第二十二話
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メールには素っ気なく「逗子海岸で。あのシーフードレストラン近く。夕方六時に」とだけあった。
(あそこにも別荘があるのかしら)
因縁めいたものさえ感じた。私たちが初めて「家族旅行」した場所だ。
タクシーで海岸までいくと懐かしい風景が目に飛び込んでくる。
再開発が進んでカラフルなホテルやコンクリートも真新しい護岸、
ナイトスポットを意識した青や赤のイルミネーションも一部にしつらえてある。
思い出のレストランはとうに姿を消して駐車場になっていた。
とまどって携帯を探して堤防そばの影に気付く。
「莉奈?」
堤防越しに海を見つめる後ろ姿。髪が風にたなびくままに任せている。周りに人影はなかった。
「莉奈! あんただけ?」
初めて私を認識したように首だけで振り向く。
「美津には来ないで、って言ったの」
「はあ?」
そっと身体を返して莉奈は海辺に降りていく。
目の前に広がる思い出の地。
季節はずれの砂浜には人はまばらで、夕闇に染まる波打ち際は幻のように揺らいでいた。
「珍しいじゃない、あんたの方が早いなんて」
「…………」
ぼうっとして海に目をやっていた莉奈は振りかえる。化粧っ気が無く表情が消えている。
「莉奈……?」
やっとおかしいと気付いた。こんな気持ちが死んだような莉奈を見たことがない。
「どうしたの」
腕に触れようとすると身をよじって避ける。
無言のまま莉奈は水面に視線を流す。目の前で波の息吹が爆ぜた。
「お姉ちゃん、覚えてる?」
「もちろん。父さんたちと最後に来た場所よね」
私たちが「姉妹」になって初めて家族旅行した場所。
そして家族みんなで旅行した最後の場所でもある。
濃さを増す闇に波の音だけが絶えない。忙しない潮騒が逆に周りの静けさを際立たせていた。
あの頃は二人で浮き輪につかまって沖まで泳いだものだった。安全区域を示すブイそばまでいこうと二人で頑張って……
「私ね、泳ぐの好きだけど、ママもかなづちだったじゃない」
「うん」
「遠くに行っちゃダメって言われてたから、浅いところばっかりだったの、それまでは」
一瞬懐かしむような表情を浮かべて私に目をやる。
「沖までいけたのはね、お姉ちゃんとが初めて。一緒に手をつないで」
「そうだったの?」
「なんせ初めてでしょ……とっても怖かったけど、お姉ちゃんがそばにいてくれたから安心できた。お姉ちゃんとならね、どこまでも行ける気がした」
「そう」
思わず笑う。深みのある瞳を浜辺に落とし莉奈は笑みとも何ともつかない表情を浮かべる。
「その時に思ったの。ほんとにお姉ちゃんだって。この人とならだいじょうぶだって」
「…………」
「その時からずっと…… ずっとそうだった」
「……何よそんな話しして」
笑う私に莉奈は表情を変えない。何か変だ。
「莉奈……」
手を伸ばそうとすると再び莉奈は身をよじり顔を上げる。
いつもの目だった。一心に相手にぶつかってくる莉奈の目。眠っていた豹が起き上がるように口を開く。
「美津が言ったの。お姉ちゃんが好きだから別れるって」
「…………!」
全身から血の気が引く。なんてことを! 心臓が引き絞られるように脈打つ。
莉奈は食い入るように私から目を離さない。
蒼白になる私と対照的に莉奈の顔が紅潮する。抑えていた感情が噴き出すかのように続ける。
「意味分かんない! なんでお姉ちゃんと美津?」
全身でつめよってくる。足がもつれた。初めて莉奈を怖れを感じた。
「直接聞こうと思って。だから美津には来ないでって言った。デマカセじゃなくて? 本当の話なの?」
身体が震えだす。何か言いたくてもぱくぱくと空気が漏れるだけだ。
「莉奈……聞いて」
弱々しい抱擁は莉奈から突き放される。
「美津にね、良くない噂があるのは知ってたの。あれだけの人だから。でもこれからは私だけを見るって。本気だって。だから間違いないって私も信じてた」
湧き上がる思いを抑えきれないのか、莉奈も震えていた。
「捨てられる心配もしたことあったけど……なんで? なんでそこでお姉ちゃんが出てくるの! 意味わかんない」
「莉奈……莉奈……」
「お姉ちゃんと結婚するって言ったのよあの人。はっきり。もう決心変わらないって!」
大粒の涙が莉奈の瞳からこぼれ落ちた。
「…………」
「それでね、お姉ちゃんとはもうそういう関係にあるって」
「…………」
口先の言葉は空虚だ。言う先からはじきとばされる。
痛いまでに真剣な表情で莉奈は私を見据える。
「……ほんとなの? 間違いないのね?」
「莉奈……」
力無く私はうなだれた。
「信じられない」
侮蔑、怒り、裏切られた衝撃。一度も私に向けたことのない表情を莉奈の目は映す。
「妹の婚約者取るなんて聞いたことないわ」
分かってる。私が一番受け入れられてない現実だった。
「浮気があるかもって思ってたけど……なんでよりによってお姉ちゃん?」
頭がぐらぐらする。もはや謝罪の言葉も出てこない。
「私に幸せになってほしいって言ったよね? お姉ちゃん。ずっと見守ってあげるって」
両手でぶつかるように胸元をゆさぶる。
「お姉ちゃんじゃない! 私の幸せを壊してるの」
こん棒のように莉奈の言葉は私を打ちのめす。ただ打擲されるしかない。
「なんで? なんで? 赤の他人だってこんなひどいことしないわ」
何も言えない。何もできない。
どれだけひどいことをしたかは自分が一番わかってる。
自分の妹に対して。
やがて莉奈は両手を離した。
憎々し気な目はそのままに私と距離を置く。
血が滲まんばかりに唇をかみしめていたが、やがて吐き捨てるようにつぶやく。
「そうよね。どうせ……」
軽蔑したように私から目をそらす。
「その程度なのよね。お姉ちゃんにとったは。やっぱり」
「……えっ?」
莉奈はわずかに顔を上げる。
「だって……本当の妹じゃないから」
気付くと手が出ていた。
頬を張る音は潮騒の中で高く響いた。
私たちの間に入った消えない亀裂の音だった。
莉奈は頬を抑えたままうつむいている。長い髪に隠れて表情が見えない。
潮騒だけが夜の闇の中で重みを増していく。解決のつかない深く暗い闇。
身をひるがえすと莉奈は堤防の石段に走った。
「莉奈!」
足が砂にとられる。焦るほど身体が動かない。呼んでも振り返らなかった。
私と私たちの全てを置き去りにして闇の中に消えていく。
「莉奈!」
家並みが入り組んで見通しが悪い。
元々漁村だった場所が急速に発達して造りが複雑だと聞いたことがある。
失われた身体の一部を探すように家族の影を求めた。
時折不審げに住人が顔をのぞかせるだけで私の血を分けない妹は見当たらない。
埒が明かず、私は槇岡に電話して車で探してもらう。
「ダメだ、どこにもいない」
さんざん走り回った後で槇岡も車から降りてきた。
海岸そばの通りはそれなりに車が行き来がある。時折ランプの点いたタクシーが行き過ぎる。
「たぶん車を拾ったんだろう。携帯にも出ない」




