三
王宮の医務室。
ベッドの両脇に国を代表するトップオブトップのイケメン二人が陣取り、私の鼻血をどちらが拭うかで血みどろの(物理的な意味ではない)争いを繰り広げている。
「君が倒れたと聞いて、生きた心地がしなかった。……もう離さない。君の鼻血は、私がすべて拭い去ってみせる」
「戯言を抜かすな殿下。リリアナの鼻血を受け止めるのは俺だ。俺の分厚い胸板で、お前のすべてを受け止めてやる」
(いやいやいや! 鼻血を受け止めるって何!? どんな性癖!?)
私は内心で激しくツッコミを入れながら、猛烈な危機感に襲われていた。
これは完全(?)に乙女ゲームでいうところのの「ヒロイン溺愛ルート」だ。いや、鼻血拭き取り合うなんてシーン、見たことないけれど。
(くそ!どうすれば永遠にイケメン達のイチャイチャを観ていられる!!)
このままでは、甘々なヒロインルートに強制突入させられてしまう。
イケメンを振って悲しませるなど、私のような凡俗な人間には烏滸がましい。
私は必死に脳細胞をフル回転させた。どうすればみんな幸せイケメンパラダイスを継続させられるのか。
答えは一つしか思い浮かばなかった。
どうしてそうなったのかは分からない。
多分この時は正気を失っていたんだと思う。
(そうだ……引かせればいいんだ。ドン引きされるような、最高に気持ち悪い女を演じれば、彼らも絶対に私から離れていくはず!)
私はスゥッと深呼吸をし、意を決して口を開いた。
「お、お待ちください、お二人とも!」
私の悲痛な声に、アレクシス殿下とレオンハルト様がピタリと動きを止めた。
「鼻血は……拭わないでくださいっ!」
「え……?」
「リリアナ、何を言っている? 汚れたままでいいはずがないだろう」
「いいえ! この鼻血は、お二人の極上のフェロモンを全身で浴びた結果生み出された、言わば『聖なる雫』です! 拭うだなんてとんでもない! 後で丁寧に小瓶に回収して、祭壇に飾って毎朝拝みます!!」
私は瞳孔をカッと開き、両手を天に掲げながら熱弁を振るった。
どうだ。気持ち悪いだろう。高貴な令嬢が自分の鼻血を小瓶に詰めて拝むなど、狂気の沙汰である。これで間違いなく「頭のおかしい女」としてドン引きされ、婚約の話も立ち消えになるはずだ。
私は二人の冷ややかな蔑みの視線を期待して、そっと顔を上げた。
しかし。
「……っ、リリアナ……!」
アレクシス殿下が、なぜか感極まったような表情で両手で口元を覆っていた。
「私のために流した血を、そこまで神聖なものとして扱ってくれるというのか……? なんという深い愛情だ。君は、自分の身を削ってまで私への愛を証明しようとしてくれているのだな……!」
「なっ、待て殿下! リリアナは俺のフェロモンを浴びたと言ったんだ! リリアナ、お前のその狂おしいほどの情熱……悪くない。俺のすべてを受け入れるという、強烈な覚悟を感じるぞ!」
レオンハルト様まで、ギラギラとした熱い瞳で私を見つめ返してくる。
(違うぅぅぅぅぅ!! なんでそうなるの!? なんで『愛の証明』に変換されてるの!? 頭イカれポンチかこの野望おおおおうぅぅう!ポジティブシンキングの化け物かよ!!)
どんだけ私への好感度フィルター分厚いんだよ。普通鼻血とっとく女なんて通報案件だろうがよおおおお!!
(くそっ、まだだ! まだ限界突破できるはず!)
私はヤケクソになり、前世で培ったオタクの業のすべてを解放することにした。
「あ、愛の証明だなんて、そんな……! 私はただの変態です! お二人からいただいたループタイとマントの留め具だけでは、もう足りないんです!」
私はベッドから身を乗り出し、ガンギマリの目で二人に迫った。
「アレクシス殿下! 殿下のその……今朝からずっと履いていらっしゃる、殿下の汗と匂いがたっぷり染み込んだ靴下をください! それを顔に乗せて深呼吸しないと、もう夜も眠れません!」
「レオンハルト様! 様のその分厚い胸板を覆っている、一番下に着ているインナーをください! 汗と獣の匂いが染み付いた布を抱きしめて、三日三晩ナニをシコりたいんです!!」
言った。ついに言ってしまった。
貴族の令嬢としてはもちろん、人間として完全に終わっている発言だ。いくら好意フィルターがかかっていても、靴下と汗まみれのインナーを要求し、あまつさえ「シコりたい」などと宣う女を愛せるわけがない。
私は荒い息を吐きながら、今度こそ彼らが汚いものを見るような目で私を見下し、足早に部屋から出ていくのを待った。
数秒の、重い沈黙が流れた。
「……っ、リリアナ……!」
最初に沈黙を破ったのは、アレクシス殿下だった。なぜかひどく痛みを堪えるような表情で、両手で顔を覆っている。
(しめしめ。さすがの殿下もドン引きして言葉が出ないようね!)
私が内心でガッツポーズをした、次の瞬間。
「すまない、リリアナ。私としたことが、君をそこまで追い詰めていたとは……!」
「……え?」
「俺もだ。まさか、俺たちの生ぬるい愛情表現が、お前にこれほどの『渇望』を抱かせていたとはな……」
レオンハルト様までが、ドン引きするどころか、ギラギラとした熱と庇護欲に満ちた瞳で私を見下ろしてくる。
(えっ? ちょっと待って。渇望? 追い詰めた?)
「君は、私たちの私物……布切れに染み付いた匂いだけで、三日三晩、孤独に自分自身を慰めなければならないほど、強い愛と寂しさを抱えていたのだね……!」
「なっ、待て殿下! リリアナのその狂おしいほどの情熱を、ただの寂しさと片付けるな。布切れの匂いを嗅ぎながら三日三晩俺を想い続けるという、強烈な覚悟と執着の表れだ!」
(違うぅぅぅぅぅ!! なんでそうなるの!? なんで『布切れで孤独を慰める悲恋のヒロイン』みたいな超解釈に変換されてるの!? 私はただ物理的な使用済み推しグッズが欲しかっただけの変態なのに!!)
私に対する恋愛フィルターどんだけ分厚いんだよ!!こんなもん婚約破棄追放どころか打首獄門吊るし首案件だろうが!!
「あ、愛の証明だなんて、そんな……! 私はただの変態です! だからもう、私なんかに構わず……っ!」
必死に否定しようと身を引いた私を、アレクシス殿下の優しい腕がそっと包み込んだ。
「もういいんだ、リリアナ。君に靴下やループタイを抱きしめて泣くような夜は、二度と過ごさせない。……布切れなんかじゃなく、私のこの体温で、君のすべてを愛で満たしてみせる」
殿下の甘い吐息が耳元にかかり、高貴なシトラスの香りが全身を包み込む。
「抜け駆けは許さんぞ、殿下。……おい、リリアナ」
今度は反対側から、レオンハルト様が私の肩を強引に引き寄せた。
「俺のインナーで自分を慰めるくらいなら、俺のこの胸板に直接しがみつけ。お前のその強欲な欲望ごと、一晩中、いや一生、俺が抱きしめて愛してやる」
男らしい野性味あふれるフェロモンが、鼻腔をダイレクトに突き抜ける。
右から、皇太子の甘く切ない極上の愛の囁き。
左から、辺境伯の強引で熱を帯びた独占欲。
(あ、あれ……? ドン引きさせて逃げるはずだったのに……なんだろう、この胸の奥がぎゅっと締め付けられる感じ……)
彼らはもう、私を「控えめで可憐な令嬢」としてではなく、「剥き出しの欲望と愛情をぶつけてくる、一人の女の子」として真っ直ぐに見つめていた。私物や残り香ではなく、今、目の前にある本物の体温と、痛いほどの愛情。
「私……本当に、ただの変態で……地味な女ですよ……?」
私が真っ赤になって俯くと、二人は顔を見合わせ、ふっと優しく微笑んだ。
「君のそのすべてが愛おしいんだ。ゆっくりでいい、君が満たされるまで、何度でも愛を囁こう」
「お前が俺たち以外見えなくなるまで、とことん溺愛してやる。覚悟しておけ」
ドクン、と。
オタクとしての興奮(血圧上昇)と、女の子としてのトキメキが、同時に限界を突破した。
(こんなの……オタクじゃなくても、好きになっちゃうじゃないですか……っ)
両手と顔面から供給される致死量の本物のフェロモンと「推しの生身の愛情」の前に、私の脆弱な理性は完全に塵と化した。
「あ……あひゅ……っ、尊い……しあわ、せ……」
ブブーッ!!!
本日二度目の、そして先ほどよりも遥かに勢いのある鮮血の噴水が、私の両鼻から天高く吹き上がった。
「リ、リリアナァァァッ!?」
「おい! さっきより血の量が増えてるぞ!! 誰か、誰か早く医者を!!」
慌てふためき、顔面蒼白になりながら私の名を叫ぶ二人の極上の美声。
それを最高のBGM(子守唄)として聞きながら、私は二人の腕の中でうっとりと目を細めた。
あぁ、乙女ゲームの神様、ありがとう。
これからは、彼らの重すぎるほどの愛を一身に浴びながら、心臓の休まる暇もない、極上に甘くて幸せな「ヒロイン」としての毎日が始まるのだ。
推しの私物でガンギマリしていた地味女は、かくして本物の恋を知り、イケメンパラダイスのど真ん中で幸せな悲鳴を上げ続けるのだった。
「あぁ……最高の……人生……」
満面の、そして最高に幸せな笑みを浮かべながら。
私は鼻血まみれで、至福の極みの中で再び幸せにぶっ倒れたのだった。




