5-8:廃 墟《殻に響く温かい言葉》
* * *
「そう、ですか・・・・・・」
彼の説明を聞き終えた彼女の声は、落胆の色を隠せてはいなかった。
彼の方でも仕方ないという気持ちはあったが、できることならなんとかしたいという想いも無論あったので、
「〈希〉さんのところで引き取るということはできないんですか?」
「あそこは・・・はい。私が面倒を見られないので」
自分の家のことを「あそこは」と言ったのが気がかりだった。
けれど今はそれを気にかけるべき時ではない。
「〈樹〉くんのところは?」
「たぶん、厳しいです」
可能性が全くないとは言わない。
犬を飼えるとなると、妹や〈わんぱく〉は喜びそうだ。〈ガリ勉〉は責任をもって世話してくれるだろうし、〈旦那さん〉も反対はしないだろう。けれどもホームには噴火する火山か観測史上最大の台風のように暮らしを脅かす2人がいる。
あの2人――〈専門家〉と〈不良〉がすんなりと同意してくれるとは考えにくかった。
それに近隣住民からの声もある。ただでさえ奇異の目で見られ、まして〈不良〉の喧嘩沙汰でますます注目という圧力がかかっている現状で犬を飼うとなると、あといくつ菓子折を増やして持って行かなければならなくなるか分かったものではない。
「こうなったら、『拾ってください』と書いた段ボールに入れて、道ばたにでも置いておくほかないでしょうね」
世の中には掃いて捨てるほどの人間がいるのだから、1人くらい善良な人間もいるだろう。
彼はできるだけ自分の感情を交えないで告げた。
「・・・運頼みするしかないんですか」
「保健所は五時に閉まるでしょうから間に合いません」
「でも、拾われるのを待つにしても、せめて手当くらいしてあげないと、このままじゃ・・・」
「――動物病院には、間に合うかも知れませんが」
彼女はなおも食い下がる。やるせなくて縋るものを探すように。
彼は機械的に淡々と話しているつもりだったが、自分でもだんだん無愛想というより投げやりになっていくのがわかっった。
実際、彼には動物病院に連れて行くことすらためらわれた。
たしかに連れていくことだけなら可能かも知れない。問題はその後の面倒を誰が見るのかと言うことだ。彼にも彼女にも無理だった。頼みの〈仙人〉は天の定めだといった。となると拾ってくれる誰か、いつどこで現れるのかもわからないその誰かを待つよりほかに仕方が無いのだ。
つまるところは運の問題ということになる。
けれど運というのなら、こうして暖かい場所に居られるだけでもこの子犬は犬が良かったかも知れない。自力で扉を開けることも窓から脱出することもできなかったこの子犬は、本来であれば誰に看取られることもなくただ一人きりで死を待つだけの立場だったのだから。
――かつての彼と同じように。
「〈仙人〉の言うとおりです。生き物の定めは天が決めることなんでしょう。それに、もう俺たちだって通りすがりの人間としてできるだけのことはしました。
心苦しくはありますが、〈希〉さんもこれまで怪我した犬の横を通り過ぎてことだって車にひかれて死んだ子猫を弔わずに見て見ぬふりしてきたことだってあるでしょう」
あきらめの悪い彼女に突きつけるようにわざと冷たい言葉を選ぶ。
それは内心につのる自分自身への苛立ちが八つ当たりの形で彼女に矛先を向けたものだった。
「それはそうですけど――」
なおも食い下がる。
「じゃあ、墓も作ってちゃんと手厚く弔いましょう」
そうすれば気も済むだろう、と彼はいかにも適当な口ぶりで言った。
なんとかして彼女に諦めて欲しかった。
彼女が健気なひたむきさで優しさを迸らせるほどに、本心に背を向けて言い訳を重ねる自分が追い詰められていくようだった。本当は自分だってなんとかしたい。けれど、無理なのだ。仕方のないことなのだ。
部屋の壁を照らしている焚き火のように彼女の前向きな言葉が暗いところへと逃げ込みたがる彼の卑屈な臆病さを明るみに出し、彼は光を嫌い洞窟に住む夜行性の生き物のように彼女を恐れた。
「そういうことを言ってるんじゃないです」
逃げの一手として茶化した風に発された彼の言葉も彼女はまっすぐに受け止め、そうしてまっすぐに投げ返してきた。
「私だって、生き物の生き死には神さまが決めるものだと思います。けど、だから諦めるんじゃなくて、神さまが決めることだからこそ、この子はもうここまでだと私たちが決めつけるものでもない――というか。ほら、あるじゃないですか、人事を尽くして天命を待つというか」
「・・・・・・」
理路整然と自分の正しさを説くのではなかった。むしろ、明晰さに欠けていて、しかしその拙さのゆえにかえって純朴な誠実さがあらわとなって優しげな唇からこぼれ出すのだった。
その返球は、どんな鋭い弾道を描くものよりもいかなる剛速球よりも彼が恐れていたものだった。
「それに、この子はもう特別なんです。確かに、まだ会ったばかりだし、ほかの野良犬とどう違うかなんてこともわかりません。言ってしまったら、なんてことないありふれた一匹ですし、しかも今にも死にかけてるような取るにたらない存在かも知れません。私たちがこの子を見つけたことを奇跡とか運命とか呼ぶつもりもありません。
でも、こうして出会ったじゃないですか」
彼女はとつとつと言葉を紡ぐ。
話しながら自分自身の気持ちを整理していくような様子は彼女のたしかな想いに宿る血の通った温度を彼に伝えていった。完璧で誤りのない理屈よりも、それはより高く清らかな響きで
彼の閉じこもっている殻を叩いた。
「その気になれば、私たちはこの子を無視して一日を終えることだってできたんです。
生き物の声がしても下の階におりずに閉じこもることだって出来たし、下に降りてからも扉の向こうにいるから大丈夫だとそのままそっとしておくことだってできたんです。
でも、実際にはそうはしなかった。
雨に打たれながら、足場の悪い中を危険を冒してまで会いに行ったんです。そうして、私たちはこの子を見つけた。私たちは自分で選んでこの子と出会ったんです」




