3-3:廃 墟《次々と起こるイレギュラー》
* * *
読書は扉をノックする音で中断された。
「はい、今行きます」
返事をしてから彼は席を立ってドアに向かう。
そして迷いなくドアノブを掴んだとき、彼はほとんど何の疑いもなく開けようとしている自分がいることに気づいて少し可笑しく思った。
(俺だって、そこそこに不用心かもしれない)
彼女の仕草がすべて嘘偽りで塗り固められた演技じゃないとも限らない。それなのに彼はついこの瞬間まで、そんなことをほんの少しも疑ってすらいなかったのだ。
なんにせよ、もう鍵は渡してあんな言葉をかけた手前、もういまさらこだわるのも馬鹿らしいと彼は潔くドアを開けた。
すると、すぐそこに彼女の顔があってお互い驚く。
「わ、びっくりした」
「あ、すみません。大丈夫ですか。」
「いえ、こちらこそすみません」
彼は「それで、なんの御用ですか」とききかけてやめる。あんまり急かすのも悪いし、せかさなくても向こうから話してくれるだろう。
彼が彼女の言葉を待って見つめると、彼女もそれで自分の用事を思い出したらしく、
「あ、そうだ。ピアノ、弾いてもいいですか?」
ピアノ――ああ、あの屋上のピアノのことか。
「もちろん構いません。といっても、この建物もあのピアノも俺のものでもないですけど」
そう言って彼は微笑む。
彼はよくこの手の笑顔を多用する人間だった。あらゆる面倒を省くために、隠さなければならないいろいろな感情をごまかすために。
それでも彼女は「ありがとうございます」とつられて屈託なく笑う。さっき入り口で言いかけた用件とはこのことだったのかと彼はひとりで納得していると、しかし、彼女は妙なことを言い出した。
「それにしても、樹くんもピアノに詳しいんですね」
「え?」
当然、大きな違和感を覚えた。
「あ、すみません。実は昨日、あのあとちょっと興味がわいちゃって。少しだけピアノ弾いてしまって……」
彼は話がずれているとすぐに気づいた。
「それは、全然かまいません。俺が気になったのは、その、俺がピアノに詳しいというのは、どういう……?」
彼は中学時代の音楽のテストのために徹夜で暗記した五線譜の読み方を、テストが終わるやいなやすっかり忘れ去るほど音楽の素養に乏しい。
「それは、えっと」
当の彼女も自分の発言の何が彼の予想外にあったのかわからないまま、できるだけ慎重かつ正直に言葉を選びながら事情を伝えてくれる。
「昨日、試しにピアノを弾いてみたときに、すごく澄んだ音がしてたんです。もう、弦の一本一本まで磨き上げられているんだろうなっていう。
すっごく大切にお手入れされているっていうのは、もう一目見て「あ」ってわかるくらいだったんですけど。でもやっぱり実際に弾いてみたら見た目以上にものすごくて。ピアノそのもののスペックもあるとは思うんですけど、音触の感じからして、すごく行き届いて丁寧な調律をしてるんだろうなあって私でもわかるくらいで」
彼女はここでいったん言葉を切って、敬意のこもった眼差しで一度彼を見上げる。
「だから、大切に使ってるんだろうなあって、そういう意味でした。
あのピアノって一般的なピアノと違って木材をほとんど使ってないのに。しかも、あんな場所においてあるのに万全に維持できるのって本当にすごいことだと思います」
――なるほど。彼女の情熱を内に秘めた説明を聞いてふたつのことがわかった。
ひとつは彼女自身が相当なピアノが好きで「詳しい」だろうということ。もうひとつは、現在自分がなにかひどく間違った買いかぶられ方をしているということ。
彼は彼女に過剰に気を遣わせたことが申し訳なくなり、気が咎める思いがした。
「なるほど、そういうことだったんですね。教えてくれてありがとうごさいます」
そしてその正直な申し出に報いるためにも自分の疑問も正直に伝えることにした。
「それで、さっき俺がどうして驚いていたかっていうとですね――」
はい、と彼女は神妙な顔で続きを待つ。
「俺はあのピアノを弾いたこともなければ、そもそも調律なんてこともまったく身に覚えがないんです」
「そう、なんですか?……」
頷く。彼女は目を丸くする。
無理もない。俺自身だって驚いている。
ただ、彼女は驚いているといっても初対面のときほど、あの貧血を起こして気を失うんじゃないかというほどの青ざめようではなかったが。
(やれやれ。どうしてこうもイレギュラーが続くのか)
多少げんなりはしているが、やっぱりできることはひとつだけだろう。
「とりあえず、一緒に見に行ってみましょう」
「え?」
「その、摩訶不思議なピアノをですよ」
彼は部屋の外に出るなりさっさと鍵をかけると、ずんずん階段をのぼっていく。けれども後ろに残した彼女が呆気にとられているので、
「どうかしましたか?」
と聞いてみると、
「あ、いえ。あたしも行きます」
後ろから慌てた足音がついてくる。