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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月10日
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2-7:廃 墟《廃墟と樹木と希望》


「だめもなにも……」

 いつのまにか彼のなかでは決心がついていた。考えるよりもはやく心が決まっていた。

 ずっと平穏だけを大事に生活してきたはずの彼が、もっともそれを脅かしうる不確定要素の塊を前にして、理性ではなく過去からずっと現在まで引き連れてきた腹の底にたまる「感情」に従ってとてつもなく重要なことを決定していた。

「他人がどう言おうと関係ないですよ」

 彼女のつややかな瞳が見開かれる。

 澄んだ、色素の薄い透明感のある瞳。

「え・・・・・・?」

 しかし彼の言葉に驚いているのは彼女だけではなかった。

 彼自身ですら自分自身のいままさにとりつつある行動に戸惑っていたのだ。それだけではない。躊躇いがなかったと言っても嘘になる。彼は自分でも言葉を紡ぎながら、彼自身感情的に重大なことを口走りつつあることを自覚していた。

 それを自覚するほどに、今すぐにでもこの場から逃げ去りたいほどの不安や緊張が胸の中に充満していくのを感じていた。

 けれども同時に、恐怖とは真逆の大きな力が彼を心のそこから強く突き動かしてもいた。

 どんなに恐ろしくても、自分には彼女に伝えなければならないことがあるように思えてならない。それは傲慢かも知れない。投影にすぎないのかも知れない。ああ、こんなことを言わなければよかったと、あとで後悔するかも知れない。これを伝えることによって、自分は背負わなくてもいいものを自ら背負うことを選んでしまうことになるのかもしれない。

(ああ、俺は――)

 彼の中の奥深くに宿り律動するなにかが、心臓が全身に血を送りとどけるようなやり方で、そしてあらがたい力強さで彼を鼓舞していた。その衝動は理屈でそろばん勘定した損得でもなければ、安易に湧き起こった薄っぺらい同情でもない。

 それは彼にとっての存在の核といってもよかった。血液が体内を巡り、酸素や栄養を届ける命の源であるのと同じようにその衝動の正体は彼という人間の源でもあり、生活という循環を営んでいく上でなににもまさって大きな地位を占めるものだった。

 それほどまでに大事なものを、彼はずっと自ら押し殺してきたのだとようやくこのとき思い出した。

(なんて大事なことを忘れてしまっていたんだ)

 彼は、自分自身の迷いを振り払うためにも、驚きに目を見開いたまま言葉の続きを待つまっすぐに彼女の瞳を見つめて、ひとつひとつの言葉を確かめるように口にした。

「どこかを好きになって、君がそこにいたいとさえ思うなら、他人の許可なんて必要ないですよ。君がいたいところにいればいい」

 ああ、とうとう言ってしまった。

 言葉として声に出した相手に聞かせてしまった。もう後戻りはできない。そんな考えも、彼の頭のすみをよぎってはいた。人間どれだけ勇気を奮い起こそうとしても、心を入れ替えようと励んでみても一朝一夕でまるごと変わるようなことはない。

 たいていの変化というのは、空の色の移り変わりのように、経験を蓄積している最中はじっと見ていても気づかないほどゆっくりとしか進まないのだから。

 けれど、今ひとつだけ確かなことは、あれだけ口にする前は不安で不安でたまらなかったこともいざ口に出してしまうとすっきりするということだ。

 彼の胸は自分でも信じられないほど晴れやかだった。

「それが、あなたがここにいる理由なんですか?」

 彼女の真摯な眼差しが問いかけてくる。

 彼はその答えのかわりとして、ポケットから鍵束を取り出した。

 束から外したそのうちのひとつを彼女に差し出す。

 彼女は不思議そうにおずおずと両のてのひらでそれを受け取る。

「……これは?」

「この部屋の鍵です。貸しますから、この部屋は好きに使ってください。――といっても、別にここが俺の私有地ってわけでもないんですけど」

「いいん、ですか・・・・・・?」

 にわかには信じがたいといった顔で彼に確かさを求める。

「断る理由がありません」

 その言葉で、ぱあっと花が咲くみたいに彼女の顔に笑顔が広がる。

「ありがとうございます!」

 どうしてか、その表情を見ると胸のなかの水面に波紋が広がった。しかしその正体がなんであるかまではわからなかった。ただ、他者が自分の内面に一石を投じたことや、自分のなかに何かが入り込んできたという実感が彼を少しだけ落ち着きなくさせた。

 胸の底に封じたなにかが、胎児のようにうずいているようだった。

 それとは別に、なにかこそばゆくて照れくさいような気持ちもあった。

(ああ、こうしてみると、やっぱり笑顔が似合う人だな)

 けれども、やはり、その表情を見ていると自分のちっぽけな行動が誰かの役に立てたような気がしてこそばゆい嬉しさを覚えた。

「そうだ、お名前はなんていうんですか?」

 あたかも一仕事終えたように脱力して、ぼうっとしていた彼に彼女が声を掛けた。

「名前って……なんでもいいですよ。好きに呼んでくれて」

 彼女にこの屋上階で自由に過ごしてもらうことには結果として快く合意したものの、彼の中ではそのことと個人的に彼女と交流をもつことは別物だった。

 そんな深い付き合いや立ち入った仲になるつもりもない。

 お互いに最低限の挨拶を交わす隣人――それくらいの方が彼にとっては心地よかった。記号として呼び合うだけなら仮名で十分だろう。なにか反発を食らうかとも思ったが、彼女はすんなり受け入れて、

「うーんどうしようかなあ」

 と早速頭をひねっていた。それから何かを閃いたみたいに

「あ、窓から外を見てたときに気が付いたんですけど。下の階の窓際で鉢植えの植物を育ててるのって……?」

「ああ、そうですね。俺のしわざです」

「じゃあじゃあ、こういうのはどうでしょう!すばり〈樹〉っていうのは。樹木の樹を一字だけで、イツキと読ませるんです」

「そう、ですね……いいんじゃないですか?

 命名に不服は何もなかったが、あまりの乗り気に少しだけ驚いた。地蔵のように静かで穏やかな人間を目標とする彼であったが、彼女と出会ってからは調子がくるう。

「……………」

 今度こそ用事が済んだと思っていると、彼女の物欲しそうな瞳の輝きが目に入って、気がついた。

「ああ、そうか。今度は君の名前も決めなきゃか」

 待ってましたというように彼女がうんうん頷く

「そういえば、煙草を吸ってましたよね?あれはなんて銘柄ですか」

 彼女は制服のスカートのポケットから煙草の箱を取り出してこちらに見せてくれる。銘柄は、HOPE、それもSHORT HOPEというらしい。

「じゃあ、〈希〉っていうのはどうですか?希望の希の字をとって、ノゾミです」

 彼の質問に彼女は満面の笑みでこたえた。

「決まりですね。よろしくお願いします〈樹〉君」

 彼女が受け取った鍵を愛おしそうに両掌で包む。

「こちらこそよろしく。〈希〉さん」

 立入禁止の汚染地帯。

 その中にある廃ビルの屋上で、奇妙な出会いを遂げた2人はこうして奇妙な隣人関係をもつようになった。

 微笑む彼女の向こうには、茜色に染められた夕焼けが広がっていた。

 曇りない春の、まだ肌寒さの残る時間ではあったけれどもその淡く優しい空の色は、見るものに安らかなぬくもりを感じさせるものだった。

 明日はどうやら晴れるらしいことを、その茜空が告げているようだった。 


  

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