5-5:廃 墟《孤児とびしょ濡れの子犬》
* * *
1階に降りてぐるっと回り込む。すると廃ビルの壁にうずたかくゴミが積まれている一角があった。かろうじて2階の窓に届きそうなくらいだからよほどの量だ。
「あそこなら登れそうですね」
雨が降りしきる中、2人はゴミ山を登り始めた。
「〈希〉さん、大丈夫ですか」
「はい、なんとか」
「結構足場が悪いので気をつけてください」
乱雑に積まれた足場は簡単なことで崩れ落ちる。上を見上げれば雨粒が目に入る。おまけに両手を使わないと登れないほどの急斜面なので傘をさすこともできず、びしょ濡れにならなければならなかった。
そうしてなんとか2階の窓へ辿り着く。彼は用心深く中の様子を覗き込む。
そこにいたのは、ずぶ濡れた身体で怯えたようにこちらを見つめる子犬だった。
犬種は一目で柴犬と分かる。毛並みは黒でところどころ鉄錆色をしている。まだごく小さな子犬で、1人では狩りをするのもままならなさそうだった。それが通路に繋がる扉の前で精根尽きたように身体を横たえている。彼はその様子と、部屋の中にうろうろと巡っている足跡を見て気がついた。
この子犬は、出てこないのではなく、出られないのだった。
彼が今覗き込んでいる窓からどうにか入ったはいいものの、身体が小さいため落ちたっきり窓から出ることができなくなった。かといってドアを自力で開くこともできないまま、為す術もなく力尽きて命が絶える瞬間を待つだけの身であったらしい。
彼は予想していた脅威とは似ても似つかないその姿に驚きながら、用心深く窓から入った。
異常事態が起こったことや、その姿や侵入経路の分からないという未知の要素がやたらと不安を煽ったことは言うまでもない。しかしいざ対面してみて、こんな子犬相手にああも警戒していたのかと思うほど弱々しかった。
けれど相手を警戒していたのは彼だけではないらしい。
目の前の子犬は彼という不審人物の侵入を受けて、横たえていた身体を無理矢理にといった感じで起こした。その小さな身体を支えるか弱い手足が震えている。雨に体温を奪われた寒さのためだけではないだろう。
「おい、あんまり無理するなよ」
痛ましさのあまり思わず話しかけてしまった。
けれど子犬はいっこう聞く耳を持たない。仮に人の言葉がわかったとしても結果は同じだろう。こういうとき言葉は役に立たないのだった。
そうして子犬は必死に彼に向けて精一杯の威嚇をしかける。背後ではさっきまで彼を思うさまずぶ濡れにした雨が降り止まず続いている。扉のすぐ近くにいながらどこにも出られない子犬と、窓のすぐ側にいていつでも出られるのにここに残り続ける彼が目を合わせた。
その濡れた身体と怯えた目つきに見つめられると今まで見て見ぬふりをしてきた淋しさと目が合ってしまったような気がした。そのまま魅入られてとらわれそうになっていたところへ、
「あの、どうでしたか」
彼女が大声で呼びかけてくる。
はっとして窓から下を確認すると、ガラクタの山の中腹ほどで彼女が登るも降りるも、にっちもさっちもいかなくなったようになりながら、部屋の中の様子を尋ねてくる。
「いたのは、小さな子犬でした」
彼も答える。
「それと、こっち側から扉を開けれないか試してみるのでちょっとそこで待っててください」
そう声を掛けると、見切り発車のすえの立ち往生を恥じらうように
彼女はちょっとうつむいて、こっくりと頷いた。
それを見届けた後、彼はドアを開けるべく部屋を横切る。もちろん子犬を刺激しないように細心の注意を払いはしたけれど、どうしても相手を怯えさせてしまう。その度に子犬はうなり声をあげたり、さも憎らしそうに睨んだりした。いっそそこを離れてもらえれば、お互いにとっていいのだけれども、怯えのためか、怪我をしているのか、いっこう動く気配がない。
彼は怯えさせてしまうことを内心で子犬に詫びながら、さっさとドアノブを回してみると、ノブ自体はあっさり回った。扉には鍵などかかっていなかったのだ。
けれども立て付けが悪いのか、地震でどこかに歪みができたのか素直にぱたりと開こうとしない。外の通路に繋がるドアを開けようとしているのだと理解しない子犬は、あくせく扉を開けようとする彼の奮闘にもただただ落ち着かない様子だった。
やむなく体当たりを見舞ったおかげでどうにかドアを開けた後、再び1階に降りて立ち往生している彼女の下山を手伝って、それから再び子犬のいる部屋に戻ってきた。
* * *
「へっくち」
唇を青くした彼女がくしゃみをする。
「大丈夫ですか」
そちらを振り返るが、すぐに目をそらす。
水を吸って透けた制服が肌にすいついて目のやり場に困る。彼の動揺を気取った彼女も、同じように頬を赤らめて目を伏せる。
「タオルか毛布みたいなものを探してきます。少なくともカーテンはどこかの部屋にあったはずですので」
「・・・すみません。私になにかお手伝いできることはありますか?」
「そうですね、何か火にくべれそうなものがあったらこの部屋に集めておいてもらえますか?」
「わかりました」
ほどなくして彼は両手いっぱいに目当ての品を抱きかかえて戻ってきた。
「キレイなのを選んできたので、一応カビとかはないはずですが・・・・・・」
「すみません、ありがとうございます。あ、あと、この階にあった雑誌とかをあそこに」
「ありがとうございます」
彼女に大きめのタオルと毛布を手渡す。
そのついでに子犬の身体も拭こうと近寄るも、容易には心を許してくれない。
「こんなちっちゃなわんちゃんだったんですね」
濡れた髪をタオルで拭きながら彼女が言う。よほど冷えるのかプール上がりのように青白い顔だが、表情は明るい。
「あそこの窓から入ったっきり出られなくなってたみたいです」
彼は自分の入ってきた窓を指さす。
「かわいそうに。怪我もしてますね」
「はい。たぶん何かから逃げてきてこの部屋に転がり込んできたというところでしょう。こうも警戒してるのはそれもあるんじゃないかと」
「でも全然逃げませんね」
「それだけひどい怪我か、体力ももう残ってないということなんでしょう」
「たいへん。早く手当てしてあげないと」
彼女の目にはナイチンゲールもこうだったろうかと思わせるほどのひたむきな使命感が燃え上がっていた。持ってきたカンテラの明かりがその瞳の中に映り込んで、いっそう輝かしい色をたたえて見える。
「怖がらせてごめんね。でも、もう大丈夫だから」
愛おしそうに話しかける彼女の横で、彼は我慢をしていた。
彼もなんだか子犬のことは気の毒に思うし、何か優しく声を声を掛けたかったが彼女に見られている手前それはできなかった。
彼女が撫でようと伸ばした手にさえも恐ろしい物として映るらしく子犬は大げさにさえ思える怯えと精一杯の強がりで威嚇をしていた。彼女は淋しげにばつの悪そうな笑顔を作って
「仲良くなるには時間がかかりそうです」
彼に言ったあと、
「へっくち」
二度目のくしゃみをした。




