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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月10日
7/106

2-5:廃 墟《彼女の豹変と彼の動揺》


 初めて耳にしたその声を聞き、なんだちゃんと声が出せるじゃないかと彼は思った。

「どうも」

 とだけ返す。

 今度は彼の方が驚かされる番だった。

 といっても、取り乱すような種類ではない。この夕景に映える、実在を疑いそうになるほどの彼女の美しさに見とれれてしまっていたのだ。その中で意識の底では知能が必死になって目の前の状況を解析しようと努めているような、そんな空回りに近い思考の混線だった。

「あたし、ピアノ弾けますよ」

 彼女が唐突にそんなことを言う。緊張した頭を焦りながらも回転させていた彼は、その不意打ちについ「は?」と返してしまう。

 先方は大切な事前情報を与えるのを忘れていたことに気づいて

「あ、ごめんなさい。急でしたよね。その、昨日の夜あったときに『ピアノ弾けるの?』って聞かれて、それに答えてなかったから」

 と。弁解するように付け加える。

「あ――ああ、そうか。そうですね、そういうば」

 一応の理解はした。けれど、こんな状況でそんなことが重要だろうか。

「すみません、驚かせちゃいましたか?」

「ええ、それはもう。でも、俺も同じことしてをしまったので」

「おあいこにしてくれますか?」

「はい、おあいこに。」

 彼の戸惑いの種はまたひとつ増えていた。

 昨日の夜の彼女と目の前の彼女との間に起きた豹変だ。

 あれだけ驚いて言葉をなくして、あまりの恐怖に顔を月の光よりも青白くさせておきながら

どうしてのこのこと再びやってきたのだろう。しかもこんなにも穏やかで柔らかい雰囲気さえ醸し出しながら。

 いったどんな夢が昨夜のうちに彼女の頭に滑り込んで彼女の心をかえてしまったというのか。彼が考えあぐね、口に出すべき言葉を見いだせない間、彼女は彼のことなど忘れたように窓の外の夕景に心を奪われるように見つめていた。

(これじゃ完全に攻守いれかわったみたいだ)

 よく考えれば、別に、昨日と状況そのものは変わっていない。

 彼の聖域でもあり秘密基地でもある廃墟、それもよりにもよってこの〈ウォーターフロントガーデン〉に見知らぬ人物が訪問してきた。

 それなのに、この状況に対する彼女の気の持ちようはどうしてだかほとんど真逆といってもいいくらいに打って変わっていた。

 その表情は懐事情に余裕のあり、慈しみと愛情に包まれて育った高貴な女性を思わせた。その女性が浮き足だった心に誘われるままに足を踏み入れた店でお眼鏡にかなう商品を見つけ、なんの嫌みも漂わない、むしろ躾の行き届いた礼儀や慎ましさを感じさせる柔和な雰囲気をかもしながら「これ全部いただこうかしら」と店主に告げるときは、もしかしたらこんな落ち着きのある、それでいてどこか楽しそうな顔をするだろうか。

 彼女の態度のかわりようについて行けない彼がとりとめもない空想に逃げ場を求めていると。その彼女が不意に――

「いい眺めですよね、ここ」

 などと呑気なことを言う。

 昨晩の自分の有様をすっとぼけたようなセリフの唐突さに戸惑いながら、真意の見えないところに彼は警戒を強めた。それでも、この膠着を打開しうる可能性を秘めた言葉を探し出した彼は、

「それは、そうですけど。どうして、今日ここに?」

 と尋ねた。すると帰ってきた返事は、

「それが、自分でもよくわかんないんです」

 というもの。

 一応答えにはなっている。なっているものの納得するには不十分だ。

「昨日ここに来たのは、なにか息詰まるような感じがして、誰もいない静かな場所を求めていたたからなんです。あ、でも死ぬつもりとかじゃなかったんですよ、本当に」

 誤解を払いのけようとするかのように慌てて手のひらをぱたぱたさせる。

 日常生活からの避難場所を求めたいた・・・。うってかわって饒舌になった彼女の言わんとすることは、わからないでもない。それどころか自分と同類の匂いさえ漂わせている。

「静かな場所を求めて……でも、実際来てみると知らない男がいた」

「はい、それですごくびっくりして。ごめんなさい、無視したみたいに黙りっぱなしでしたもんね昨日は」

 申し訳なさそうにうつむく。饒舌なだけでなく表情まで豊かに変わる。

「謝るようなことじゃないですよ。当たり前の反応です。それに、その、こちらも言いたい放題一方的にまくしたててしまいましたし」」

 とこちらもぺこりと頭を下げる彼。

 それに対して、なおも彼女は申し訳なさそうに再度頭を下げながら

「あのときはまさかああなるなんて思わなくって本当に怖かったんです。でも、どうしてか、今日も気が付いたらここに足が向いていて、どうしてなんでしょうか」

 答えを求めるようにこちらを向いてくる。

 それを知りたいのはこちらのほうだ。とはさすがに言えない。

 彼も「さあ・・・・・・」としか返せなかったので、ここで一度会話が途切れる。

 相手の要求も目的も、こちらが次にとるべき行動も見当たらない。何を話せば――。

「あ」

 そして思いつく。

「その、廃墟が気に入ったんですよね。でしたらほかにも似たような建物もたくさんあるんじゃないですか。他の場所も回ってみたら、どうしてここが気に入ったのかわかるかもしれませんね」

 それで、彼女がここよりも気に入る場所を見つければ、双方にとっての理想的な状況にたどりつけるんじゃなかろうか。彼は平穏を取り戻す。彼女もこんな老朽化が心配な建物よりか居心地の良い場所に身を置く。〈仙人〉には自分から話しておけばいい。

「それは、私も思ったんです。だからここに来る前に昨日も少し辺りを見て回ったんですけど、犬に追いかけられてしまって」

 もうすでに洗礼を受けていたのか。いや、だとしたら――

「待った、犬に追いかけられて、それでなんのケガもなかったんですか!?」

「はい、すごくおっかなかったですよ」

 〈仙人〉が侵入者を見逃した?俺が話したからか。違うそれはついさっきだ。あのとき仙人は何も見てないといった。嘘をついた?そうは思わない。年齢的な物忘れをしたとか?あるいは、番犬たちが、警戒をといて見逃したというのか。なぜ?

 また未知という戸惑いの種がふえた。腕を組んで考えていると、

「あの、それがどうかしたんですか?」

「え?ああ、いえ。大した話じゃありません。あの番犬たちは何人ものチンピラを病院送りにしてきている凄腕たちなので、ちょっと驚いただけです」

 するとまた恐ろしそうな様子をあらわすので、安心させるために、

「ですが、どうしてだか、あなたは犬たちに認められたようですね」

「そうなんですか、それはよかったです」

 ほっとしたような顔。

 どうしてだ。と彼は訝しがらずにはいられなかった。

 どうして見ず知らずの男の前でこんなにも安心しきった顔を見せることができるんだ。どうして、そんな、心をすでに預けてしまったみたいな無防備さでほほ笑むことができるんだ。

「ところで、あなたはどうしてここを選んだんですか?」

 彼女の豹変。番犬たちが見逃したこと。わからないことが多すぎる。

 それは決して不愉快ではない。しかし、無関心を守り見過ごせるたぐいのものでもないのだ。自分の管理下にある秘密基地、いわば外界における心の最奥部。住んでいる家の自室よりもプライベートな場所に起きたイレギュラーを把握できないことは、重要な隠密作戦中に何者かから奇襲を受けた現場指揮官のような精神的混乱に彼を叩き落した。

「あの……?」

 考え込んでいたせいで質問に答えそびれていた。

「はい?」

「あ、すみません。つまらないことをきいちゃいました」

「いえ、えっと、ここを選んだ理由でしたっけ。言葉にしにくいですね、なんかしっくりきたというか。その、見つけた瞬間これだって感じて、変な言い方ですけど・・・」

「一目惚れですね、わかります」

 となんだか心当たりのありそうな風で感慨深げ頷いている。

 しかしこの話題をこれ以上掘り下げても、しかたがない。

「まあそれはいいとして、ほかのところもちらっとは見れたんですよね?なにかめぼしいところはありましたか?」

「たくさんありました。でも、やっぱりここがよくて……ダメですか?」

「だめですかって、何がですか?」

「私も、ここに一目惚れしてしまったというか、ときどき来られたらなって……」

   

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