6-5:ホーム《そよ風の庭の大型台風》
なにかに決別をするような、ひどく哀しい小さな呟きだった。
それは彼らにとってフォルテを手放さなければならないことを意味していた。〈不良〉の一言が引き金となって、〈わんぱく〉が大きな泣き声をあげ、それが全員の耳をつんざく。
切れる寸前の糸のように張り詰めた空気がとうとう割れた。
すべての感情と能力を泣き叫ぶことに費やしたかのような悲鳴にすら聞こえる泣き声。ついさっきまで嬉しそうに、愛おしそうに、リンゴみたいな赤いほっぺをにこにことゆるませていた〈わんぱく〉。あんなに幸せに包まれていた笑顔の主の、天地が真っ逆さまになって空が降ってきたような泣き声がとどまることなく溢れ出して、それが部屋を満たしていく。
流れ込む激流が足下の水位を上げていくように、誰も言葉を口に出来ないままにただただ泣き声が響き、そうしてそれがある高さに達したときに、ぽつりと〈ガリ勉〉が呟いた。
「いい加減にしないか」
怒っているのでも責めているのでもない。
むしろ感情など失ってしまったかのように、先ほどの〈不良〉の声にも通じるもののあるどこか壊れたような、他人事のような冷淡な口調。その起伏のない声で、うっかりシャーペンを床に落としてしまったかのような口ぶりで、言った。
「お前ふざけているだろう」
眼鏡が照明を反射しているせいで、まったく瞳が読み取れない。
彼はただもう恐ろしかった。鳥肌がたっていくのが分かった。これまでのどんな争いだっておままごとのように思えた。まだ、平和だった。幾度となく見てきた喧嘩も軋轢も、今この瞬間に比べれば。なにもこれまでの諍いが偽物だったというのではない。しかし、2人ともただの一度も本気で撃鉄を起こしたことなど無かったのだ。
(どうする――?)
あまりにも焦りが募ったために、むしろ頭がまっさらになりそうだった。
なにせこの〈ガリ勉〉はいったん相手を黒を決めれば情け容赦ない男なのだ。その残酷なほどに愚直な正義感と腕っ節の強さを象徴する話がある。
〈ガリ勉〉が中学生のころの話だ。
あるとき、剣道部主将をしていた〈ガリ勉〉の耳に不穏な噂が聞こえてきた。隣の柔道部が「新人指導」「可愛がり」と称し新入部員に不当な暴行を加えている、というものだった。
元より厳格な稽古で知られる部活だったので「上下関係がしっかりしているのだろうくらい」に考えていた〈ガリ勉〉だが道場をあとにする部員たちの異様な怪我に不信感を抱き真相究明に乗り出す。
数多くの聞き込みの末に疑惑が色濃くなると身ひとつで柔道場に直談判に赴いた。
当然話がこじれて揉み合いの騒ぎに発展した。すると、〈ガリ勉〉は躊躇うことなく柔道部の上級生数人を投げ飛ばしては壁や柱に叩きつけた。中には背骨を折るほどの怪我を負ったものもあったらしいが、本人は気にもとめず皆が倒れうめき声の渦巻く真ん中に立って、涼しい顔で応急処置をしながら救急隊の来るのを待っていたという。
そういう一面もある男なので一度スイッチが入れば自分か相手のどちらかが負けを認めるまでは徹底して白黒をつけたがる。根は真面目で面倒見がよく思いやりもあるのだが、加減を知らず半端であることを許さない潔癖な完璧主義者でもある。いったん〈不良〉と〈ガリ勉〉の両者が激突すれば、最悪の場合どちらかが血だまりの中に倒れる事態になりかねない。
(それだけは、どんな手を使ってでもとめなければ)
〈専門家〉は外出している。〈補助員〉は2階で仕事をしている。この泣き声を聞きつけて降りてくるのかもしれないが、いつ来るのかわからない。〈旦那さん〉は見なくても分かる。台所のすみで怖じ気づいている。
この場はどうあっても何と引き替えにしてでも自分が収めないといけない。
しかし同時に、絶対に動いてはならないとも思った。ごく些細な余計なものの一欠片でもこの均衡は崩れ去る。水の一滴でも落ちればそれでもう暴発してしまうような緊張が場を支配していた。
――間違いなく2人の議論は平行線だった。〈不良〉はテコでも動きそうにない。〈ガリ勉〉にも譲れない正義感がある。状況はまさに八方ふさがり。
これまでならの彼にとっては別段にそれでも構わなかった。それぞれにそれぞれの事情があり、それによって培われた価値観がある。これが正しいとかこうあるべきとかいう思想を他人に強いようとは思わないしよっぽど自分に不利益が無い限りとくに批判しようとも思わなかった。
だからきっと〈不良〉だってそのうち時が経てばなんとなく馴染むのと思っていた。あるいはそうでなくても、無理に仲良くしたりや馴れ合いを演じずともそれは侵すべからざる個人の自由なので致し方ないことと割り切ろうとしていた。
(――いや、それは嘘だろう)
きっと信じてなどいなかった。期待してもいなかった。ただ自分にはどうしようもないことについて考えるのが億劫で目を逸らしていただけだ。素人の自分の領分にはないことだと、大して信用も置いていない〈専門家〉を当てにするふりをしたり、時間が解決してくれるとか言い訳をして見て見ぬふりをして思考を停止させていたのだ。
そのつけを今自分は支払わされているのだ、と彼は思った。
ずっと目の前にいる人の苦しみを、一つ屋根の下に暮らし同じ釜の飯を食う人間が孤独になにかと戦ってもがき苦しんでいるのを他人事だと見て見ぬふりしてきた。それはまぎれもなく自分の罪でもあると彼は思った。それだけではない、その代償の請求は自分以外の人間にも突きつけられている――。




