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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月2日
42/106

6-2:廃 墟《予後報告と甘い恋の毒》


 ◇  ◇  ◇


 夕方、廃ビルの最上階にいる。

「へえ、もうそんなに良くなったんですね」

 トムソン椅子に浅く腰掛けた彼女が感心を込めて言う。大きめの瓦礫に座る彼も表情に嬉しさをあらわしながら、

「最初はじっとケージの隅に小さくなって、他の人がご飯を与えても食べるまで時間がかかってたんですけど、ようやくこの頃は手にのせても食べてくれるようになって」

 スマホの画面に映ったフォルテを彼女に見せながら

「ようやく散歩の許可もおりたので、散歩デビューに向けて庭を走り回ってるところなんです」

 彼女は目を細めながら、

「元気になってくれたみたいで、何よりです」

「散歩にも慣れてきたら、そのうちここにも連れてきます」

「私のこと覚えてくれてるかなあ」

「大丈夫ですよ。犬ってけっこう記憶力がいいみたいなんです」

「そうなんですか」

「うちの専業主夫が子どもたちが学校に行ってる間、かまってくれる人がいないからってフォルテに芸をしこんでたらもうお手ができるようになったんです」

「すごい。じゃあここにくるまでにはおかわりも覚えてたりして」

「それはもう。おかわりどころじゃないですよ。わんこそばみたいに、しゅばばばって」

「それもう犬の動きじゃないですよ。そのうちピアノも弾けるようになったりして」

 他愛ない冗談を言い合っていると、彼はあることを思い出した。

「そうだ。ピアノと言えばもうそろそろいいんじゃないですか?」

 この不可思議なピアノの神秘を発見し、もしかしたら細心の注意を払って手入れをしている人物がいるのかもと思い、おうかがいの付箋を残してから時間が経つ。

 彼女が席を立つ。雨風で文字が読めなくならないようにとピアノカバーの下に貼っておいたそれをすっと剥がす。

「特に変化はないみたいです」

 ピアノそのものにも変化がないかその後入念に調べてみても取り立てて変わった点はなかった。どれだけ考えあぐねたところでこれ以上の答えは得られないだろうと考えている彼の目を見ながら、彼女はまるで周囲に咎める人のいないことを入念に確認したいたずらっ子のように爛々とした輝きを踊らせて、

「これはもう、弾いちゃってもいいってことですよね?」

 いかにも待ちきれない、といった風に口にするのだった。彼も微笑みながら頷きで同意を示した。

 階下の自室に降りて、いつものように植木鉢の植物に水をやる。バッグの中から今日は図鑑ではなく『犬と暮らす』という本を取り出して窓辺の特等席に腰掛ける。

 犬に関する図鑑なら今までもたくさん読んできた。けれどいざ飼い主になると言うときに必要になるのは、それとはまた別の知識と姿勢だった。

 フォルテと接し始めてわかったことなのだが、犬にも人間と同じようにそれぞれの性格や、独特のクセや食べ物、おもちゃの好き嫌いなどがあって面白い。そうかと思うと犬ならではの行動様式のようなものもありなかなかに奥が深い。そういうときに、先人たちが試行錯誤した成果をノウハウとして参考に出来る本は大いに彼が飼い主になるのに役立つ。

 ひとつひとつの写真を目で味わい、解説文を心で楽しんでいると、やおらピアノの音色が外から流れ込んでくる。曲目は彼にもなじみ深い一曲――「ねこふんじった」だった。

 ピアノが弾けると啖呵を切っておいて彼女が初演奏に選んだ楽曲がちゃるめらの次に誰でも弾けそうな曲だというところに、彼女の中に残る無邪気な遊び心を見いだして彼は可愛らしさを感じた。

 窓から入ってくるその弾むような調子から彼はまた白い雲のような空想を膨らませた。真上の階で彼女の細い指先と鍵盤の出会いから生まれ放たれた音色が自由に天井の穴や窓枠を飛び出して宙で遊んでいるうちに、迷い込んだ小鳥のようにこの部屋までやってくる。そんな空想だ。

 なにとはなしに彼は天井を見上げて軽やかな調べに耳を澄ませた。そうしているだけで、生き抜くためにこれまで押し殺してきた青い純粋な物が彼の中で寝返りをうつようなな感じがあった。柔らかくてふんわりとした音色が彼の頑なななにかを紐解いていくような、甘い毒に溶かされてしまうような感じがする。

 それに抗おうとする強がりと、いっそ受け入れて委ねてしまいたい本音が彼の中で同時にわき上がり始めて、ただもう叶わない夢をいまだに見るような切なくて脆いものに浸されて服を着たまま海に飛び込んでしまいたい気持ちになった。

 すると、まもなくピアノの演奏がやんだ。

 いつぞや目にした、かつて女王だったと悲しげに語った彼女の表情が脳裏をかすめる。なにかしらの不吉な物がその心中に湧き起こったのだろうか。

 すると、ことこと足音が下りてきて、控えめにドアがノックされる。彼がドアを開けるとほんのり頬を染めた彼女がいた。

「音、大きすぎませんでしたか?」

 抱きかかえられて自分の体重を気にするようなことを言う。

「全然問題ありませんでした」

「そうですか、安心しました」

「あの、顔がなんか赤いですけど」

「あーこれは・・・・・・。よくよく考えたら、人にピアノ聴かれるのって久しぶりだって思い出しちゃって」

 照れを隠すように笑う。

「それに、今までは万全の練習をしたうえに心を殺して戦地に行くような感じで弾いてたんです」

 心と密接に繋がっているであろう表現の舞台に立つ上で、百戦錬磨だった女王は心を殺しても弾いていたと口にする。――あるいは、心を殺していたから弾くことができたのか。

「なんか、油断してピアノ弾いちゃったら急に聴かれるのを意識して恥ずかしくなっちゃって」

 耳まで真っ赤にしながらあさっての方に目をやる彼女。その横顔を見ながら、彼はふと、それまで聴衆を向いていなかった彼女の演奏は、死んだ心で編まれたとう彼女の演奏は、どこを向いていたんだろうと考えた。

 その音色は、なんのために。誰のために。

 そう思うにつけて彼は彼女が「油断して弾いた」というその演奏をもっと聴いていたいと感じている自分がいることに気がついた。

「俺は好きですよ。〈希〉さんの油断した演奏」

「――え?」

 彼女が彼の言葉に目を丸くする。

 しまった、口を滑らせたと自覚が追いついたのはそのときだった。彼女を目の前にするとついつい喋らなくていいことまで口を滑らせる傾向がある。けれどそれは破滅の一歩目を踏み出すのと変わらない。彼は自分に言い聞かせる。現状維持が最も望ましいのだと。

 たとえそれが緩慢な墜落を意味するのだとしても、これにさえ気を付けていれば不要な苦しみは最低限に抑えるできる。高く舞い上がったものは翼を失うのが定めなのだ。咲いた花は必ず散り、やがて枯れるのだから。

「あ、いや、すみません。その、ピアノのことはまったく分からない素人なんですけど」

 慌ててそう付け足した。

「関係ないですよ、そんなこと」

 それなのに、彼女は、

「嬉しいです。とっても」

 リンゴのように頬を赤らめながら、花の咲くようにはにかんだ笑顔を浮かべる。

 光の具合だとか、そんなちゃちなことでなくて、彼女の姿が、存在そのものが夕陽よりも美しく輝いて見えた。彼は、もうどうしようもないくらいに自分が彼女に惹かれ始めていることを認めざるを得なかった。

「ありがとうございます、褒めてくれて」

 彼女はなおもはにかみの色を残したまま、ひらりと身をひるがえして跳ねるように階段を駆け上がっていった。

(・・・なんだか俺は、どうかしてきたかもな)

 正常な判断ができなくなってきている。とても当たり前な自分ではなくなり始めていた。

 彼の胸にはまだ彼女の微笑みが残っていて、それを思い出すだけで心が温かくなると同時に

彼女のことを想うだけで心臓が締めつけられるほどに苦しくなった。

(・・・やめておいたほうがいい)

 何度も何度も彼は自分の心を鎮めようとした。平穏だ。現状維持だ。今この瞬間を少しでも長く引き延ばした方がいいんだ。なんだかひどく頭のなかがこんがらかってモヤモヤする。嬉しさや喜びがあるのに、それと反対の不安や苛立ちが渦巻いてもいる。

(一旦、落ち着こう。まずは冷静にならないと)

 彼女が去った後もその場に漂い続ける彼女の甘い香りを閉め出すように開きっぱなしだったドアを閉める。そのうえに鍵をかけた。一連の動作を終えると、なんだかどっと疲れがやってきて、彼はドアにもたれかかって頭を抱えた。



 

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