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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月16日
22/106

4-5:廃 墟《春風の中で交わした約束》


 けれど、彼にはまだ返すべき恩も償うべき罪もあった。

 過去は変わらないのだから一度起こした過ちは消えることがなく、ゆえに一生かかっても果てなどないと知りつつも、それでもその理由が暖かく優しい過去との繋がりとも冷たく重い鎖ともなって彼をこの世に繋ぎとめている。

 彼がひとり鬱屈とした思いにとらわれて返事もしないでいると、反応がないと諦めたのか彼女は彼から目をそらしまた橋を渡り始めた。

 すると彼女という花がただよわせる甘い香りに誘われたかのように、彼女のもとへ幾羽もの蝶がひらひらと集まり始める。守るようでもあり、慕うようでもあり、食い散らそうとするようでもあり、迎えに来たようでもあった。


 なすすべのない彼にはそれを見送ることしかできなかった。

 そもそも、消えてしまいそううんぬんということ自体が彼の身勝手な空想なのだし、あの橋を渡り終えてもけろっとしてるに決まっている。そんな当たり前のことを当たり前と思えないほどに狼狽していると自覚しつつも、どこか幽霊のような彼女が一歩、また一歩と踏み出すたび、彼は気が気でなかった。

 橋の向こう岸へと近づくほど、さきほどの蝶の数は増えていった。散っていく花びらのように淡く、舞い踊る少女のように可憐に、囲うように彼女のそばをまわりながらと飛び交っている。それが彼には、ほのかな灰の香りのような死の気配として感じられた。


 そうして、とうとうもう橋を渡り終えるというところで彼女は最後にもう一度立ち止まった。

 いつか目にした、天国の入り口で何かを待っているかのような横顔で――。


「――――!」

 彼は、その表情が、愁いを秘めた瞳の色が、たまらなく悲しかった。

 そんな顔を目の前の誰にもさせたくはなかった。

 けれど自分は追いかけることが出来ない。

 ひとりで悶々としているうちにも、もう彼女は最後の一歩を踏み出そうとしている。

(・・・いいのか)

 それで、本当に。乗りかかった舟じゃないのか。

(俺には関係ないことだろう)

 後悔することになるぞ。目を背けているだけだろう。

 思考にもならない、ほとんど焦りのような細い思念の糸が彼の意識の表面をほとんど覆い尽くそうとしていた。そうして、彼女の右足が、とうとう橋の向こうにたどり着こうとして――

 瞬間。

 彼の背後からひときわ大きな風が吹いた。

(ああ。くそ――)

 どうにでもなれ。

 それが彼の思ったことのすべてだった。

「――――夏になったら」

 抑えきれずそう大声で呼びかけていた。

 力強い空気の流れに背中を押されたのかも知れない。

 風はそのまま彼を追いこしてまっしぐらに彼女を目指し、覆わんばかりに群がっていた無数の蝶を吹き払った。突然の大声に驚いた彼女がびくっと細い肩をふるわせて立ち止まる。なにごとかと彼を振り返る。それにも構わずに彼は続ける。

「夏になったら――がきれいなんです。その、上流のほうで・・・たくさん」

 やぶれかぶれになりながらも彼は大声で言い終えた。

 勢いに任せて告白をしたような後悔と疲れがどっと押し寄せてきた。

 春に包まれた2人の間に沈黙が降りた。しばらく目を丸くしていたが彼女はやがて、

「そのときがきたら、案内してください」

 と返事をした。

 さきほどよりも、心なしか和やかに見える。

 それはそうだろう。端から見れば意味の分からないこの必死さが可笑しくないはずがない。彼は自分自身の制御のきかなさにうんざりしていたので、自分から誘っておきながら下を向いて横柄にうなずいた。

 そこへ――

「ありがとうございます。

楽しみにしてますね」

 明るい声に思わず顔を上げた。

 そこには、今度こそ、本当に今度こそ。

 混じりけの無い純粋な喜びの溢れる笑顔があった。そうして、それを見ているだけでの胸の底までまるい陽だまりに照らされたようにあたたかくなったのに気がついた。

(もしかして・・・・・・)

 彼女に橋を渡らせないための、時間稼ぎにすぎないと彼は思っていたけれども。

 初めて会ったときからの彼女とのやりとりを通して、自分という人間のこれまで明るみに出てこなかった一面が少しずつ見えだしてきたような気がし始めていた。

 これは、もしかすると――。

(俺はただ、自分がこの顔を見たかっただけだったのかもしれない)

 思い至ると、なんとなく心当たりもないではなかった。

 それはいいことなのか、悪いことなのか。彼には分かりそうもなかった。



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