5-9:廃 墟《君が思うような人間じゃない》
――それは、今まで自分がかけた苦労を無駄にしたくないだけじゃないのか。
彼はついムキになって難癖をつけそうになったが、苛立ちよりももっと大きな何かがそれを引き留めた。彼はただ黙って言葉の続きに耳を傾けた。
「その後だって、どうしたらいいんだろうって、一生懸命この子のことを考えているうちいつのまにかこの子のことがどうしようもなく大事になっちゃったんです。
そうしたらますますこの子のことが特別になっていって、もう会わなかったことになんてできません」
「・・・・・・」
それはときおり彼女が見せる儚げな横顔とはまるで違った表情だった。
目を離せば次の瞬間には遠くへ行ってしまいそうな彼女の中に、こんなにも熱のある想いが秘められていたことに彼は圧倒されそうだった。
「〈樹〉くんは、違うんですか」
「――それ、は」
ここで迷いなく違うといえたらどれだけ楽だったろう。
けれど彼はそこまで割り切った頭の良い人間ではなかった。違わない、と彼は胸の内で言い返したかった。違わないに決まっている。できるならそうしたいと思っているのは同じだと。あるいは、心の中では、彼女よりも、誰よりも自分こそがこの子犬を助けたいと思っているとすら感じていた。
それでも彼にはそれを選ぶことができなかった。
偽善者として生きてきた日々に刻まれた痛みが蘇る。彼の胸にかつての光景がフラッシュバックする。自分のしたことが何もかも徒労に終わるどころか裏目にばかりでて、半端な気持ちのために後悔と自己嫌悪だけが重苦しく沈殿していく感覚。
今日の昼間に見た〈努力家〉の困ったように立ち尽くす苦笑い、その目元に見えた陰り。涙腺の奥に押し隠されて居るであろう苦痛。
そんな自己満足は誰のためにもならないし、どんな良い結果をも招かない。もう十分すぎるほど自分は挑んだだろう、と言い訳したくなった。まだ頑張りが足りないと言うんだろうか。
――『〈樹〉くんは、違うんですか』
消し去りたい彼女のさきほどの言葉が再び脳内に響く。
それは問い詰めるような声色ではなかった。
むしろ、それは心配に近かった。
彼に対し、あなたは違う考えなのかと責めるのではなく、意地を張ることによって遠からず彼を後悔が襲うだろうとでも言いたげでありその心配をしているように思われた。
彼にはそれが不服だった。
その、本当の彼はそんな冷血漢ではないと思っているかのような口ぶり。どんなぞんざいな態度をとってみても、それは彼の冷たい感情を源流としているのではなく厳しい抑制によってつくられた鉄の仮面であるとでも思っているらしかった。
それが何にもまして忌々しかった。
自分はそんな人間ではない。いつでも自分が一番大事で、傷を負わないように、目立たないようにとそんなことのためにばかり浅知恵を巡らせている卑しい人間なのだ。
自分の罪を償うことをも放棄し、憧れと理想にも背を向ける弱い人間なのだ。彼は自分の口に手を突っ込んで内臓を取り出し、自分の腹の中にどれだけ醜いものがあるかを見せつけてやりたいような衝動に駆られた。
そうして、そんなつまらない感情を持ってしまった次の瞬間には決まって自身への嘲りが湧いて虚しくなるのだった。また自分は自分を棚上げにして他人を責めようとしているのだ、と。
彼女の言葉を頭の中から払いのけようとするほどに
風で火を消そうとしてかえって空気を送って火を強めてしまうような具合に余計に大きくより強くなっていくようだった。鼓膜を振るわせた彼女の声、その声に込められた想いがそのまま頭から心臓へと降りてきてひどく彼の心を根底から揺さぶっているのを感じた。
「・・・・・・」
2人の間に沈黙が降りる。
外では降り止まない雨が続き、室内ではまだ燃え尽きていない焚き火が燃えている。
彼はふと、いつだったか自分と彼女が似ているという思い込みをしたことを思い出した。でも、あれはどうやら間違いだったらしい。たしかにこんなところに来るくらいだから、嗜好のどこかでは共通点もあるのかも知れないが、こうして対峙すればまったく違う考えなのだと思い知る。
その彼女は今なお黙っている。
彼女はこの瞬間に何を考えているのだろう、と彼は気になった。
たがいに背を向け合っているので表情は見えない。彼は目の前にある窓をなにとはなしに見やった。その向こうには鉛色の空がどんよりと垂れていて、絶え間なく雨粒を落としている。
それを眺めてながら彼は――自分はもう十分頑張ってきた、と思った。
もうあんな雨の下にわざわざ出て行って、濡れ鼠になって寒さにがたがた震えるようなまねはしたくない。
そう考えた途端、子犬と初めて会ったときのあのうるんだ瞳が閃くように心をかすめた。
「あの・・・さっきは、すみませんでした」
そのとき背後から声がした。
どきりとして振り返ると、膝を抱えてうつむいている彼女の後ろ姿があった。まだ濡れたツヤのある髪に隠されていて、やはり顔は見えない。
「すごくわがままなこと言っちゃって。すみません、自分ではなんにもしないのにあんなことを」
黙っている間、そんなことをずっと考えていたのかと彼は少しだけ驚いた。
彼が狭い考えで自分のことばかり考えている間にも彼女は、子犬のことだけでなく彼のことをも考えていたのだと意外な形で知らされるにつけてますます自分の矮小さが際立つようだった。
沈黙がちな謝罪にも彼は
「・・・いえ、そんな」
としか返せなかった。
気にしてませんと言えば嘘になる。
気にしないでくださいと言ってもなんの意味も無いだろう。
まもなく再び室内に静けさが満ちた。
数日前は言葉のない時間でも穏やかに過ごせたはずなのにこの無言の間は少々こたえた。




