3-2:廃 墟《新しい隣人と挨拶》
◇ ◇ ◇
その日の学校も、見計らったように昼休みに登校してきた〈イケメン〉に弁当をつまみ食いされながら〈グルメ〉との料理談義に花を咲かせてあとはただ無心に授業を受けている内に過ぎていった。
そうして放課後。
夜を待ちわびた夜行生物が俺の時間がきたと言わんばかりに巣を出るように彼も意気揚々と学校を後にして廃墟へと向かう。
朽ちかけた階段を上る彼の頭には、当然この2日間で立て続けに顔を合わせた人物の顔が思い浮かんでいた。
(今日も〈希〉さんは来るんだろうか)
馬鹿言え、さすがに3日連続では来ないだろう。誰にだってそれなりの予定というのがあるものだ。彼女は彼のひいき目を抜きにしても相当整った顔立ちをしているし、そこら中の男がきっと彼女を放っておかないに決まっている。
と、たかをくくっていたのだが。
(・・・・・・やっぱりいる)
なにをどう理屈で自分をごまかそうとしてもごまかしきれない気配を感じる。そしてそれは頭上から彼を注視する視線としか思われなかった。 一瞬、気をとられて足をとめたが、彼はあえて気づかないふりをしてそのまま進んだ。別に挨拶をされたわけでもないので無視したことにはならないはずである。
鍵を取り出してドアを開ける。そのままドアの向こうに広がる一人きりの自由な時間を満喫しようと足を踏み出すと、
「あ、あの・・・・」
頭の上から声が降ってきた。
彼が声に呼ばれるまま素直に顔を上げると、階段の手すりに半分隠れて、半分身を乗り出した希の姿があった。その姿は木々の陰に隠れる小動物を思わせた。たぶん、足音が聞こえてきてからああして来訪者を確認しようとしている・・・・・つもりなのだろう。
(相変わらず不用心だなあ・・・)
俺じゃなかったらどうするつもりだったんだろう。
あるいは、街の生活に興味を持って城から抜け出した世間知らずのお姫様か。押さえられない好奇心に心躍らせて出てきたはいいもののいざ城内と勝手の違う市井に身を置くやいなやどう振る舞うべきかを見失う。
「その・・・こんにちは」
昨日の余裕はどこへやら。今度は自信なさげにぼそぼそと声を出す。一体どれだけたくさんの表情を持っているのか。
彼もとりえず「こんにちは」と挨拶を返す。
彼女も顔を半分だけ覗かせた姿勢で長くつややかな黒髪を押さえながら、ぺこりと頭を下げる。ばつが悪そうな様子を見せながらも挨拶は大事にするみたいだ。
一昨日のようなこわばった顔と、昨日のような社交的な顔を思い出しながら
彼はそれぞれの彼女を頭の中で見比べてみた。
「あ、あの、改めまして、よろしくお願いします」
今日の彼女は、しきりに照れくさそうなそぶりを見せながらおどおどしている。
「こちらこそよろしくお願いします」
・・・無害そうだから構わないのだけれど。そんな、入学したてで部活動見学に来た一年生のように恐縮しなくてもいいんじゃないだろうか。
鍵を開けて中に入ろうとするが、まだ視線を感じる。仕方なく振り返って
「あの・・・、何か?」
できるだけ相手を不要に刺激するまいと意識すると、こちらまで困ったような声色になってしまった。
「あ、いえ、別に・・・」
消え入りそうな声で、というより消え入りたそうにそう答えるので、じゃあもうどうしようもない、と彼は結局部屋に入った。
ドアを閉めるやいなや、彼はほとんど自動的にまっすぐ鉢植えのある窓辺へ向かう。
鉢植えの土の湿り具合を指で触れながら確認する。まだ少し湿っていた。一昨日に水をやったばかりなのでそこまで急いで与える必要もないだろう。人が手を掛ける植物が枯れる最大の原因は水のやり過ぎによる根腐れだなのだ。過ぎたるはなお及ばざるがごとし、過保護はかえってためにならない。
(〈樹〉、か・・・)
彼女がつけてくれた名前を反芻する。さっきの態度は少し冷たすぎたかもしれない。
(なんだか予想外のことになってきた)
廃墟での日課をすませ、窓辺のソファに腰かけて一息つく。落ち着いた部屋の中で、改めて今日の彼女の様子について考えてみる。
もしかしたら、彼があのあと自分の大胆でキザな言葉に赤面して夜中に布団でのたうちまわったのと同じくらいの自分に対するアイタタタな気持を彼女も味わったのだろうか。
彼女もあの場でのふるまいをいつもの自分とは違うもののように感じて、どうしてあんなことを言ってしまったんだろうと考え込んで、十分に頭を冷やしたらとてつもない羞恥心に襲われた。あり得ない話でもない。
(だったら、どうしてそうまでしてここにこだわるんだろう)
そんなのは彼としても人に言えることではないが。まったく正体のつかめない隣人がいて、
何もなければそれに越したことはなし。ただ、何かあったら――そのときはそのときだろう。
根拠はないけれど、彼には彼女がそこまで警戒を要するほど危険な人物であるようには思われなかった。あるいは、ただの願望かも知れないが。
それにしても。
(なんでここに来てまでこうも他人のことを考えてるんだかなあ)
彼は改めて、1年以上過ごしている室内を見渡した。
ちょうど今から1年と少し前のことだ。中学校の卒業式の日の帰りにこの《ウォーターフロントガーデン》を見つけた彼は、一目でこの建物の何から何までを気にいった。コンクリート特有のよそよそしさも、使い古された壁の染みも放置された長い年月が積もらせた塵や埃もまるで統一性のない調度品たちが漂わせるなんともいえない調和された雰囲気も。
実際、こうして眺めている今ですら意味がわからない組み合わせだ。
そこにあるのは、ガラスの欠けた窓。ひび割れた壁にスプレーで描かれた落書き。革張りのソファ。木目の柔らかくて優しい雰囲気の本棚。それだけではない。この部屋に溢れているのは電気も通っていないのにどうしてもちこんだのかもわからないスロット台やらすっかり埃で覆われてしまったローテーブルや、そういった雑多なものばかりだ。
なんの役に立つかも意味があるのかもわからない、端から見ればガラクタとしか映らないそれら。おそらく彼よりも前にここを利用していた顔も名前も知らない誰かによって宝物のように運び込まれたのだろう。
そうして彼はそれらの無駄や無意味さがたまらなく好きなのだった。
もしかすると、その目的や意味や効率から解放された自由というのは誰からも役割を与えられない淋しさと紙一重でもあるのかもしれない。けれど、そうだとしても、自分が自分でいることに疲れてしまった彼にとってはなくてはならない癒やしだった。
この廃墟にあるすべてが、彼の錆び付いた感性に親しみ深く馴染むのだった。
だからこそ、この廃墟とここで過ごす平穏なひとときは、かけがえのないもので、なんとしても守り抜きたいものだあった。
だからこそ、もし彼女が彼女なりにこの廃墟を気に入ってここに居ることを望むのなら、その想いは彼にとって無碍にできないものでもあった。たとえその動機が彼とは違うものであったとしても。
(もともと俺の私有地でもないから、俺が決めていいことじゃないだろうけど)
これ以上は考えたところで仕方がない。なるようになるだろう。
彼はいつものように鞄の中から図鑑を取り出し、膝の上に置いてめくり始めた。




