5-4:廃 墟《廃墟と獣の唸り声》
透明な時間が無意味に過ぎていった。
淡々と降る雨がカーテンのように建物の内部と外部を隔て、脆い屋根と壁に守られた2人は外の雨の音を遠くのことのように聞きながら言葉を交わした。そのささやかな話し声と学生らしいローファーが鳴らす靴音が、潤ったコンクリートの壁にしっとりと反響していた。
その音の重なりのなかに、もうひとつ別の音が混じっているような気がした。
建物の半分以上を降りたところだった。
「今、なにかきこえませんでしたか?」
彼女のほうを振り返ると、彼よりも耳がいいからだろう、迷いのない目つきで頷いた。
「下の階からきこえましたね」
音量をを抑えた声で言う。
その音源の正体がなんであるか確かめようとじっと耳を澄ます。傍らの彼女も同じようにしている。それを見て彼女と会った日の自分のことが思い出されて、彼の胸には妙な感慨が湧いた。あんな風に警戒していた、そうしてあんな出会い方をした彼女と今はこうして肩を並べて一緒に歩いているのだから、世の中どうなるかわかったものじゃない。
「動物かなにかの鳴き声・・・・・・?みたいですね」
言われてみるとたしかにそんな気もする。彼も下の階に注意を払いながら小声で
「ちょっとどこかに隠れていてください。様子を見てきます」
と言うと、
「私も一緒にいきます」
なにがいるかわからないし、いるのが動物だけとも限らないと彼が言おうとすると、そんなのはわかっているといった風に制された。
「大丈夫、だぶんなんとかなります」
また根拠のわからないことを言う。だんだん自分の我を通そうとするのが無駄なことだとわかってきた彼はとうとう折れた。
「でも、用心はしてください」
そうして2人は階下の気配に気を配りながら慎重に階段を降りていった。
* * *
低くうなるような声だった。鳴き声の主は2階にいるようだった。
彼は念のためにカンテラを提げてない方の手に鉄パイプを持った。
常に退路のことを頭の中に描きながら、音のする方へと近づいていく。
そろりそろりと歩を進めていって、どこから鳴き声がするかようやく見つけた。場所は通路突き当たりの右側の部屋。どうやって閉めたのか扉は閉ざされている。
こちらの足音やあるいは匂いに先方も気づいているのだろう、一段と警戒を強めた鳴き声になっている。
なんとなく、ほ乳類、それも犬だろうということまでは想像がつくのだが、犬種も身体の大きさも分からない。怪我の有無や空腹の程度も分からない。唯一分かっているのは、相手は今気が立っているということくらいだろう。
ひとまず避難口である階段近くの一室に陣取って、そこから様子を窺うことにした。
「お腹空かしてるんでしょうか」
「たぶんそうでしょう。 野良犬は自分で食料を調達しないといけないので」
「あの〈仙人〉さんのところからはぐれたとかですかね」
「うーん、あの人は熟練のブリーダーなので、たぶん本当の野生だと思います。ここは〈縄張り〉の外ですし・。・・・ただ」
「ただ、なんですか?」
「足跡がないのが気になります」
「足跡、ですか」
「はい、さっき歩いていて気づいたんですけど、この建物ところどころ雨漏りしたり、窓がなかったりで水たまりが多いんです。だから、階段を上って通路を通ったのなら地面に足跡がつくはずなんです」
彼は足下を指さす。
「あ、ほんとだ」
「だから、どこからあの部屋に入ったんだろうって。犬がわざわざ自分で扉を閉めるのかも気になりますし」
「窓から・・・じゃないですよね、ここ2階ですし」
「何か足場があってそこから登ってきたと考えられなくもありませんが・・・。ほんとにここにいると不思議なことばかり起こります」
彼はこの後どうしようか考えた。
ここに居着かれても困るし、襲われるのはもっと困る。なんだか最近同じようなことを考えた気がするけれど、それはこの際仕方ない。いっそ外から回り込んで中の様子を確かめてみるかと悩んでいると
「声が・・・ちょっと弱ってきてませんか?」
「え?」
言われてみればさっきよりもいくぶん弱々しくか細い声になっている。
よっぽど腹を空かせてるのか、怪我でも負っているのか。なんにせよ衰弱していくように思われる。
「確かに・・・そうですね」
「大丈夫、でしょうか」
「・・・・・・」
弱ってもらった方がこちらとしては安全になるのかもしれない。そうかといって、このまま息絶えられればそれはそれで後味が悪い。とはいえこのまま突撃するのも危険が――。
「わたし、ちょっと様子を見てきます」
彼女が立ち上がって通路に出ようとする。
「様子を確かめたところで、できることもないでしょう」
「それは・・・でも、〈仙人〉さんのところに連れて行ければ面倒を見てもらえるかも」
おとなしそうに見えて、こうと決めたら聞かなさそうに言う。
確かに、もしそうなったらそれが一番いいかもしれない。
「けど、ドアを開けていきなり飛びかかられたらどうするんです?」
「それは・・・あ、じゃあ外から中の様子を覗いてみます。この通路に足跡がないってことはたぶん、外から直接はいったんですよね。それなら、回り込めば中の様子を確かめられるかも」
この案なら何の問題も無いとばかりに、今度こそさっそうと歩き出す。
「待ってください」
ひとりで出ようとする彼女の袖をつかんで引き留める。なんにせよ、こうなってしまえば彼の言うことは決まっているのだ。
「俺もお供します」
それを聞いて頼もしそうに彼女は笑った。最初からこうなることを知っていたみたいに。