最終話. 仮面の下のあなたとわたし
王城の、静まり返った大理石の廊下に、姫乃の『絶対的な王手』が、凛として響き渡った。
その言葉の後、ルカは、何も言えずにただ立ち尽くしている。
姫乃は、固唾をのんで、彼の返事を待った。心臓が、早鐘のように鳴っている。
やがて、ルカの口元に、ふっと、力のない、しかし心からの感嘆の笑みが浮かんだ。
「……参りました」
彼は、ゆっくりと姫乃の前に進み出ると、これ以上ないほど恭しく、その場に膝をついた。
「その御役目、謹んで拝命いたします。断れようはずもない。これ以上はないほどの、完璧な論理と、手札。実にお見事でございました。王家も、アッシュフィールドも、ヴォルテールも…。諸手をあげて、貴女に従うことでしょう」
彼は顔を上げ、清々しいほどの、完璧な臣下の微笑みを姫乃に向けた。
「───全て、貴女の望みのままに。聖女セーラ様。もはや、アッシュフィールドの後見などなくとも、完璧な『王妃』となられましょう。私も、誠心誠意、お仕えさせていただきます」
それは、あまりにも完璧な「絶対降伏宣言」だった。
( …………どうして )
勝利を掴んだはずの姫乃の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。胸に広がったのは歓喜ではなく、氷のような空虚さだった。
急速に滲む視界を隠すように、姫乃は小さく俯いた。
「……負かしたかったわけじゃないの」
消え入りそうな声で、姫乃が呟く。
「さっきは、ああ言ったけど……。ルカ、あなたがイヤなら、断ってもいい。圧力はかけないと約束するわ」
いつもの彼女からは考えられない覇気のない言葉に、ルカが怪訝そうに眉をひそめた。
「聖女様……?」
「……ッ」
その呼び名が、二人の間に透明で、決して越えられない壁を築く。
そして、彼女の張り詰めていた感情の糸が、ぷつりと切れた。
「いい加減にしなさいよ!私が話しているのは、あなたよ、ルカ……ッ!アッシュフィールド卿に、言っているんじゃない!!」
そう叫ぶのと同時に、姫乃の瞳から、堪えきれなかった涙が、ぼろぼろと零れ落ちた。
その涙に、ルカの鉄壁な仮面が、音を立てて砕け散る。
「───っ、ヒメ」
彼は慌てて立ち上がると、これまで見せたことのないほどに不器用な仕草で、姫乃に向かって手を伸ばした。
「ヒメ、どうか……泣かないでください」
一瞬だけ、躊躇い───。
そっと、彼女の頬に触れ、親指で優しく、溢れ続ける涙を拭いとる。
その声と指先の温もりに、姫乃の涙腺は更に崩れた。
「……なっ、なによ……!ぜん、ぶ……!…あな、たの……ルカの、せい…じゃない…っ!」
論理も何もない、子供のような非難の言葉だ。
だが、姫乃の、その剥き出しの感情が、ルカの心をどうしようもなく強く揺さぶった。
もう体裁も意地もない。ただ、彼女の涙にうろたえることしかできない。
彼は、今度こそ、本当に負けを認めた。
臣下としてでも、従者としてでもなく、ずっと彼女を見てきた、一人の男としてだった。
「そうですね……。僕が……すべて、悪い。だから、もう泣き止んでください。そんな風に泣かれてしまったら、僕は、もう、……降参するしかない」
彼の優しい声と、ぎこちない指の感触に、姫乃の嗚咽が、少しずつ、小さくなっていく。
── 沈黙が流れる。
それ以上、ルカは、何も言わなかった。ただ、彼女の頬を、そっと撫で続けた。
やがて、姫乃は、しゃくりあげながら、潤んだ瞳でルカを見上げた。
「……ルカ」
「───はい。ヒメ」
そこにいるのは、紛れもなく姫乃の知る「ルカ」だった。
彼女はは、心から安心したように微笑んだ。
その瞳は、まだ揺れていたが、もう涙は零れなかった。
「……ふふ。…『涙』、が、あなたに…初めて、利いたみたい………」
その言葉に、ルカは困ったように目を細めた。
再び、あやすような手つきで姫乃の頬に手を伸ばす。
だが、彼女は、その手を押しやった。
もう十分だとばかりに、ぐいと目元を強くこすりあげる。
そして、顔をあげた時には、その瞳には、いつもの強気な光が戻っていた。
「あなたのレクチャーが、無駄にならなくてよかったわ」
それは、涙の跡を残しながらも、どこまでも彼女らしい不敵な微笑みだった。
そんな彼女の姿に、ルカは、心底、参ったとでも言うように、愛おしそうに顔を綻ばせた。
「──本当に、貴女には敵いません」
それから、少しだけ言いにくそうに、最後の懸念を口にする。
「……ですが、殿下のご婚約者に対し……。僕にも、立場というものがありまして……」
「婚約? 王子と? …しないわよ? それはなしだって『王子本人』と合意したもの」
目を丸くするルカに、姫乃は、呆れたように、それでいて、どこか愛おしそうに笑った。
「なぁに? こないだから。視野が狭くなっているんじゃないの?」
「……かもしれません」
胸の奥にあった最後のわだかまりが、完全に溶けていくのを感じながら、彼は安堵のため息と共に、その言葉を口にした。
「ええ、そのようです。──何も問題はございませんでした。聖女補佐官長の御役目、承ります。……もちろん、ただのルカとして」
そういうと、ルカは姫乃に向かって、柔らかく微笑んだ。
それは、完璧な臣下でも、食えない従者でもない、ただのルカとしての、心からの笑顔だった。
その笑顔が、真っ直ぐに姫乃の心に届く。
(───ああ、そうか )
私が本当に取り戻したかったのは、これだった。
従わせたかったわけじゃない。優しく慰められたかったわけでもない。
ただ、いつものように、笑いかけて欲しかっただけだ。
その、あまりにシンプルな事実に気づいて、姫乃は、最後の覚悟を決めた。
「ねえ、ルカ────。聞いてくれる?あなたに、言いたいことがあるのよ」
その瞬間、彼女は、生まれて初めて、全ての戦略や計算を放り投げた。
そして、ただ、心からの言葉を──純粋な想いだけを形にして、ぶつける。
「私は……あなたがいないとダメみたい。ずっと、ルカに…傍にいてほしいの」
──── 時が、止まった。
彼女の、生まれて初めてであろう、弱くて、不器用で、そして何よりも真っ直ぐな告白。
その一言一句が、ルカの魂に直接刻み込まれていくようだった。
ルカは、驚きに目を見開き、脈動する鼓動を感じながら、ただ、彼女の、その真摯な瞳を見つめ続けた。
長い沈黙が、二人を包む。
やがて、しびれを切らしたのは、姫乃だった。
ゴクリ、と唾を呑み込むと、視線を鋭くし、意を決したように口を開いた。
「だから───教えてちょうだい」
その瞳には、決して折れるつもりはないという強い意志の光が浮かんでいる。
「───ルカ。あなたを攻略するには、どうしたらいい?」
その言葉を聞いた瞬間、ルカの全ての思考が一つの感情で塗り潰された。
それは、あまりに姫乃らしい質問だった。
なんとも強気で、真っすぐで、そして────可愛らしい。
どうしようもないほどの幸福感が胸に溢れてきて、ルカはもう、こらえきれずに、くすりと笑った。
黙ったままの自分を見上げ、彼女の瞳が、不安気に揺れる。
それに気づくと、ルカは少しだけ茶化した言い方で、けれど、素直な本心を口にした。
「そうですね…。男というのは、得てして、『隙』に弱い」
「隙?」
「はい。完璧な理論武装、揺るぎない自信、どんな困難も一人で乗り越えてしまうその強さ。それは貴女の最大の魅力ですが、同時に、誰にも…僕にも、入り込む隙を与えない、鉄壁の要塞でもあるのです」
「…意味が解らないのだけど。私が完璧だからダメってこと?結局、どうしたらいいのよ?端的にいってちょうだい」
困惑する姫乃に、ルカは小さく微笑んだ。
せっかちで頭の固い彼女に、わかり易く伝える方法なら、もう知り抜いている。
「簡単だと思いますが…。レクチャーが必要ですか?」
ルカは悪戯っぽく微笑むと、今度は躊躇なく、姫乃の手を取る。
そして、軽く彼女の体を引き寄せると、ふわりと顔を近づけ───その柔らかな頬に、優しくキスを落とした。
「なっ…!?」
姫乃の顔が、カッと真っ赤に染まる。それは、『聖女』でも、『悪女』でも、『鉄の女』ですらもなく───。彼が初めて目にする、ただの恋する少女の顔だった。
その初々しい反応が、たまらなく愛おしくて、ルカは目を細めた。
「──そうやって、完璧な聖女の仮面の下の、本当のあなたをみせてくれるだけでいい。……僕が、他の誰にも渡したくないと思うくらいに」
慌てふためく彼女の頬を、そっと撫でながら、彼が続ける。
「……もう一つ。これが、本当に重要なのですが……」
楽しげなその表情から、ふいに笑みが消え──、ひたむきな瞳が彼女を捉える。
そして、彼は、囁くように、口にした。
ずっと、心の底にとどめていた、たった一つの、その願いを。
「もちろん──────僕だけに、ですよ」
その言葉に、姫乃は、息を詰めた。
やがて、真っ赤な顔のまま、こくりと頷く。
それを見て、ルカは今度こそ──。心の底から、幸せそうに微笑んだ。
(了)
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
これにて、第一部 完結となります。
この物語が、誰かの心に届くことを願ってます!
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◇◇◇◇
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