11-2:廃 墟《月食と透明な幻想の消失》
「そんなことより、今日は素敵なことがあるんです」
なかば無理矢理に明るい話題へと舵を切る。
「ちょっと前、一緒に桜を見に行ったとき夏になると蛍が綺麗だと言ったでしょう?今日がちょうど見頃なんです。少しだけ歩くことになりますが、後悔はさせません。どうですか、ご一緒に」
いつだったか春風の中で交わした約束だった。あるいは、約束とよぶにはあまりに頼りない言葉のまやかしだったかもしれない。しかし、そうだとしてもあの一幕の思い出の欠片が彼らをここまで繋ぎとめるための何らかの力をもっていたようにも思う。いかに微力であれ未来へ導く希望であるなら、やっぱりそれは約束とよんでいいような気がする。
「・・・すみません。私も、行きたい気持はあるんですが」
しかし、彼女は俯いて首を横に振った。
「楽しみにしてたんです、本当に。だけど今日は、たぶんもう、そんな時間は残されていないんです」
なにかしら含みのある言葉を使う。その文脈の本当の意味を彼は知ることができない。そしておそらく、その秘密の鍵を、あるいはパズルを解くヒントを彼に預けたくて彼女はここに呼び出したのだろう。
「今日は、ってことは、別の日なら時間があるってことですか」
分からないなりに、手探りで希望的観測の材料を見つけようとする。
「そうかもしれないですし、そうじゃないかもしれません。・・・すみません、詳しいことはまだ伝えることが怖いんです」
彼女自身も何かを躊躇っているらしく、答えを引き延ばす。その口元は何か救いの手を求めるようにも見えた。
暗闇をさまよう彼の手は、けれどもやはり壁に触れた。どうやらここが行き止まりらしい。彼女の俯いた沈鬱な顔もそれを物語っている。本当に?まだできることが残されてるんじゃないか?つい彼も俯くと、足下に光と闇の境界線が見えた。あの向こうに辿り着ければ――、そう考えたとき彼女が言葉を続けた。
「だから、全部を〈樹〉くんに伝える前に、最後にお願いがあるんです」
そう言って顔を上げる。そのときにはもう笑顔を作っていた。困ったような、寂しそうな顔。「今までもワガママを言ってきたけれどこれが最後のワガママだから、受け入れてもらえると嬉しいです」
それを見て彼は、彼女がまだ自分で答えを出せてないのだと感じた。だからこそ自分がお願いをきくかどうかに判断を委ねたのだと。
逃げていたのは、彼だけではなかった。互いが互いにとっての核心に迫られることを、どこかで待ち望みながらも、同時に何よりも恐れていた。「最後」という言葉が意味に添える生々しい重みを感じながら、それでも彼は頷く。
「・・聞かせてください」
その言葉を受けてほんの少し、嬉しそうな色がさす。
「私とデートしてください」
「――でーと、ですか?」
思わず少し拍子抜けする。まさかカップル専用のスイーツ店に行って食べさせあいっこしあったり、上映中に映画そっちのけで手を繋ぎ見つめ合うようなことを言ってるわけではないだろう。
「電車でちょっと行ったところに、日本庭園が有名な公園がありますよね。そこに来てほしいんです。七夕の日の、日の出の時間に」
「ええ、それくらい構いませんけど・・・」
やはり世間並みの甘酸っぱいデートを連想するのは甘すぎた。というより、現実が渋すぎるのかもしれない。思春期などというただれた年頃の男女が、ご年配の方々が犬の散歩をしてそうな早朝に、よりにもよってワビサビした和風空間でデートだなんて。
「ちょっとがっかりさせちゃいましたか?」
「いいえ。俺はコーヒーより抹茶を嗜むほうなので。〈希〉さんもスイーツより団子派な乙女なんですよね?」
「もちろんです」
まったくの嘘だった。毎朝コーヒーを飲むのが日課である。それでも構わない。ひとまずは彼女に笑顔が戻ったのだから。
「きっと向かいます。約束です」
つい意気込んだことを言うと
「そんなに硬くならないでならないでください。デートなんですから」
「そうでした。楽しみにしてます」
彼が微笑むと、彼女も頷いてくれた。
「ありがとう。私も楽しみです」
そう言って彼女が後ろに数歩下がる。次第に光の端のほうへ寄っていく。
(なにを――)
しようとしているのか。咄嗟に彼が右足を光の中へ踏み入れた。と同時に、彼女も光の外へと片足を踏み出した。その姿の半分が夜の暗闇の中に溶け込んでいく。2人は距離を保ったまま、光の内と外に入れ替わる。そのとき、この部屋に一条の光を投げかけていた満月に陰りがさした。
別になんということはない、月の前を雲が横切っただけなのだ。けれどもこの瞬間だけは月食のように月明かりが削り取られていく。部屋の中の明かるい面積が小さくなっていく。光の柱が徐々に細くなっていき、ついには光がふっと消えた。すべてが暗闇の中に飲み込まれた。
――沈黙。
ピアノの余韻も消えたこのコンクリートの壁の中に、なんの物音ひとつもなかった。耳に刺さるほどの無音。彼は身動き1つできなかった。ただただ目を開いて、さきほど網膜に焼き付いた光景のことだけに頭の全てが支配されていた。
やがて雲が通り過ぎる。閉めていた蛇口を緩めたみたいに、ふたたび月の光が降り注ぐ。立ち尽くす彼の周囲をスポットライトのように照らす。
けれど、そこに彼女の姿はなかった。
この部屋から彼女は消えてしまったのだ。まるで存在そのものが幻だったみたいに。その残酷な事実を、真実を暴く月の光が白々しいまでに明るみにさらしていた。
(うそ・・・だろ?)
彼はいまだに信じがたい思いがしていた。彼は見逃さなかった。見てしまったのだ。雲が月を覆い隠す一瞬前――
それよりも早く彼女の身体が夜に溶け、魔法のように消えていったのを。
次第に透明になっていき、身体の輪郭が滲んだとかと思うと、もうそこにはいなかった。それなのに、ついさっきまで彼女が立っていたその場所には、まだ彼女の花のような残り香が漂っていた。いまだ謎は解けず、目の前で彼女は消えた。
結局、後に残されたのはその香りの中で立ち尽くす彼と、ベールを脱いだ水晶のように透明なピアノだけだった。




