4-2:廃 墟《古本屋と過去の残響》
◇ ◇ ◇
(・・・どうしてこんなことになったのだろう)
そんなことを考える彼の隣を、彼女が歩いている。
まだ夕刻というのに、あたりは深夜のようにひっそりとして人の気配がない。
車が通らないどころか信号も眠ったように沈黙しており世界から人間だけが消えてしまったような寂寞とした空気が漂っている。誰にも遠慮する必要のないのをいいことに、2人はひろびろとした車道の真ん中をのんきに歩いている。
それでも彼女の歩幅が狭いので、うっかりすると置いていってしまいそうになる。
が、彼女があとをついてくることは別に構わない。この間、廃墟を案内すると約束したのことは彼だって覚えていた。
たしかに、いつものビルの入り口で無防備に突っ立ってる彼女が彼を見つけて控えめに手を振ってきたときには、いくら廃墟とはいえ、どうしてああも人目を気にしないのかとは疑問に思った。
だが、それもまあ、いいだろう。本人にはよほどの自信があるようだし。
問題はその後だ。
とりあえず、〈縄張り〉に沿って、どこから先にいくと犬に追いかけ回される危険があるのかを彼は道順に沿って案内していた。するとある程度歩いたところで彼女が遠くを指さして言った。
「あ、ちょうどあのへんです。私が犬に追いかけられたのは。
あと少しで見頃の桜並木があって、見とれてたときだったのですごくびっくりしました」
「あの変はちょうど境界線あたりですね。挨拶しにいけば入れないこともないですが、よほどのことがない限りはよしといたほうがいいでしょう」
「そうですか・・・・・・。今頃はちょうど満開だと思ったんですが・・・・・・」
その後、彼はなんと言ったか。
「それなら、もうちょっと歩いたところに絶好の花見スポットがありますよ」
(――どうしてあんなこと言っちゃったのかなぁ)
この廃墟について庭のように熟知していることを誰かに自慢したかったのだろうか。花見ができずにほんの少し落胆した彼女を慰めたかったのか。どうせこの後ひとりで見に行こうと思っていたから、そのついでのつもりだったのか。
それとも、俗世のしがらみを倦んでここに逃げ込んだはずの彼も心のどこかでは人との繋がりを願ってしまう気持ちがあったのか。
やっぱり、調子が狂う。
彼女といると自分が変わっていってしまうような不安がある。だからできれば距離を保ちたいと決めておいたはずなのに、ボロを出してしまった役者のようについ迂闊なことを言ってしまう。
「あの、ここもそんなに危ないんですか」
声を掛けられて、振り返る。
「さっきから、難しい顔をしてるように見えたから。そんなに危ない思いをしてまで案内してもらわなくても」
「ああ、いえ。このあたりは特に心配ないはずです。その――ちょっとどこを案内しようか考えてただけです」
「そんなに色々知ってるんですか?」
「一応どこになにがあるかくらいは。・・・そうですね、ちょうど〈縄張り〉との境目あたりに学校があるのでそこに向かうのもいいかもしれません。ピアノだってあるでしょうし」
「もしかしたら、ここら一体のピアノは全部透明だったりして」
「そうなったらもう超常現象の類ですね。・・・透明というと、J・G・バラードの結晶世界って小説を思い出しました」
「どんな話ですか?」
「その名の通り、人間も動物も植物も、木や水だって結晶化してしまってそのうちあたり一面結晶世界になってしまうんです」
「へ~なんかすごいですね。キラキラしてそうです」
「もうキラキラのキラッキラですよ。ハンパないです」
「樹くんは小説よく読むんですか?」
「ふだんはなかなか。夏休みに読書感想文書かされるときくらいです」
「それ、私もです。せっかくたくさん時間があったんだから、もっといろんな本を読んでおけばよかったかな」
時間が「あったんだから」。
ひどく切ない、しんみりした調子でそう言うので、それに気をとられた彼が返答に迷っていると彼女が今度は明るく言った。
「あ、あそこに古本屋がありますよ。ちょっと寄ってみませんか?さっきの本があるかもしれません」
返事も待たず、何かから逃げるように彼女は駈けていった。
けれどそうやって駈けていくことによって、彼女は歩く度になにかひとつずつ大切なものをとりこぼしていっているように彼には見えた。
* * *
彼女に続いて店内に入ろうとすると、まず独特の匂いが鼻孔をくすぐった。
古書の匂い、というだけでは足りない。
幾年もの歳月の働きによって風格を帯びるに至ったといえば堅苦しい。彼はそのなんともいえない独特の古びた匂いが好きだった。遠い昔から連なる時の流れを漂ってきたそれらが醸し出す空気を、味わうように深く吸い込んでみる。するとそれらはまるで時の余韻のようにも感じられた。と、同時に誘われる彼の郷愁のまぶたには在りし日々の空想が叙情豊かに描き出されるのであった。
博物館のように店内の様子を見ると、まっさきに「荒れ果てた」という言葉が浮かんだ。
半分くらいの書棚が地震のために倒され、傾き、何百冊という本が床に散乱していた。空間を仕切るカーテンのように蜘蛛の巣が張りめぐらされている。人の手の加わらない年月が積もらせた埃もある。
ふだん、蜘蛛の巣だとか埃だとかを好む人は少ないと思う。
彼もその一人である。ただ、ここで目にしたものは特別なのだ。差し込んだ日差しに埃たちがきらめきながら宙を舞い、そのかたわらで幾重にも宙をはしる白い糸が、つつましやかにほほ笑む花びらのようなやさしい色で光っている。それは絹糸のように清らかな美しさをたたえていた。
ただ、廃れただけのものなど、ただのひとつとして存在しなかった。
蜘蛛の糸だったり、植物だったり、たとえそれがカビなどの菌類であったとしても、何かしらの命の息吹が無機物たちを包みこんでいるのだ。それは思いあがったヒトという生き物も、
より高いところから俯瞰すれば地球という大きな生命の表面に間借りさせてもらっているにすぎないのだということを思い起こさせてくれる。
いろいろな層の、さまざまなスケールの生物が息づいていた。人が何もしなくても、毎朝太陽が昇り、夜空の瞬きが夜ごとに星座を編むのと同じように、人為の手の届かない遥かなるおおきな仕組みがめぐっていることを感じた。その循環は地球の代謝のようにも彼には思われた。
もちろん、彼の頭に浮かんだ感想はそれだけではなかった。
これらの景色は、数年前の震災がどれだけ深く痛ましい傷痕を人々の生活と心に残していったか、そうして当たり前だった平穏な日々が津波に流し去られて以来、人々がこの地に戻ることもかなわないままにどれだけ多くの歳月が無慈悲に過ぎていったかをも物語っている。
どんな映像や文章よりも、それはより直接的に彼の五感に訴えかけてくるのだった。
癒えきらない傷口を辿ってもっと遠くまで足を伸ばせば、
手つかずのままの瓦礫の下に置き去りにされた弔われていない人骨や、禁を犯してでも別れた人の痕跡を見つけようとする生存者の姿を見つけることもあるのかもしれない。彼はそれらの人々を思うと、胸に小さな痛みを覚えはした。しかし、見たことも会ったこともない人間に対してはそれ以上の具体的な思いを抱けなかった。
むしろ、誰からも読まれずに朽ちるていく本の方が、彼の胸に痛みを起こした。
いったい何千、何万ページの文字がせっかく印刷されて生を受けたのに、つとめを果たせないままに色あせていってしまうのだろう。
もう、ほとんどの本はすっかり黄ばんだり皺ができていたりしていて、ため込んだ英知をちょっと読み取りにくくさせていた。宝飾品店では目もくれないでさっそうと後にしてきた彼だが図鑑という宝の山には指先まで喉からでかかっていた。
が、やめた。
それにはもちろん彼の道徳的な倫理観も働いたが、それよりも彼の廃墟に対する嗜好がそうさせたのだった。
ここの美しさの正体は人為を離れたところにあるのだ。それを知っていながらこの光景に手を加えるというのは、自分からせっかく見つけた美しさを台無しにすることにほかならない。
ここは、きっとこのままが一番いい。
だから彼は決してこの書店にはなにも持ち込まないし、ここから持ち去ることもしない。
つまるところ、他の人間が被災地と呼ぶこの場所ですら彼にとっては、日常から逃れられる避難場所であり、居心地のいい廃墟でしかなかった。彼は目の前に居ない人間のために真心によって悲しみ、祈りたい気持ちになれるほど純粋で思いやりのある人間ではなかった。
それは修学旅行として訪れた原爆資料館を見て回るときの感覚に似ていた。
それはもうすでに終わった過去として彼の目に映った。自分とは切り離された関係の無い過去、自分が生きるわけでもない時代の自分ではない誰かの人生。その後、暗黙のうちに求められるままに歯の浮くほど高尚な平和への祈りを淡々と書き並べた感想を提出したし、それと似たような体験はそれ以前にもそれ以後にもたくさんあった。
直視しがたいまでに輝かしく、虚しいほどに遠い理想を追い求めるよりも、もっと身近で日常的で具体的な多くの事柄に彼は追われながら生活していた。
顔も名前も知らない他人に感情移入したりその人たちのために金や心を割くにはあまりにも彼はひとりひとりの人間の生々しい痛みや人生の重みに対して無知であったし、何よりも自分の生活圏外で起こるすべての出来事に対して鈍感だった。
自分自身の悲しみに蓋をして、自らに課した役割に没頭することでしか過酷な現実を生きることができない彼は、生まれ落ちた時から負っている癒えきらない傷のために汚れたフィルター越しにしか世界をその目に映すことが出来ないと信じ込んでいた。その分、自分と直接的に関わらない人間に対する善意や共感をつい失いがちになった。
言い換えれば、目の前にいるわけでもない不特定多数の人に降りかかった悲劇を我がことのように共感するために必要なものが彼の認識には欠けていた。もちろん廃墟を彷徨っているうちに悲しくなることはあった。
あったけれども、多くの場合は蓋をしている彼自身の過去が廃墟を目の前にしてうずく場合であった。あるいは、他人の傷痕を見ても自分がその人のために悲しむことも出来ないほどに
汚れてしまったことを思い知り、欠落した純粋さのために悲しい気分になるのであった。
彼はあくまでも、感傷に浸り酔いしれることだけを望んでいた。
自分自身の過去や他人の悲しみに蓋をしたままで、まったくどうでもいい誰かの生活の名残を見つめては無意味な空想に遊んでいるひとときだけが、現実に疲れて倦んだ彼の心を慰めるのだった。
なにも直視しないままに、淡い絵空事に浮かぶびながら時の無常を感じる。
それだけでよかった。