第十七節 『仮面』
「蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるとき、あなたがたの目が開けます。』」――創世記 第3章第4節
「真実を半分だけ語る者は、嘘つきより危険だ。」――失楽の書 第1章第17節
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その日の戦いは、短かった。
夜明け前に這い出してきたレギオンを、澪は十五分で全滅させた。以前なら三十分はかかっていた規模だった。
右腕の白炎が、よく燃えた。
怒りを燃料にすれば炎は応える。澪が決めた相手だけを焼く。頭の奥の声が「浄化せよ」と叫んでも——澪の意志がそれを遮断する。遮断することが、今は自然になっていた。
戦いが終わって、澪は焼け跡に立った。
息が上がっていない。消耗感が薄い。右腕は熱いが、それだけだった。
おかしい、と思う。
おかしいのに——それ以上考えられなかった。
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朝になってから、ほのかと会った。
炊き出しの列に並びながら、ほのかはいつものように話した。昨日おばあちゃんの足が良くなったこと。避難所で仲良くなった子供がいること。神崎玲央の演説をもう一度見たいと思っていること。
澪は頷きながら聞いていた。
「ねえ。」ほのかが不意に言った。「澪、最近強くなったよね。」
澪は少し驚いた。「……なんで分かるの。」
「なんとなく。」ほのかは言った。「歩き方とか、目つきとか。なんか——以前と違う。頼もしいっていうか。」
頼もしい。
その言葉が、澪の胸に引っかかった。
頼もしくなった。強くなった。確かにそうだ。白炎が馴染んできた。制御が自然になった。戦いが楽になった。
でも——その代わりに、何かが削れていく感じがした。
「そう、かな。」澪は言った。
「うん。」ほのかは微笑んだ。「なんか——澪が強くなるのは嬉しいけど。」
「けど?」
「なんでもない。」ほのかは首を振った。「ちゃんとご飯食べてね。」
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午後になって、マモンが現れた。
ほのかと別れた直後だった。路地の角を曲がった瞬間、そこにいた。黒いコート。穏やかな表情。まるで——待っていたみたいだった。
「お疲れ様です。」マモンは言った。「今朝の戦い、見ていましたよ。」
「また見てたの。」
「ええ。」マモンは続けた。「随分と楽そうでしたね。十五分。最初の頃と比べると——別人みたいです。」
澪は答えなかった。
「白炎が馴染んできた。」マモンは言った。「制御が、あなたのものになっている。怒りを燃料にした時の出力が、特に上がっている。」
「それは——感情を喰らってるから。」澪は言った。「前に言ってたね。」
「ええ。」
「何を喰らってるの。」
マモンは少しだけ間を置いた。「白炎が選ぶことですから。」
「それも前に聞いた。」澪は続けた。「毎回そう言って、教えてくれない。」
「教えることができないんですよ。」マモンは穏やかに微笑んだ。「ただ——強くなっているのは本当のことです。あなたが強くなるほど、人々は救われる。今朝も、第二避難所の人々は守られた。それは——良いことでしょう。」
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澪はマモンを見た。
いつもの穏やかな表情。人類を愛していると言い続けてきた、あの顔。
「マモン。」澪は言った。「一つだけ聞いていい。」
「どうぞ。」
「あなたは本当に、人々を助けたいと思ってるの?」
マモンは少しだけ——笑った。
穏やかな笑みじゃなかった。
ほんの一瞬だけ、その笑みの奥に——別のものが滲んだ。温かさじゃない。愛情じゃない。もっと冷たい、もっと深い何かが。まるで——標本を眺める研究者みたいな目が。
それは本当に、一瞬だけだった。
次の瞬間にはもう、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「もちろんですよ。」マモンは言った。「人々が満たされることを、私は望んでいる。欲望を持つ人間が美しいと、本当にそう思っている。」
澪はその言葉を聞いた。
信じた。いつも通り、否定できなかった。
でも——一瞬だけ見えた、あの目が。
「……そう。」澪はそれだけ言った。
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標本を眺めるような目。温かさのない、計算だけがある目。「人類を愛している」と語りながら——その実、人々を「素材」として見ている目。
澪には届かなかった。一瞬見えた気がしたけれど——マモンがすぐに元の表情に戻ったから。気のせいかもしれないと思った。
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「ほのかさんと話していましたね。」マモンは続けた。「今朝。」
「……見てたの。」
「ええ。」マモンは穏やかに言った。「良い子ですね、ほのかさん。あなたのことを、本当に心配している。」
澪は黙っていた。
「強くなったって、言ってましたよ。頼もしいって。」マモンは続けた。「嬉しそうでしたね。」
「……それも見てたの。」
「ええ。」
澪は不快感を覚えた。ほのかとの会話を、マモンに見られていた。聞かれていた。それが——不快だった。
「ほのかさんには。」マモンは静かに言った。「あなたが変わっていっていることが、分かっていると思いますよ。」
澪の足が止まった。「……どういうこと。」
「言葉にはできていないでしょうが。」マモンは続けた。「感じているはずです。あなたが強くなるにつれて——何かが薄れていっていることを。」
「ほのかには関係ない。」澪は言った。
「ええ。」マモンは頷いた。「ですが——」
そこで、マモンは止まった。
何かを言いかけて、止まった。
澪はその沈黙を聞いた。何を言いかけたのか。何を止めたのか。
「……何?」
「いいえ。」マモンは微笑んだ。「何でもありません。」
「……帰って。」澪は言った。
「ええ。」マモンは頷いた。「一つだけ、最後に。」
澪は黙って待った。
「白炎が感情を餌に育つということ——あなたは今、その恩恵を受けている。」マモンは穏やかに言った。「強くなっている。馴染んでいる。楽になっている。それは全て——白炎があなたの感情を喰らっているからです。」
「だから——何の感情を喰らってるか、教えてほしい。」
「さあ。」マモンは微笑んだ。「あなた自身が、いつか気付くでしょう。」
「いつか。」澪は繰り返した。「いつ?」
マモンはその問いに答えなかった。ただ——穏やかに笑ったまま、夜の闇へ消えていった。
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澪は一人、路地に残された。
強くなっている。馴染んでいる。楽になっている。
それは全て——白炎が感情を喰らっているから。
何の感情を。
怒りはある。怖さもある。でも——悲しさが、ない。
それが答えなのか。
でも——一瞬だけ見えた、あの目が頭に残っていた。
標本を眺めるような目。温かさのない目。「人類を愛している」と言い続けてきたマモンの、仮面の裏側にある目。
気のせいかもしれない。
でも——気のせいじゃない気がした。
右腕の灰色が、夜の中で静かに光っていた。
澪はそれを見つめた。見つめながら——悲しくなかった。
一瞬見えた、あの目のことを思いながら——それでも、悲しくなかった。




