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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月20日
29/106

5-6:廃 墟《開かずの間の揺れる扉》


 気合い十分と言ったところだが、具合は万全ではない。

 寒さに身体が震えるのを意志の力で押さえようとしているのは明らかだった。

「子犬も大事ですけど、自分の体調も大事にしてください」

 彼はおもむろに部屋を出たかと思うと、隣の部屋からコンクリートの瓦礫を運んできた。

 不思議そうに見る彼女を尻目に、それを数度繰り返す。すると彼女にも彼が火をおこすための石組みをしていることがわかってきた。

「いつも荷物をもたずに来るから、着替えとかもないんでしょう?この子は俺が〈仙人〉のところに頼みに行きますから、その間に服を少しでも乾かしておいてください」

「〈樹〉くんは、服どうするんですか」

「体操着があります。あんまりいい気分はしませんが、体育はいつも手を抜いてるのでそんなに汗もかいてませんし、大丈夫です」

言いながらてきぱきを手を動かす彼を彼女はただ見守る。

「実はアウトドア派なんですね。あ、いや、その頼もしいって意味です」

 すると、何かをひどくこらえるような沈黙の後。

「・・・・・・・。むかし、家族とよくキャンプに行っていたんです」

 親を失った彼の身の上をよく知るものならば、その表情の上に悲壮とも言うべき苦々しさと、泣き出しそうな悲哀の色とを見つけ出せたかもしれなかったが、彼女はただ漠然とした陰りを見いだしただけだった。


  *  *  *


 体操ジャージ姿の彼が、〈縄張り〉からビルの方へと戻ってくる。

 手と首でビニール傘を支えており、胸にはバスタオルに包んだ子犬を赤子のように抱いている。その子犬の怯える目つきも、歩く度ににちゃにちゃするローファーの感覚も忘れて、彼は頭の中で、ついさきほど〈仙人〉に言われたことの意味を考えていた。

 そうしてコンクリートの通路に足跡をつけながら歩いているうちに、彼は彼女の待つ二階の角部屋へと到着していた。

 足音で自分が来たことには気づいているだろうと思いながらも一応ノックすると「はーい」と返事が来る。

 ぺたぺたと素足で駆け寄る足音に続いて、ガチャリとドアが開かれる。

その躊躇いのなさに、なんだもう服が乾いたのかと思った刹那――

「――――!?」

 開かれたドアが、叩きつけるように閉じられた。

 横綱の張り手もかくや、という速度と衝撃だった。

「ちょ・・・〈希〉さん?」

「見ました?」

「なにを」

「なにをって・・・」

 うわずった声が明らかな動揺を伝えていた。それで彼もなんとなくの見当がついた。

 十分な心構えをするまえにノックの音に反射で反応して開いた直後に彼の姿を認めるやいなや毛布一枚でいる気恥ずかしさを思い出した――おおかたそんなところだろう。

「俺の動体視力を何族レベルと思ってるんですか。考え事していてぼーっとしていましたし、何も見てませんよ」

 あの瞬間を捉えられるほどの人物なら高速で射出されたボールに書かれた番号も当てられるだろうし手品師の磨き抜かれた瞬く間のトリックだって見破れるだろう。

 そうして彼はそんな非凡な才能など持ち合わせていない。・・・だいたい、それよりも胸に抱いてる子犬の驚きようがさっきから気の毒でならない。

「ほんと、ですか・・・?」

「はい」

 おそらくこういうときは、本当でも嘘でも、本当だと言わねばならないのだろう。

 なすすべもなくドアの前に立ち尽くして待っていると、間もなく遠慮がちに開かれたドアから毛布に身を包んだ彼女が現れる。その手には纏っているのとは別の毛布が握られており、差し出されるようにドアの隙間から彼の方へと伸ばされている。

「・・・どうも」

 意図が飲み込めないまま、一応は受け取っておく。すると彼女が、

「それを、着てください」

 女王様のように命ずるので、仰せのとおりジャージの上から羽織ると、

「そうじゃないです。服を脱いで、その上からその毛布を着てください」

「――は?」

 などと突拍子のないことを言い出す。意味が分からなかった。

 このときまでそちらを見るのは悪いと思って下を見ていた彼は初めてここで顔を上げた。彼女も自分で恥ずかしいことを言っている自覚はあるようで、顔をそむけ、あさっての方向を睨んでいるその顔は火の出るほど真っ赤だった。

「ふ、不公平じゃないですか。わたし、だけこんな恰好、なんて・・・」

 一刻も早くこのドアを閉じてしまいたそうな顔と声とをしながら、それでも是が非でも彼の同意を取り付けないことには引き下がらないぞと言った気概のような物をみなぎらせている。



「それなら、服が乾くまで俺は外で待ってますよ。着替えてから部屋に入れてくれればいいじゃないですか」

 なにも自分がそんな麻薬密輸の容疑をかけられた人間に行われる厳重検査のようなものを受ける必要はないだろうと彼は思った。たしかにこのジャージとて着ていて気分がいい物ではないし、さっき〈仙人〉を訪問した際に多少濡れはしたものの、裸毛布よりかはずっといい。

 それでも彼女にはなにか彼女なりの固い意志があるらしく押し黙ったまま返事がない。

 が、これはひとまず彼女の服が乾くまで待つしかなさそうだった。自分ひとりなら適当に時間をつぶせもするものの、今、彼の腕の中にはいかにも弱っている子犬がいて、その小さな身体の震えが彼の腕にまで伝わってくる。彼はなんともいたたまれない気持ちになった。

「せめて、この子犬だけでも暖かいところに置いてもらえませんか」

「え、〈仙人〉さんに預けてきたんじゃ」

「ちょっと色々ありまして」

 それが開かずの扉に有効な呪文でもあるかのように閉ざされていたドアが鈍く軋みながらほんの少しだけ開かれる。

 しかしその握り拳2つ分もない隙間からではとうてい子犬の受け渡しは出来ない。

 それでも、彼女の中にも良心と恥じらいの葛藤があるのだろう、そのドアは内面のせめぎ合いを表すメーターか何かのように細かく開いたり閉じたりを繰り返していた。

 その躊躇いを見ているとなんだか善良な性質のか弱い生き物に意地悪をしているような気になってくる。自分にとって最大限の譲歩をしようと努力している彼女をただ突っ立って眺めているだけの自分にも、すべき努力があるのではないかと思われた。

(旅の恥はかき捨て、というのか・・・)

 旅ではないにしろ、この廃墟での日々は彼にとっては日常的な「非日常」だった。

 たまにはガラにもないことをしてみてもいいんだろうか。見られる相手はただひとりだけ、おまけに同じ土俵に立ってもいる。同じ土俵とは言え、あのはにかみがちな彼女の人柄なりさっきの様子なりを見るにそれで妥協するために必要な勇気や抵抗は彼女の方がずっと大きいように思われた。そうかといって臆病で神経の細い彼にとっても、それは容易ならぬ行動だった。

(やれやれ・・・)

 迷った末に、彼は腕の中から自分を見上げてくるつぶらな瞳を見た。

 そこには彼に訴えかけてくる何物かがあるようだった。

「誰だって、ひとりで寒い思いなんてしたくないもんな」

 誰に向けてかもわからないが、声に出して呟いてみると彼の心が定まった。


 

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