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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月20日
38/106

5-15:廃 墟《子犬と彼の決意》


  *  *  *


 彼は再び廃墟に戻ってきた。

 発つ前に合図として取り決めたノックをすると鍵の開く音がしてドアが開く。

「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」

 招き入れられるまま部屋に入る。彼が持ってきたカンテラを携えた彼女は、さっそく子犬の変わりように気がついた。

「間に合ったんですね」

 我がことのように嬉しそうな声をして、のぞき見るように子犬に顔を近づける。

 その仕草には溢れんばかりの愛おしさが漂っていて、彼はなんだか見ているだけでちょっと照れくさいような感じがした。

「命に別状はないみたいです。怪我の方も安静にしてちゃんとご飯を食べればじきに治るとのことでした」

 ちゃんと話は聞いてるのだろうけれど、相変わらず彼女の澄んだ瞳が食い入るように子犬を見ているので

「あの、抱っこしますか」

 一応尋ねてみる。するとずっと我慢していたご褒美をもらえたみたいな嬉しそうな顔をして

彼女がぶんぶん頷く。彼はつい微笑みながらそっと子犬を彼女の腕に預ける。

 一足先に結婚した知り合いの子どもを抱っこしているみたいだと彼は思った。

 ほくほくと顔をほころばせて笑顔をとろけさせてるのを見るにつけてその感じはますます深まっていく。実際、彼女のなにがしかの急所を突き、庇護欲をそそり「可愛くてたまらない!」という電流をその脳内に迸らせらせる点においては赤ん坊も子犬も等しく尊いものに違いなかった。

 あんまりにもおおっぴらな可愛がり方に、素直に感情を人前で出せることへの羨望をまず抱いた。次にそれを通り越して一週ぐるりと回った。そして最終的には彼の目にはそんな子どもみたいなあどけない一面も待つ彼女すらも、なにか守ってあげたいようなものに映った。

(もう少しこのまま眺めていようかな、でもあんまりそうすると失礼だろうな)

 迷う彼の視線が彼女の顔と子犬とを行ったり来たりしていると、その顔には時間と共に変わる空の色のような自然なグラデーションがあらわれた。そして彼女の表情には今、我が子を見守る母のような慈愛に満ちたあたたかい色が宿った。

「・・・・・・無事で、よかった」

 長いまつげに縁取られた、いたずらっぽい瞳が蝶の羽根のような可憐さで瞬く。

 その少しうるんだ瞳を見て彼ははっとした。

 たかが野良犬くらいで大げさな、などとは露ほども思わなかった。

 それだけ、身を切らんばかり懸命になにかのためを思う健気さに胸を打たれた。その胸を打たれた響きが耳には聞こえない透明な音色となって沁みいり、なにか大切な、まことのことを伝えられたような気がした。

 彼女はいつまでもそうして子犬を抱きしめていたい自分の気持ちの名残を引きつつ、適当なところで切り上げて床にそっとおろした。

「お腹空いたでしょう。早く良くなるためにもたくさん食べなきゃね」

 子犬の頭を撫でて、調達してきたドッグフードを皿に盛って差し出す。

 彼が病院に子犬を連れて行く間、彼女は当座の食料を確保する役割分担をしていた。

 彼は警戒して食べてくれないんじゃないかと心配していたが、杞憂だった。

 傷を負った前足をかばいながらも、自分から首を伸ばしてしゃむしゃむとドッグフードを食べている。

 それを見ていると、この雨に鎖された暗く長い一日をともに過ごしているうちに、ちょっとずつ子犬が自分たちに心を許してくれるようになったのかなと思った。

「よかった、ちゃんと食べてくれてますね」

 彼女が安心した表情をする。

「〈希〉さんの気持ちが伝わったのかもしれないですね」

 つい後ろ向きにひねくれがちな彼も、彼女の感化を受けたのかふと自然にそんな言葉が漏れた。彼女はかぶりを振って、

「私ひとりだけじゃここまで出来ませんでした。ありがとうございます、私のわがままに付き合ってくれて」

 そう面と向かって改まったことを言われると面映ゆう。彼は目をそらしながら

「それはこっちの台詞です。〈希〉さんがいなかったら俺はつまらない意地を張ったままでした」

 このまま行くとお互いを褒めまくり合うというとんでもない事態になりそうだったので彼は話題を変えようと目を泳がせる。窓の外の茜色に気がつく。

「その・・・そういえば、雨やみましたね」

 彼女もつられて窓の外を見る。

「やんだときはびっくりしました。あんなに降ってたのが嘘みたい」

「ほんとですよね。天気ってあんなに急に変わるものなのかと」

 ここを出発する前と変わったのは、天気ばかりではなかった。

「あ、そう言えば、ひとつ朗報があるんです」

 彼女が彼の方を振り向く。

「うちで犬を飼ってもいいとのことです」

 彼女の表情が見る間に明るくなる。

「それじゃあ――」

「はい。引き取って面倒を見ようと思います」

 彼は、自らの答えを言葉にして彼女に伝えた。


 

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