九話 三日目②
エルフ、という亜人の話を聞いて、それがすぐスプリさんのことを言っているのだと分かった。
僕は淡々と語る店主を食い入るように見つめ、続きを待つ。
「なんでもやつらの血には特殊な魔法がかけられていて、十五歳くらいで成長が止まっちまうらしい。そのうえ寿命は俺ら人間の約八倍、つまり五百年くれえ生きるもんだから、どんなに綺麗で可愛かろうが実は百歳年上でした、なんてことがあるわけだ」
年を取らないとか、五百年生きるとか、彼の話を信じる人はほとんどいないだろう。
十年前から全く容姿の変わらないスプリさんを知っている僕でさえ、にわかには信じがたい内容である。
そもそも、そんな種族がいるのならもっと有名になっているはずだ。
「信じてねえ、って顔だな?まあ無理もねえ。エルフのほとんどは集落の中で一生を終えるうえ、集落から出てきたやつらも隠れて暮らすから、俺達の短い生涯の中でエルフと触れ合えるなんてのは稀中の稀。だからエルフっつう種族がいることなんかほとんどの奴ぁ知らねえのさ」
彼は僕の疑いの視線を感じ取ったらしい。
「その集落から出てきたエルフがスプリさんだと?」
「あの見た目と、お前の話を聞く限りはそうだろうな」
彼はどうやらエルフとやらに詳しいらしいから、彼が言うのならばスプリさんはエルフなのだろう。
だが、それがどうしたと言うのか?
仮にスプリさんがとても珍しい種族だろうが、長生きだろうが、僕よりうんと年上だろうが、そんなことは正直どうだっていい。
僕は彼女のことが好きだ。
種族が違っても、生きる時間が違っても、それが揺らぐことはない。
僕が今気を揉んでいるのはそんなことではなく、彼女が僕を酷い父親だと勘違いしていることなのだ。
彼は何を言いたいのか?
「それで、スプリさんがエルフだとしたらどうなんです?」
心に余裕がなく、結論を急かす僕とは対照的に、店主は何かを反芻するように間を置いた。
「エルフが老化しねえのは、心も一緒なんだよ。やつらは寿命を終えるまでずっと、子供みてえな感覚で生きるんだ。なんでも興味が湧いて、なんでも面白くて、嫌なことはとことん嫌。そんななんにでも必要以上に刺激を受けちまうような心を抱えたまま、五百年の時を生きる。これがどういうことか分かるか?」
二十年も生きていない僕に、そんなこと分かるわけがない。
首を振ると、彼は僕の頭を指さして、
「脳を酷使しすぎるんだよ。 お前が十年前のことをまるで昨日のことのように話してたみてえに、子供の時の記憶ってのは鮮明に残っちまうもんだ。そんな鮮明な記憶を数百年分も貯め込んでいくと、やがて容量の限界が来ちまう。するとどうなるか?――ある日突然ぶっ壊れちまうんだよ。老化しないのに五百年で死ぬのは病気でも怪我でもなく、酷使しすぎた脳がぶっ壊れて止まっちまうからなんだ」
頭の中で何かがはまる音がした。
でも、僕は目を背けた。
「だがさすがはエルフと言うべきなんだろうが、脳が壊れてもすぐに死んじまうわけじゃねえ。ずっと心が子供のままだから、きっと死ぬなんてことはずっと遠いもので、受け入れるなんてことは出来ねえんだろう」
「それが……どうしたっていうんですか?」
バカなフリをした。
「エルフは脳が壊れる寸前、体内に蓄えた膨大な魔力を使って寿命を出来る限り引き延ばす。その時間を使って、脳にため込んだ膨大な記憶の中に逃げ込むんだ。おそらく己の記憶の中から『壊れた脳を直す方法』を探す為だろう」
考えるな。考えるな。
僕の心とは裏腹に、疑問が解消されていく。
「そうなったエルフは、まるで本当にその時間をやり直しているかのように振る舞うようになる。 死ぬまでの一日一日を、幼少の記憶から辿るように再現しながら過ごすんだ。『再現』しながらな」
彼が僕に伝えようとしていることはとっくに分かっていた。
「止めてください」
だから、もう聞きたくなかった。
「エルフはまず、空間を再現する。ガキの時なら当時暮らしていた家なんかをな。心当たりがあるんじゃねえか? 家の外観と内観がちぐはぐ、とかな」
「もう言わなくていいです……!」
「次は人だ。そこにいるはずのないやつがいた場合、そいつを記憶の中の誰かに置き換える。お前の場合、今は父親に置き換えられている、ってわけだ」
「分かりましたから! もう黙ってください!」
「つまり、だ。俺が言いたいのは」
「だから黙れよ!!!」
無性に腹が立った。
なんでこの男はこうも淡々と話すことが出来るのか?
彼の言葉を掻き消そうと声を張った。
言う通りにしてくれない彼を睨みつけて、静かにさせようと思った。
でも、
「――ッ!?」
彼の形相に気圧された。
そこにあったのはとめどない激情。
これが殺意なのか、と漠然に思ってしまったほどの、強い怒りだった。
彼は、何をそんなに怒っている?
頭が真っ白になった。
だから、彼の言葉の続きが、嫌なほどはっきりと聞き取れてしまった。
「――そのスプリってエルフはもう長くねえ、ってことだ。まだ幼少の記憶ってことを考えても、あと四十……長くて五十日ってところじゃねえか?」
彼は淡々と、まるで世間話でもするかのように言った。
先ほど感じた殺意はどこかに消え失せていた。
「ってことだからよ? 悔いの無えようにしっかりやれや。 ほら、いったいった。これ以上は何も教えてやれねえから、早く娘んトコに帰ってやんな」
「……は?」
彼の言ったことはちゃんと聞こえたし、理解することも出来た。
スプリさんはエルフで、とても長生きで、若いままで、だから僕のことを父親だと思っていて、死ぬ。
彼はそう言っている。
「は……ッ。はァ?」
スプリさんは僕の全てだ。
命の恩人で、初恋の人で、生きる理由。
髪がサラサラで、目が大きくて、肌が嘘みたいに綺麗で、凄く強い、僕の好きな人。
そんなスプリさんが、死ぬ?
「ま、待ってくださいよ!? そんなの……だって……っ!ありえない!! おかしいでしょう!? 十年!十年だ! 彼女を笑顔にしたくて、その為だけに頑張ってきたんだ! 彼女の為なら何でも出来るって思って、辛いことも乗り越えてきたんだ! それでやっと……やっと彼女に会いに来た! なのに……っ! もうスプリさんは長い走馬灯の最中で? 四十日で死ぬ?
そんなことがあっていいわけがないだろう!? 」
到底受け入れられなくて、店主を怒鳴りつけた。
めちゃくちゃになった心を吐き出すように、言葉を荒げた。
「僕はあの日全部奪われた! 家族も家も友達も、故郷も!全部ワイバーンに奪われたんだ! もう僕にはスプリさんしか居ないんだよ! なのに何で!何で何で何でッ! スプリさんまで奪われなきゃいけないんだよ!? なんで僕ばっかりなんだ!? なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ!? 僕が何をしたって言うんだよ!? なぁ!? 教えてくれよ!?」
僕は店主に詰め寄って、胸倉を掴んだ。
店主は悪くない。
彼はただ知っていることを教えてくれただけだ。
そんなことは分かってる。
分かっているけれど、止められない。
「――ッ!?」
刹那、唐突に視界が右回りして、僕は床に倒れ込む。
左の頬がじわじわと熱くなって、殴られたのだと分かった。
顔を上げると、店主が僕の胸倉を掴み上げたところだった。
「お前が何をしたかだぁ!? 知るワケが無えだろうが! だがこれだけは分かる! テメエが不幸な自分に酔ってるだけのクソ野郎ってことがなぁ!」
「不幸な自分に酔ってる!? ふざけるな!! 僕がどれだけ……」
「ほぉらまた言った!『僕が』『僕が』『僕が』ァ! テメエはそればっかりなんだよ! 全部テメエのことだ!いいか!? テメエの思い込みを一つ教えてやる!テメエはそのスプリのことが好きなんじゃねえ! スプリのことを笑わせてえんじゃねえ! スプリを好きなテメエが好きなんだよ! スプリを笑わせる為に頑張ってるテメエが好きなんだよ!」
「違う!違う違う! 僕は本当にスプリさんのことが……」
「じゃあなんでテメエはスプリが死ぬと知ってからずっと! 自分のことしか言ってねぇんだ!?」
「あ……」
「『僕はこんなに頑張った!』『僕はこんなに辛い目に遭った!』『僕はまた奪われる!』……そうじゃねえだろう!? スプリを好きなんだったら、笑顔にしてえならァ! スプリの為に何が出来んのかを真っ先に考えなきゃいけねえだろうが……!」
店主の言う通りだった。
彼女が死ぬことを知ってからずっと、僕は自分の人生を呪い、喚き散らしていただけだ。
僕はスプリさんを好きな自分に酔っていて、スプリさんを笑顔にしたいと思う自分に酔っている、クソ野郎だ。
でも、それだけじゃない。
僕は本当に、心の底から彼女のことが好きだ。
彼女のことを笑顔にしたいと思っているのは、嘘偽りない本心だ。
スプリさんを幸せにできるなら、僕は何だって出来る。
全部本当のことだ。だから……
「じゃあ、どうしたらいい……?どうしたらスプリさんを救ってあげられる?」
声が震える。
「 僕は間に合わなかった。助けてもらったのに、生きる理由をもらったのに、僕の好きな人になってくれたのに、僕は十年間も彼女をほったらかしにした。その間にスプリさんは記憶の中にいってしまった……!」
視界が滲む。
「今の僕はスプリさんを虐待するひどい父親で、僕が知らない間に、彼女の中の僕が彼女を傷つけてしまう。 教えてください。僕はどうしたら、スプリさんに恩返しができますか……?」
目標を掲げて頑張れば、いつか届くと思っていた。
いつか彼女を笑顔に出来る日が来るのだと、信じて疑わなかった。
でも、僕は何も出来なかった。
彼女が好きだと叫んで、彼女を笑顔にすることを夢見て、何も出来なかったのだ。
どうしてもっと早くスプリさんの元に行かなかった?
どうして孤児院の前でスプリさんを引き留めなかった?
どうしてもっと早く生まれなかった?
無力感が、情けなさが、悔しさが、溢れ出す。
「側にいてやれ。出来ることはそれだけだ」
店主はそう言って、僕を離した。
「でも、スプリさんの中の僕は」
「虐待する父親なんだろ? だからどうした?」
「え?」
「お前はスプリを殴ったのか?ちげえだろう? お前は今朝スプリに『叩かないで』って言われて、どうしたんだよ?」
「……謝った」
「それで?なんて言ってた?」
「『優しいお父さんに戻ってくれて嬉しい』って言って、泣いてた」
店主は「いいじゃねえか!」と笑ったあと、
「じゃあ今のテメエは『優しいお父さん』じゃねえか。『虐待するクソオヤジ』じゃねえ」
僕に手を差し出して言った。
淀んだ視界を晴らす言葉だった。
腹の奥が熱くなって、たまらず身体に力が入る。
手を取ると、店主は僕を立たせた。
「虐待するクソオヤジだろうが、他のカスみたいなやつだろうが、お前がやることは変わんねえだろう? 好きな女を笑わせる為に一生懸命やるんだよ。十年間頑張ってきたんだろ?」
「うん」
「じゃあ行け。弱ったらまたブン殴られに来い」
「うん……!ありがとう!!」
僕は店主に手を振って、急いで彼女の元へ向かう。
息が切れるとか、足が痛いとかは感じなくて、一秒でも早くスプリさんの元に行きたくて、全速力で走った。
家につき、勢いのままに玄関扉を開け、スプリさんを探す。
彼女は椅子に座って、裁縫をしていた。
「お、お帰りなさい……! 忘れ物でもしたのかなぁ……?」
彼女は目を大きくさせたあと、不器用に笑った。
眸が、少し揺れている。
僕は、今朝二度と叩かないと約束したばかりの父だ。
「ただいま。 それが用事が明日だったみたいでさ? 帰ってきちゃった」
「そ、そうなんだぁ」
「うん。だから、今日は暇になっちゃったから、もししたいこととかあったら言ってね? 絵を描いたりとか……裁縫も得意だから教えたりできるし……それか今日は天気がいいから、散歩とかもいいかもね! もちろんスプリちゃんが良ければだけど……」
「お父さん」
「な、なにかな? もしかして一人でいたい?それなら」
「なんで泣いてるの?」
頬に触れると指が濡れて、驚いた。
「い、いやぁ。なんでかなぁ? おかしいなぁ!」
二度、三度、顔を拭って、溢れ出るものを押し込んだ。
でもどうしても止まらなくて、勢いが強まっていく。
「お父さん」
「ごめんごめん!すぐに止まるから! おかしいよね、こんな。あれ?」
「おいで?」
スプリさんが微笑みながら、手を広げていた。
彼女がすごく大人びて見えて、僕は吸い込まれるように抱きしめられた。
「よしよし。辛かったねぇ」
手のひらの優しさが髪を伝う。
体温が僕を包み込む。
「あ、その、ごめ」
「だいじょうぶだいじょうぶ。もうだいじょうぶだからねぇ」
言葉が染み渡って、僕のなにかをほどいていく。
泣かないと決めたのに。
人を笑わせる人が泣いちゃいけないのに。
喉が勝手に震えて喋りづらくて、視界がぐうっと狭まって、何も出来なくなる。
それほどに、スプリさんは優しくて暖かかった。
「う゛っ。ううっ……!うわああああ――!」
僕は声を上げて泣いてしまった。
悲しくなってしまったのだ。
彼女に残された時間はあと僅かだと、知ってしまったから。
悔しくなってしまったのだ。
彼女との約束を果たすことが、出来なくなってしまったから。
寂しくなってしまったのだ。
彼女の眸に僕が映ることはもうないのだと、思ってしまったから。
僕はいま、スプリさんの走馬灯の中にいる。
けれど、スプリさんの走馬灯の中に、僕はいない。
僕はいないのだ。