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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月16日
21/106

4-4:廃 墟《満開の桜と幽霊少女》


  *  *  *


「わあ、すごい」

 一目見るなり隣で彼女が驚きの声をもらした。

 それを胸の内で得意げに聞きながらも、その視線の先にあるものを目にすると、彼もやはりあまりの絶景に単純な感動の言葉しか出てこなかった。

「・・・すごいなあ」


 それは、一言で言えば春爛漫の桃源郷だった。

 名水百選にも選ばれた清らかな川を挟んで、両岸に見るも鮮やかな桜並木が続いている。

 無数の星のような煌めきを水面にたたえる、天の川を思わせるその川の土手には、満ち足りたしあわせのまっただなかにいる子どもの笑みのような明るい色の菜の花が、桜の落ち着いた風情のそばに華やいだ活気を添える。

 まったく色は違うけれど、自分でもどうしてなのかわからないまま彼は、桜と菜の花が親子であるような睦まじさをその光景から受け取った。


 並び咲く桜並木の枝は、川の中の魚の様子をのぞきこみでもするかのように、土手を越えて大きく伸ばした枝をなだらかに川の上へと乗り出させている。

 その川の水面には川をのぞき込む桜の割れんばかりに咲く姿が映り、その鏡像の上に枝を離れてひらひらと宙を泳いでいた花びらが積もるように浮かんでいく。実物と鏡像の入り交じった幻想的な薄紅色の色彩の重なりはどんな詩人の言葉よりもうららかに春をうたっているように見えた。

 川の中には老夫婦のような親しさを漂わせる二匹の鯉があり、花見でもしているのかときおり水面から顔を出しては口をぱくぱくさせている。それらは、目の覚めるばかり鮮やかな朱や、墨のように落ち着きのある濁りない漆黒や、新雪のように寂しげな白色をまとっていた。

 視界いっぱいに広がる新緑と花吹雪とやわらかい日差しを見ているとまるで幾重にも春の波が押し寄せてくるような感じを受けた。

 のどかな景観のなかにいるのに、心躍る華やかさがあった。

 なごやかに光る風が水面に輝くさざ波を立ててながら旅人のようにさっていく。川の水はさらさらとよどみなく清らかに流れすぎてゆき、枝葉はそよそよと揺れながら歌うように涼しい音を立てる。

 今にもうぐいすの声がどこかの花霞のなかから聞こえてきそうだ。

 

 こんな日に干されたら布団もさぞ心地よかろう。

 彼はふとそんなことを思った。彼もいっそ洗濯物になって物干し竿でひらひら風と戯れたいくらいだった。

 見渡す限りの視界を、眺める彼のちっぽけな身体の前後左右、頭の上までを、空の下すべてを春色に染め尽くしてしまったように爛漫の限りを尽くした春景色だった。

 人の訪問の途絶えたこんな僻地で誰に見せるためでなく桜は咲いた。

 ごく当たり前な生命の悦びとして、ただ、春が来たから咲くのだった。雪に閉ざされた冬を堪え忍び、それが開けたから咲き乱れるのであった。ただ一度きりの、しかし永遠に繰り返す奇跡の刹那を前後の憂いなく、ただ一心に踊るように謳歌するのだった。

 心が動くときは身体も動いてしまう物なのだろう。

 弾んだ心に突き動かされるように、彼女はその三千世界の中へ躍り出ていった。


 猫のように軽やかに、踊るように楽しげに、踵を鳴らしながら駈けていく。

 舞い踊る無数の花吹雪を浴びながら、彼女自身もまた一輪の花であるかのように美しかった。そうしてひとひらの花びらに過ぎないように儚かった。

 そうして桜並木に挟まれた川に架かる橋をわたりはじめる。その中ほどまで渡ってから、彼のほうを振り返り「ありがとうございます」と大声で彼に礼を言った。

「こんなにきれいな桜を見たのは初めてです、あたし今、人生で一番幸せです」

 と続けた。

 それは、もう本当に嬉しくて飛び上がらずにはいられないと見える喜びようで、彼もそこにはなんの偽りも感じなかった。彼女の言うとおり、彼女はこの春景色の贅を尽くした爛漫な世界に感動し甘い夢のような幸せの中にいるのだろう。


 ただ、その幸せと同じくらい悲しそうな顔でもあった。


 これ以上の幸せはもう二度と訪れない人生のピークにいるか、あるいはこれが現世における最後の幸福な時間だとでも言いたげな、そんな、どこか切なさを誘う表情をしている。

 それどころか――今にも消えてしまいそうな儚さがあった。

 一度でも瞬きをしてしまえばその瞬間に春風に身をまかせるたんぽぽの綿毛のように手の届かないほど遙かなところへと旅立ってしまいそうだった。

 けれど、その危うくて刹那的な彼女の微笑が何よりも美しく彼の目に映った。

 この世にいるともあの世にいるともはっきりしない、優しくされれば泣きそうになり、幸せであれば悲しい色を帯びる。触れようと手を伸ばすとたんに霞と消えてしまいそうであるゆえに彼にはそれが儚さの幻のように思われた。


 地球上で現在の目に映る遠く彼方から星の光が、実は過去のものであるように。

 この夢のような春のひとときのなかに輝かしく微笑む彼女の姿は彼女という存在の発する残像や余韻のようなものが、2人の間の曖昧な距離を泳いで彼に伝わってきたのではないかとすら思われた。


 そう考えれば、今いる橋を彼女が渡りきってしまうとともに

 それは彼らにとって取り返しのつかない別れとなってしまいそうに思われた。なんとか彼女を引き留めることがこの場に立ち会ったものの義務だ――そんな考えが彼の脳裏に閃いた。

「・・・・・・」

 それなのに彼の手も足も動かなかった。

 今度は以前のようにあまりの美しさに釘付けにされたばかりではなかった。

 彼は、誘われてしまったのだ。

 つい、うっかり、いけないことと知りながらも。

 もし彼女がこれから名前も未来も棄てられる場所へと行くのだとしたら――役割も肉体も捨てて、知る人のいないどこか遠くへと逃げ出してしまえるのなら――ああ、それはなんとうらやましいことだと、そんなことを思ってしまった。


 走り出して引き留めようと彼女の手を掴もうものなら、そのまま彼岸へと共に連れて行かれそうな気がして、それが彼をためらわせた。むしろ彼の方こそ橋を渡りたいほどだった。


  

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