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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
6月22日
93/106

11-1:廃 墟《月光とかぐや姫との待ち合わせ》

 

  ◇  ◇  ◇

 

 過透明な旋律が流れている。

 夜の廃墟を満たす、そのピアノの音色に浸されながら郷村は階段をのぼる。一段上にのぼるごとに、冷たいコンクリートに靴音が反響する。一歩足を踏み出すごとに、音色の源へと近づいていく。けれど、あまりに近づきすぎて触れてしまったら、そのせいで壊れてしまいそうな儚さもあった。それでものぼる。それがここにきた理由だから。

――『来週の金曜 このビルの屋上で』

 ある日、そう書かれたメモが部屋のドアに貼られていた。その筆跡は彼も一度だけ見覚えがあった。水晶のようなピアノに貼られていたメモに書かれていたのと同じだった。そして、どことなく、思いつめた末の決意のようなものを漂わせている。

 それきり、差出人は姿を見せなくなった。

 郷村は、皮肉にして不思議な出会いの対照を考えていた。初めて会ったとき、郷村がいた廃墟へと彼女が夜の中から現れた。まるで月から降りてきたみたいに。そして今度は自分のほうが彼女を訪れようとしているのだ。そして彼女はそれを待っている。まるで月へ帰る前の別れにのぞむみたいに。

 郷村の胸には彼女がこの廃墟を去るという、ほとんど確信めいた予感があった。それがどのような理由によってかは、わからない。自分が何らかの原因なのか、それが彼女の願いなのか、それともどうしようもない事情を抱えているのか。

 けれどそれがどのような別れになるにせよ、どのような形での共同生活の幕切れになるとしても、自分はその別れの言葉を受け止めなければならないと感じていた。その瞬間には立ち会わねばならないと決めていた。これまでここに居た者として。これからもここに残る者として。

 彼女の下したひとつの決断、その選択。 

 ピアノの音色以外には、自分の足音しか響かない。

 彼女だってそれが聞いてるはずなのに、演奏の手を止めることはない。彼が扉の前に立ち、彼女の前に姿を現す瞬間を待ちわびているのだ。もうとっくにフォルテと出会った階は通り過ぎた。彼が長らく自室として使ってきた階を、今、通り過ぎる。

 残るのは彼女の待つ最上階へと続く階段だけになった。なんの明かりもないはずの暗闇の中で、どうしてなのか階段だけが淡く浮き上がっているように見えた。まるで天国へと伸びる、夜空に架かる橋のようだった。

 音色に誘われるように階段をのぼる。音が近づく。彼女へと近づく。曲は盛り上がり、次第にクライマックスへと導かれていく。別れの予感が強くなっていく。

 そして――彼は、辿りついた。

 ノックをするまでもない。彼女は初めから扉を開け放して、ただ、待っている。待っていたのだ、彼が自分からその向こうへ一歩を踏み出す瞬間を。彼が足を踏み入れる。穏やかに、月夜の彼方へと消え入るように、演奏は終わりを迎えた。

 月の光に透けてしまいそうなほど白く儚い腕が下ろされる。細く脆い指が鍵盤から離れる。無機質なコンクリートに深い余韻を響かせながら、彼女はたった1人の観客のための演奏を終えた。

「こんな夜にピッタリですね」

 彼は初めて会ったときのように、声を掛けた。暗闇の中から、月明かりの柱の真ん中にいる少女に向かって。けれど、もう、ピアノを弾けるのかなどと野暮なことを聞く彼ではなかった。

「ドビュッシーの『月の光』という曲です」

 彼の挨拶を受けて、彼女が椅子から立ち上がる。彼女も、以前の彼女ではなかった。ピアノの前に立ち尽くし、問いかけの眼差しを投げかけるようなことはしない。

「いい曲です」

「でしょう?私も大好きで、暇さえあればよく弾いたものです」

「曲もそうですけど、特に演奏がいい」

「――もう、〈樹〉くんはすっかり口がお上手になったんですね」

「〈希〉さんだって、俺をあしらうのがすっかり板についてきたじゃないですか。それにさっきのだって本心です」

「本当ですか?」

 本当でも嘘でも気にしなさそうな口ぶりで尋ねられる。

「ええ。そのピアノもずっとここで〈希〉さんを待っていた甲斐があります。こんなにいい演奏者に恵まれたんだから、きっと楽器冥利に尽きると思ってますよ」

 いきなり暗い話に切り込むのが躊躇われて、いつにもまして無意味な軽口を叩いてしまう。彼女は、やはりどちらでもよさそうに微笑みながら、彼の冗談に付き合った。

「楽器にも心はあるんでしょうか」

 その佇まいが、言葉にしがたいほどに彼の心を捉えた。彼女はまるで紫水晶のようだ。夜の中にあってこそ、より神秘的に、幻想的に美しさに深みがでる。

 そんなことを考えながら、彼は答えを口にする。

「あるかもしれません。〈希〉さんが信じるなら」

 そう言って郷村は数歩前に進む。けれど、月の光の中に入ってゆくことが、どうしてもできなかった。見えない境界に隔てられているようだった。もちろんそんなものなどあるはずがない。彼と彼女の間にあるのは、空気と光と塵と夜くらいで、遮るものなどなにひとつなかった。心の距離と彼自身の躊躇いを除けば。

「〈樹〉くんは・・・なんだかとても変わりましたね」

 手の届かない光の中から彼女が彼に語りかける。

「こんなことを言っていいのか分かりませんが、最初はすごく儚い人だと思ってたんです」

 夜の虹のように幻想的なほど美しい少女が遠く過去を見つめる瞳になる。

 彼が彼女を見ていたように、彼女もまた彼のことを見ていたのだという。

「変なたとえですけど、生きる理由を求めてるというより、死ぬ場所を探して彷徨ってるように見えたんです。どこか危なっかしくて、目を離したらいなくなっちゃいそうで」

 まるで鏡合わせのようなことを言う。もしかしたら、2人は瞳に映るお互いの姿を通して、鏡では見ることの出来ない自分自身の心を目にしていたのかもしれない

「でも、今は全然違う。なにか確かな手応えを感じているように見えるんです。悲しいことも、嬉しいこともその一瞬一瞬に向き合う、生きることに対する誠実さがあるというか・・・。だから、変わったなあって思ったんです。そして私は、それこそが〈樹〉くんではない、本当のあなたの表情なんだと思います」

 それを見ることができて嬉しい、と寂しそうな顔で言う。

 彼女の雪のように白い肌は青白い月明かりのもとで、いっそう透き通っていた。彼女自身が淡く光を発しているようにさえ見えた。この夜の星の光がそっと彼女の中に流れ込んで、それによって光るのだ。彼女という存在の内側から、生命の輝きとでも呼びたい光が泉の水のようにこんこんと溢れ出しているかのように。

「それは、ものすごい買いかぶりですよ。俺はそんな大した人間じゃない。いつも何かに怯えて虚勢をはっているだけです」

 そして、だからこそ今もこうして立ち止まっている。それに触れたい、手を届かせたいと願いながらも彼女を照らす光の中へと最後の一歩を踏み込めないでいる。きっと、踏み出せば自分は知ることになる。彼女がずっと抱えてきた秘密、その重みを。



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