毎日のように夢に見るようになった。せっかく覚悟を決めてここに来たのに。この夢のせいで寝起きは少し憂鬱だ。
寝台から体を起こせば、目に入るのは鉄格子の間から見える揺らめく松明の明かり。その横にはこちらを見ている武装した看守が一人。階段を登った先にあるこの空間の入り口にももう一人。人は入れ替わっているようだけれど、毎回どちらも男性なので常に見られながらの生活というのは気持ち的にも辛いものがあった。
でも、日に一度は食事を運んできてくれる女性もいる。どうやら身分の低い人のようで囚人に殺されても問題のない人選なのだと思う。鉄格子の中に入ってきて世話を焼いてくれるので、その時だけはほっと息を付ける時間だった。
手足には鎖が繋がれた黒い枷。牢の格子もおそらく同じもの。叩いても蹴っても壊せそうもないくらい頑丈なそれは、神殿の地下でも見た魔吸鉱物というのによく似ている。ミカエルはあの鉱物を流して取引きをしていたらしいからそれが使われているのかもしれなかった。
窓も無いこの牢屋の中では外の様子がわからない。あの後ルトがどうなったのか、エルはもう地下書庫から出てきたのか、それさえもわからない。裁判の判決は聞かされているから焦る気持ちは確かにあるけれど、今はできることを地道にやるだけだ。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れ……るわけはないか。悪いな」
「いえ、気にしていただけるだけで十分です。それよりも、どうでしたか?」
ここへ来る看守は全部で三人。もう顔は覚えてしまった。最初は話しかけても何も返してはくれなかったのが根気強く一日中声をかけ続けたおかげで三日もすればこの通り。
「それはもちろん――喜んでくれたんだ!嬢ちゃんから教わった手遊び歌!」
「それはよかったです!」
三歳になる娘さんと仲良くなる方法、なんて。相談を持ちかけられた時は驚いた。それならばと幼い頃によくやっていた手遊び歌を教えたのだ。簡単な歌に合わせて手を動かすだけの遊びである。村の外では聞いたことがなくて、こういった文化がこの国に無いのは知っていたから上手くいくかどうかはわからなかったけど。
「舌足らずな歌もそうだが、小さな手でこう……頑張って形を作ろうとしているのがなんとも可愛らしくてなぁ」
「そいつ、嬉しすぎてあちこちでその話しているからな。全く親馬鹿になったもんだ」
牢の中と外なのに不思議と穏やかな空気が流れている。この人たちは貴族ではなく、貴族に雇われた平民上がりの兵士だと言うからそれもあるのかもしれない。どちらかと言えば事件に関してもこちらに同情している節があった。
この国では貴族が黒と言えば白も黒になってしまう。平民はみんなそれを知っているのである。
「嬢ちゃんには何か礼ができればいいんだが……」
「流石に牢からは出せねぇぞ。俺たちの首が飛んじまう」
ここから出たいのは確かだが、この人たちを危険に晒したいわけじゃない。けれど待ち望んでいた「礼」の言葉を逃すわけにはいかなかった。
「それならば踊りを。ディの踊りを見てはいただけませんか。牢の中で構いません。格子は破れそうもありませんから、可能であれば枷を……足だけでも一時外していただけたらと……!」
それは、と顔を見合わせる二人に胸に手を当て宣言する。
「ディは、踊り子です!」
今できることはこれしかない。でも、踊りこそが自分の最大の武器であると理解はしているから。
「お願いします!」
見てくれるだけでいい。その時間さえ作れたら。きっと。
離れたところにいた看守も降りてきて二人は顔を見合わせていた。
「牢からは出ないってことなら……いいよな?」
「そ、そうだな、俺たちが見るだけだし」
「ありがとうございますっ!」
最初は二人。簡単な手遊び歌から少しだけ発展したものを。
次の日は三人。看守間で情報が共有されたのか、全員が揃っていた。
その次の日は五人。どうやら誰かがこっそり外で話したらしい。興味本位で付いてきた人がいた。
いつの間にか世話を焼いてくれる女性にも話は伝わったようで、それから牢の外の観客は一気に数が増えたように思う。けれどそれ以上に、噂は静かに、しかし確実に広まっていったのである。
そして、刑が執行されるその日の明け方のこと。
「――囚人が、踊りを?」
とある男の耳に噂が届いたことにより、彼女の運命もまた動き出す。




