表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七つの炎  作者: ひなもり
第一章 『強欲』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/18

第十七節 『仮面』

「蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるとき、あなたがたの目が開けます。』」――創世記 第3章第4節


「真実を半分だけ語る者は、嘘つきより危険だ。」――失楽の書 第1章第17節


---


その日の戦いは、短かった。


夜明け前に這い出してきたレギオンを、澪は十五分で全滅させた。以前なら三十分はかかっていた規模だった。


右腕の白炎が、よく燃えた。


怒りを燃料にすれば炎は応える。澪が決めた相手だけを焼く。頭の奥の声が「浄化せよ」と叫んでも——澪の意志がそれを遮断する。遮断することが、今は自然になっていた。


戦いが終わって、澪は焼け跡に立った。


息が上がっていない。消耗感が薄い。右腕は熱いが、それだけだった。


おかしい、と思う。


おかしいのに——それ以上考えられなかった。


---


朝になってから、ほのかと会った。


炊き出しの列に並びながら、ほのかはいつものように話した。昨日おばあちゃんの足が良くなったこと。避難所で仲良くなった子供がいること。神崎玲央の演説をもう一度見たいと思っていること。


澪は頷きながら聞いていた。


「ねえ。」ほのかが不意に言った。「澪、最近強くなったよね。」


澪は少し驚いた。「……なんで分かるの。」


「なんとなく。」ほのかは言った。「歩き方とか、目つきとか。なんか——以前と違う。頼もしいっていうか。」


頼もしい。


その言葉が、澪の胸に引っかかった。


頼もしくなった。強くなった。確かにそうだ。白炎が馴染んできた。制御が自然になった。戦いが楽になった。


でも——その代わりに、何かが削れていく感じがした。


「そう、かな。」澪は言った。


「うん。」ほのかは微笑んだ。「なんか——澪が強くなるのは嬉しいけど。」


「けど?」


「なんでもない。」ほのかは首を振った。「ちゃんとご飯食べてね。」


---


午後になって、マモンが現れた。


ほのかと別れた直後だった。路地の角を曲がった瞬間、そこにいた。黒いコート。穏やかな表情。まるで——待っていたみたいだった。


「お疲れ様です。」マモンは言った。「今朝の戦い、見ていましたよ。」


「また見てたの。」


「ええ。」マモンは続けた。「随分と楽そうでしたね。十五分。最初の頃と比べると——別人みたいです。」


澪は答えなかった。


「白炎が馴染んできた。」マモンは言った。「制御が、あなたのものになっている。怒りを燃料にした時の出力が、特に上がっている。」


「それは——感情を喰らってるから。」澪は言った。「前に言ってたね。」


「ええ。」


「何を喰らってるの。」


マモンは少しだけ間を置いた。「白炎が選ぶことですから。」


「それも前に聞いた。」澪は続けた。「毎回そう言って、教えてくれない。」


「教えることができないんですよ。」マモンは穏やかに微笑んだ。「ただ——強くなっているのは本当のことです。あなたが強くなるほど、人々は救われる。今朝も、第二避難所の人々は守られた。それは——良いことでしょう。」


---


澪はマモンを見た。


いつもの穏やかな表情。人類を愛していると言い続けてきた、あの顔。


「マモン。」澪は言った。「一つだけ聞いていい。」


「どうぞ。」


「あなたは本当に、人々を助けたいと思ってるの?」


マモンは少しだけ——笑った。


穏やかな笑みじゃなかった。


ほんの一瞬だけ、その笑みの奥に——別のものが滲んだ。温かさじゃない。愛情じゃない。もっと冷たい、もっと深い何かが。まるで——標本を眺める研究者みたいな目が。


それは本当に、一瞬だけだった。


次の瞬間にはもう、いつもの穏やかな表情に戻っていた。


「もちろんですよ。」マモンは言った。「人々が満たされることを、私は望んでいる。欲望を持つ人間が美しいと、本当にそう思っている。」


澪はその言葉を聞いた。


信じた。いつも通り、否定できなかった。


でも——一瞬だけ見えた、あの目が。


「……そう。」澪はそれだけ言った。


---

標本を眺めるような目。温かさのない、計算だけがある目。「人類を愛している」と語りながら——その実、人々を「素材」として見ている目。


澪には届かなかった。一瞬見えた気がしたけれど——マモンがすぐに元の表情に戻ったから。気のせいかもしれないと思った。

---


「ほのかさんと話していましたね。」マモンは続けた。「今朝。」


「……見てたの。」


「ええ。」マモンは穏やかに言った。「良い子ですね、ほのかさん。あなたのことを、本当に心配している。」


澪は黙っていた。


「強くなったって、言ってましたよ。頼もしいって。」マモンは続けた。「嬉しそうでしたね。」


「……それも見てたの。」


「ええ。」


澪は不快感を覚えた。ほのかとの会話を、マモンに見られていた。聞かれていた。それが——不快だった。


「ほのかさんには。」マモンは静かに言った。「あなたが変わっていっていることが、分かっていると思いますよ。」


澪の足が止まった。「……どういうこと。」


「言葉にはできていないでしょうが。」マモンは続けた。「感じているはずです。あなたが強くなるにつれて——何かが薄れていっていることを。」


「ほのかには関係ない。」澪は言った。


「ええ。」マモンは頷いた。「ですが——」


そこで、マモンは止まった。


何かを言いかけて、止まった。


澪はその沈黙を聞いた。何を言いかけたのか。何を止めたのか。


「……何?」


「いいえ。」マモンは微笑んだ。「何でもありません。」


「……帰って。」澪は言った。


「ええ。」マモンは頷いた。「一つだけ、最後に。」


澪は黙って待った。


「白炎が感情を餌に育つということ——あなたは今、その恩恵を受けている。」マモンは穏やかに言った。「強くなっている。馴染んでいる。楽になっている。それは全て——白炎があなたの感情を喰らっているからです。」


「だから——何の感情を喰らってるか、教えてほしい。」


「さあ。」マモンは微笑んだ。「あなた自身が、いつか気付くでしょう。」


「いつか。」澪は繰り返した。「いつ?」


マモンはその問いに答えなかった。ただ——穏やかに笑ったまま、夜の闇へ消えていった。


---


澪は一人、路地に残された。


強くなっている。馴染んでいる。楽になっている。


それは全て——白炎が感情を喰らっているから。


何の感情を。


怒りはある。怖さもある。でも——悲しさが、ない。


それが答えなのか。


でも——一瞬だけ見えた、あの目が頭に残っていた。


標本を眺めるような目。温かさのない目。「人類を愛している」と言い続けてきたマモンの、仮面の裏側にある目。


気のせいかもしれない。


でも——気のせいじゃない気がした。


右腕の灰色が、夜の中で静かに光っていた。


澪はそれを見つめた。見つめながら——悲しくなかった。


一瞬見えた、あの目のことを思いながら——それでも、悲しくなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ