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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月2日
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6-6:ホーーム《あっけなく破られる均衡》


「なんで、フォルテ、飼っちゃ、いけないの」

 耳に届くのは泣きじゃくる〈わんぱく〉の嗚咽だった。

 やっと、懐き始めてきたところだった。

 一番可愛い時期で愛着が湧きはじめてきたころなのだろう。このあいだ〈旦那さん〉がにこにこしながら教えてくれことがある。近頃は幼稚園から帰ってきても、どこを散歩するか調査するとかいって、近所を歩き回ったりしているのだと。あの小さな身体いっぱいに大きな喜びをみなぎらせて。ずっと楽しみにしていて、本当に嬉しそうで。

 彼にも気づいたことがある。

 最近のわんぱくは転んでもこけなくなった。きっかけはフォルテという名前の由来を知ったことらしい。涙をめいっぱいためた目で起き上がり、自分も強い子になるのだと誓うのだ。その〈わんぱく〉がわんわん泣き出す、その声が彼の耳をつんざき、胸を突き刺す。それをなだめようとしている〈妹〉ももうどうしていいかわからなさそうに今にも泣き出しそうな顔で必死に頭を撫でている。

 そうしている間も目の前では〈ガリ勉〉と〈不良〉の険悪な空気はより濃密に、緊迫したものとなりつつある。

(なぜ――?)

 これまでこのホームを包んでいた温かな空気一転。膨らんだ希望が破裂して絶望に変わろうとしている。彼は血の出るほど唇を噛みしめた。

 なぜ、こんなことになった。なぜ、みんながこんな目に遭わないといけないのか。 

 ここにいる住人の多くは理不尽な目に遭って、子どもには手の届かない大人の都合に振り回されてずたぼろにされ、その純粋さを踏みにじられてきた人たちだ。

 それでも生活の中に楽しみを見いだそうとしてきた。他人との間に信頼と愛情を育もうとしてきた。うまくいくといいなと彼は願っていた。うまくいきつつあると彼は思っていた。かつてのように笑えなくても、失われたものを取り戻すことが叶わずとも新しい出会いの中で人は新しい幸せをを得ることが出来るのだと信じようとしていた。

 彼は深い悲しみのあまり気の遠くなりそうですらあった。

 度しがたい思いが自らの拳を強く握りしめさせる。爪が柔らかい皮膚に食い込み、痛みが彼を苛む。けれどただ悲しんでばかりもいられない。他人のせいにしてもなんにもならない。嘆きも祈りも役には立たない。悔やんでも恨んでも状況は変わらない。

 過去と他人は変えられない。また変えようとすべきでもない。

 自分以外の人間を指さしてあの人はこういう風に変わるべきだなどとほざくのは思い上がりもいいところだろう。変えられるのは、そして変えるべきは最初からたったひとりだ。

 変えてやる、と彼は歯を食いしばった。心が軋もうと骨が砕けようとやり遂げてみせる。

 そんな彼のことなど目にも入っていないかのように、とうとうと〈ガリ勉〉が話し始める。

「せっかく・・・せっかくみんなが新しい家族を迎え入れて笑顔になっていたのに。お前のつまらないワガママのせいでこのざまだ。いままでだっておれなりに気を配ってきたつもりだったんだが――そうか、そうなのか、お前はそんなにここが嫌いでたまらないんだな」

 誰に向けて、というしゃべりかたではない。むしろなにかに乗り移られて自分の物ではない言葉が我知らず自分の口からこぼれだしているような、焦点の定まらない不安定さが漂っている。

「なら――目障りだから――早く消えてくれ。少年院なりどこへなりとも望むところに行けばいい」

 それから、自分には侮蔑すべき対象がいたことを思い出したように顔を上げる。冷たくて空虚な目が獲物を認識する。冷徹で鋭利ななにかが焦点を結ぶ。

「それとも怖いのか。それでこんなところで燻っているのか。・・なあ、子猫ちゃん」

 そこには、さきほど彼らを揶揄したときの〈不良〉の嘲笑を鏡に映したような〈ガリ勉〉の表情、普段からは想像もつかない、想像もしたくない表情があった。

 そして――均衡は、あっけなく破られた。

 彼が止めに入る間もなく〈不良〉が動いたと思った瞬間に激しくなにかが打ち付けられる音がした。彼の目の前で胸元を掴まれた〈ガリ勉〉がダイニングテーブルに叩きつけられていた。コップが倒れ、こぼれた水が床を濡らしている。すみのほうで小さくなってる旦那さんが短い悲鳴を上げる。

「おい2人ともやめろ!」

 とっさに叫んでとめにはいる彼だが、〈不良〉のたくましい腕に激しく突き飛ばされる。組み伏せられたままの〈ガリ勉〉はなおも冷め切った顔をしながら、

「――少年院に行く前に、病院に送られたいらしいな」

 呟いて、こちらもすっと〈不良〉の首元に手を伸ばして頭を抱えるような形で頭突きを食らわせる。ひるんだ隙に素早く起き上がり、今度は逆に押し倒そうとするも、〈不良〉も相手の思うようにはさせず両者互いを突き飛ばして距離をとる。

 彼はとっさに台所に手を伸ばしてフライパンを掴んだ。

次の瞬間、睨み合っていた両者が同時に

相手の鼻っ柱をへし折ろうと拳を繰り出すのよりも一瞬早く、

こうなると読んだ彼は掴んだフライパンを

まさにすれ違おうとする2つの拳の間にさしいれた。

「――――!」

 鉄と骨が激しく衝突する鈍い音が響く。ブレーキのいかれてしまったような勢いで拳を振り抜いた〈不良〉も〈ガリ勉〉も障害物を咄嗟に回避できず相手を殴ろうとしたそのまんまの力で自らの手を痛めた。

 常人であれ悲鳴をあげてのたうちまわるほどの激痛に襲われながら2人は歯を食いしばり、握り拳から血を垂らしながら対決に水を差した部外者へ、傍目にも漏れ伝わるほどの敵意を向ける。

 「人を傷つけようとする者はそれによってまず自らを傷つけてしまうものなのだ」などと偉そうな説教をしたとこころでとうてい誤魔化せそうもない雰囲気である。2人を前に立っているだけでも太陽光と虫眼鏡を使ってじりじりと肌を焼かれているような緊張感と焦りがあるのに、恐怖のあまり、背骨を凍りづけにされて身体の芯から冷たくなる感覚もあった。

「水を差したのは謝る。手、怪我してないか」

 彼はひとまずフライパンを捨てて、争いの構えがないことを伝える。その彼へ〈ガリ勉〉が「それは嫌味のつもりか?」と言い終わらないうちに、

「っ――!」

 手負いの虎のように猛然と襲いかかってきた不良によって彼が突き飛ばされる。激しく壁へ叩きつけられるとともにマット運動で着地を間違えて背中から勢いよく落ちたときのような衝撃が襲ってきて、肺の中が空になる。

 一瞬だけぐらりとうなだれた彼の首をあの傷だらけで骨太なたくましい左手が掴みおそろしいまでの力で締め付けてくる。

「てめえ、いったいなんのまねだ」

 それはまったく手心を加えない圧力だった。そうだろう、と彼は思う。けれどあそこでこの身を挺して平和を訴えたところで馬鹿な身の程知らずが勝手に自滅した程度の認識しか持たれない。そのままでは話を聞く耳すら持ってもらうことが出来ない。まずはぶつかりあって火花を散らすその敵意を、ひとまずこちらに向ける必要があった。しかし愚かにも彼にはこれしか思い浮かばなかった。

 〈ガリ勉〉に関しては感情的な訴えと論理的な説得を忍耐強く続けることでどうにか理解を得られる可能性がないではないが、〈不良〉については、まずこちらの存在を認識してもらう必要があった。

「・・・・・・っ、――」

 ともかく、なんのつもりかと聞かれたところでこうも首を絞められていては答えようがない。ただ目線だけは決して逸らさないでまっすぐに〈不良〉を見つめてはいるものの、少しずつ息苦しくなってくる。首が苦しくて咳き込みたいけれど咳をしようにも空気を吸い込むことも出来ないまま焦りが募り始める。抵抗したい気持ちを必死に抑え、まだだ、まだこらえろと必死に言い聞かせる。

 すると、傍観者から鶴の一声が入る。

「そのくらいでやめておけ。命まで取るつもりじゃないだろう」





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