5-11:廃 墟《病院と色男の恩返し》
それから子犬の透明な瞳を見つめる。
彼はさきほどよりもいくらかの落ち着きがあった。それは余裕と呼べるほど堂々としたものではなかったが、開き直りに近い力の抜けた自然さをいくらか得ていた。
じっと目をこらすとガラス玉の中には彼が映った。
彼は改めて自分がどうしようもなく弱い人間であることを認めた。
怪我をした野良犬の横を素通りして動じないほどの強い神経を持ってはいないし、情熱に突き動かされ考えるより先に動けるほど真っ直ぐな信念を持ち合わせているわけでもない。
だから、どっちを選んでも自分は苦しむことになるのだ。
見て見ぬふりをしたとしても、手を差し伸べてみたとしても。
どの道を選んでも自分のようなひねくれた人間は悩んでもがいて苦しむのだろう。それならば、と彼は部屋の隅に身体を縮こまらせている子犬に歩み寄る。
「〈希〉さん、やっぱりこの子犬を診てもらいましょう。どこまでできるかは分かりませんが、〈希〉さんの言うとおり祈るのはできることを全部やってからにします」
しない後悔よりもした後悔をとることに決めた。
それがたとえ徒労に終わったとしても構わない。
彼はようやく気がついたのだ。
今まで変わることが出来なかったのは、変わろうとしてこなかったからなのだと。
いくつかの失敗と生傷くらいで音を上げて、逃げる言い訳を探すために自分の落ち度を探すばかりでなにも学ぼうとしてこなかった。不安と苦しみの据わりの悪い中にちゃんと自分の足で立って状況を受け止めようとする努力を怠っていたのだと。
これがたとえ身勝手な同情や投影によるものだとしても、実際にものごとにぶつかってそこで試行錯誤しながら感じて、考えて、学んでいかないことには一歩も先には進めない。過去に座り込んで己を鎖しているだけでは同じ失敗を超えることが出来ないままなのだ。
彼は子犬の前で腰をかがめてできるだけ目線を合わせる。
「その怪我を医者に診てもらおう。その後あんまり嫌がるようなら段ボールに詰めたりはしない。またどこへなりとも自由に行って構わないから少しだけ我慢してくれ」
どうせ通じないだろう。子犬話しかける自分を彼は我ながら可笑しく思った。
それなのに予想に反したことが起こった。
子犬は彼の言葉に心を動かされでもしたかのように自分から足を引きずりながら彼の方へと近づいてきた。
「・・・・・・」
犬に心があるのかは分からない。
そもそも心とはなんなのかと考え出せば途方もない。けれど、彼の目の前にあるのはまぎれもない命の灯火なのだ。この世にたったひとつ、唯一無二の生きている生命なのだ。
抱きかかえてみるとあまりの小ささ、その身体の軽さに改めて彼は痛ましい思いがした。
こんなにも飢えて、怪我だらけであんな雨の中をこの部屋まで逃げ込んできたのか。いったいどれほど過酷な道を歩んできたのだろうと偲ばずにはいられなかった。その痛み、孤独で苦しい道のりを思うだけで痛ましさに胸が疼いた。この震える身体を抱きしめて、あたためてやりたいと彼は思った。
そのごわごわして汚れた毛並みと、冷やされた肌の向こうに、それでも今なおあたたかい血の通ったものが脈打つのを彼は感じた。きっと、これを絶やさせはしない、と彼は決意を新しくした。
* * *
息を切らしながら走っていると、雨煙の中から目当ての動物病院がようやくその姿を現し始めた。彼はほっとして少しペースを落としつつも、できるだけ早めに診てもらおうとジョギング程度の速さを保つ。
すると近くで「おーい」と声がした。
聞き覚えがありそうな気もしたが構っているほど暇ではない。走ることに集中していると、今度ははっきりと彼の名前が呼ばれた。これにはさすがに振り向いた。声の主もさっきので見当がついた。
「・・・一ノ瀬?」
乱れた息を整えながら振り向く。向こうも走ってこちらに近づいてきて、
「よっ」
と気さくに挨拶してきた。
彼もそれに応じてから、そういえば学外で会うのは初めてだなとどうでもいいことを考えていた。双方とも制服なので新鮮な目新しさはないけれど。
「そんなに急いじゃって、一体どこに向かって――」
と〈イケメン〉は言いかけたが彼の抱いてる子犬を見てすぐに合点がいったらしい。
「あーね。病院に行くところだったのね」
「――よくわかったな。そういうわけで悪いけど急いでるから、また」
「ちょ、待った待った」
走り出したのを引き留められてた。
「今から行くのって『一ノ瀬動物病院』だろ?俺と一緒に行けば損はさせないぜ」
得意顔で言うので、
「それってまさか」
「そう、そのまさか。・・・あり?言ってなかったっけか」
「噂で金持ちのボンボンとは聞いてたけど」
「あー、〈罪人〉はそういうの気にしない人だっけ。ま、そこがいいとこだよな」
〈イケメン〉の話もちゃんと聞きたくはあるが立ち話をしている場合じゃないと彼がそわそわし始めたので2人はともかく歩き出した。
「父親は人間を診てて、母親は動物を診てるわけ」
「それはまた、たいしたもんだな」
「そそ、俺、たいした生まれなのよ」
彼の勝手な偏見によるとそういう境遇にある息子は敷かれた医者のレールを歩むことを余儀なくされそうなものだが、そういえばその逆も同じくらいありえそうな話だと思った。
「家系のことは分かったけど、一ノ瀬もなんか用事あったんじゃないの」
歩きながら、一応相手の都合も聞いてみる。
「まさにこれから用事を果たしに行くところ」
そう言って〈イケメン〉が背負ってるリュックをぽん、と叩いた。
何か着替えなり差し入れなりを持って行くということだろうか。なんにせよ、目的地が同じと言うことならなんの気兼ねもない。彼は気になっていたいくつかのことを聞いてみることにした。
「なるほど。ところでさ、俺今回が初めてなんだけど初診の相場ってどのくらいかな」
なにせ動物用の保険とやらにも入ってもいなければ、いろんな制度なり仕組みについてもあまりに不案内な彼だった。
一応アルバイトをしているとはいえ、ほとんどは〈そよ風の庭〉を卒業した後の自立資金としてとっておかなくてはならないので、そんなに大きな額を好きに使えるわけでもない。懐事情は豊かではなく、心配が表情ににじみ出るのをどうしようもなかった。
すると〈イケメン〉が突然笑い出した。
「なーにご安心あそばせ。言ったろ?俺と一緒に行けば損はさせないって」
「友だち紹介割引みたいなものがあるってこと?」
そんな予備校や自動車学校めいた客寄せのためのシステムを採用している病院も妙なものだが、目の前の自由人と関係のある場所と考えると何でもありな気がしてきた。
・・・・・・千円くらい安くしてもらえるんだろうか。
「へへへ。そんなに見くびらないでくれよ。俺はやると決めたらやる男なのさ」
そういってニヤニヤ笑う。
「じゃあ、いいことって?」
「タダでいいよ」
「――タダ?」
「そう、ムリョウサービスだよ、ムリョウ。困ったときはお互い様ってやつ」
まださきほどの笑いが残っているが目つきはいたって真剣である。
疑うつもりはおきないけれども、あんまり大きな貸しを作るのも――と躊躇っていると
「しかも待ち時間もナシ」
と、おまけまで上乗せに盛ってくる。
「それは、ちょっとまずいんじゃない」
「いいのいいの。日頃のお礼ってことで。かれこれ一年の頃からなにか奢るって言いながらなんにもしてなかったからな」
やっと礼ができる、と晴れ晴れしたように言う。
本人がいいと言うんなら、いいんだろう、たぶん。
いやいやいや、本当にいいのか?




