5-7:廃 墟《思いもよらぬ仙人の拒絶》
中央の焚き火が揺らめきながら照らす室内に2人と1匹はいた。
火のほど近くには顔も肌も上気させた彼と彼女が背中合わせに座っている。
「やれやれ〈希〉さんに男の服を脱がせて悦ぶ趣味があったなんて」
自らの恰好と黙っていることの気恥ずかしさに彼はそんな軽口を叩いた。
「趣味って、なんですかその言い方。私はただ――」
不名誉な言いがかりに反論しようと勢いよく話し出した彼女だったが。その先を言葉にして改めて自分の状況を認識することで燃え上がる恥ずかしさを余計に熱く大きくしてさせてしまうと気づいたのか、それ以上は悔しそうに黙り込んだ。
「そ、そんなことよりです。〈仙人〉さんと会ってみて、どんな話になったんですか」
彼女が首を動かして子犬の方を向いたのが、視界の端に見える、壁に大きく映った影の動きで分かった。彼もそちらを向いた。
寒そうに身を震わせながらも火が怖くて近寄れないでいるのだろうか、子犬だけは少し離れたところから観察するような注意深さでこちらを見ている。
「ああ、そうなんです。そのことなんですが――」
さっきのドタバタで失念していた大事なことを思い出して、彼はさきほどの〈仙人〉とのやりとりを彼女に話しだした。
* * *
雨降りの中、彼はいつもの場所で〈仙人〉を待っていた。
ほどなくして犬の吠える声が湧きはじめ、続いてその姿が現れた。まるで犬たちからの尊敬を集め一族の長に選ばれでもしたかのように幾匹もの異なる犬種を引き連れて、急ぐでも焦らすでもなく自分のペースで気長に近づいてくる。
その犬たち一匹一匹のたくましく力強い様子や見事に息の合った関係性などを眺めるうちに
彼は、この〈仙人〉ならば決して犬をぞんざいには扱わないだろうと感じた。この子犬もあの〈縄張り〉でなら幸せに暮らせるだろうという思いが強くなった。
「こんにちは。急にすみません」
〈仙人〉はレインコートを着ていた。ところどころ土に汚れている。挨拶に返事がかえってこないが、いつものことなので彼は続けた。
「実は折り入ってお願いがあるんです。この子犬のことなんですが、どうか引き取っていただけないかと思いまして」
「・・・・・・」
胸に抱く子犬を示しながら丁寧であることを心がけて話す。
「怪我をしているみたいで、体力も弱ってます。このままだと命が危ないと思うんですが、自分たちで引き取るわけにも行かず・・・」
説明しながら彼は自分がこの子犬に関わろうとした大きな理由として最初からこの〈仙人〉になんとかしてもらおうという、浅ましい他力本願な依頼心が潜んでいることに気づいた。もっとも忌み嫌っていたものが他ならぬ自分自身の中にあることを自覚するともに彼の声は次第に意気を欠き沈んでいく。〈仙人〉の沈黙のために余計に自分の言葉が白々しく耳に響いた。
それでも、この子犬の引き取り手を見つけることが出来るならばと、彼は傘を下ろして深く頭を下げた。
「お願いします。どうかこの子の面倒を見てあげてください」
「・・・・・・」
長い沈黙が降りた。
彼のうなじを、背中を、淡々と雨粒が濡らしていく。判決を待つような息詰まる時間が積もるほど、だんだんとジャージから沁みていった水の冷たさが彼の肌から体温を奪っていった。
「・・・・・・」
やがて頭を下げたまま足下を見ていた彼の視界に一本の棒きれが入ってきた。それは〈仙人〉が日頃から携えているなにかの枝で出来た杖だった。その先端が左斜め前にとんと置かれ、そのまま弧を描いて右斜め前でとまる。今度はさっき来た道を引き返しそれを繰り返す。ワイパーのような動きだった。
「つまり・・・」
その行為の意味するところは彼にもすぐ理解できた。
〈縄張り〉の外で起こったことは管轄外、ということらしい。
「どうしても、ダメですか?」
彼はなおも追いすがった。けれども返事はなかった。
このとき彼は、正直に白状すれば少なからず驚いていた。色々あったけれど、この〈仙人〉に引き取ってもらえればもうなんの憂いもなくこの子犬のことは一件落着と思っていたところへこの返事である。
ふだん連れている犬の数の多さや、その世話の丁寧さからおそらくこの浮き世離れした感のある老人は無類の愛犬家なのだろうと思っていた。だからきっと、今回のこともたやすく受け入れられるだろうと、それが当たり前のように「期待」していた。
――そのとき彼の頭にいくつかの顔が浮かんだ。それはいつだったか彼を教祖のように思い込んでいた人物たちだった。
それらの人物と今のこの自分の有様と、いったい何が違うだろうか。彼は〈仙人〉のことは何も知らなかったし、知ろうともしなかった。であればいくら顔なじみとは言え何もわかり合っていないのは当然である。
それなのに彼は一方的な思い込みによって、〈仙人〉のことを愛犬家「だろう」と思い込み、だから手を貸してくれる「はず」だと何の根拠もなく、そして自分に都合良く信じて疑わなかった。
思えば〈仙人〉がいくら動物をたくさん飼っているからといって動物好きとも慈善家とも限らないのだ。たとえば、暇つぶしの一環に過ぎないのかも知れないし、自衛のために動物を調教しているのかも知れない。あるいはただ寂しさを紛らわせたいだけかも知れなかった。
仮に〈仙人〉が善意と情け深い恩愛の気持ちから動物を世話していたとしても、ひとりの人間のできることには限界がある。そこで〈仙人〉はこの境界をひとつの線引きとしたのかも知れない。つまるところ、何も知ろうとしなかった彼にわかる確かなことなどひとつもなかったのだ。
「そう、ですか。お呼びだてしてすみませんでした」
そんな当たり前すぎることに遅れながら気づいた彼は自らの浅慮を嗤いたかった。
がっくりとうなだれて、拒まれたことを受け入れてビルに戻ろうと背を向ける。
すると、後ろから腕を掴まれた
骨張った手から伝わってくる予想外の強い握力に驚いていると雲のように白い眉の下にある鏡のような目が、深遠な谷底の底に流れる川を思わせる落ちくぼんだあの〈仙人〉の目が、まっすぐに彼の瞳を捉えていた。
「――――」
彼がなにも言えずにいると、すべてを知りつくした賢人のようでもあり、なにひとつ知らない阿呆のようでもあるその老人が
「生き物の定めは、天が決めることじゃ」
と言った。
諭すようでもあり、試すようでもあり、問いかけるようですらあった。
形の定まらない雲が見る物によってその形を変えるように、意味の無いインクの染みが人の深層心理を映し出すように、その答えのない言葉はいかようにも受け取ることができそうだった。
そしてその言葉は理屈をすり抜けてまっすぐに彼の心の背骨に響いた。それがいかなる情緒であるのかを彼が感じ取るより前に、靄となって消えでもしたかのようにさっきまで彼の腕を掴んでいた手はいつの間にか離されていた。
呆然と雨に打たれる彼を置いて〈仙人〉は来たときと同じような、日が昇り沈んでいくようなゆったりとした歩みで帰って行った。