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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月11日
11/106

3-1:学 校《迷える子羊と美食の熊》


  ◇  ◇  ◇


 めまぐるしい出来事に振り回されたせいか、昨晩は珍しくよく眠れた。

 もちろん次の日は朝から〈不良〉と〈ガリ勉〉が口論をして、〈専門家〉がドブに棲む不機嫌なブルドックのような顔で仲裁にはいっていた。それを横目に玄関を出て、近隣住民の見下した同情と好奇の入り交じった視線を浴びることになるまでが、彼の通学日課だった。


 だから、電車の中はいるときだけ少し気が楽になった。

 満員電車というのは、言うまでもなく彼を辟易させるのに十分な人混みであり、常日頃は道ばたに吐き捨てられたガムより避けて通りたいものでもあった。

 けれど「可愛そうな親と暮らせない子」という悪意のない害悪をさんざんに浴びせられたあとの彼にとっては、物のように箱の中にぎゅうぎゅうに押し詰められて電車に運搬されるときの、その他大勢の中の一人でしかないという感覚がありがたかった。かえって一高校生という肩書き以外を背負わずにすむ人混みはある種の醜い偽善からの隠れ蓑のようなものでもあった。 それと同時に。そういった逆説によってしか人混みを好きになれない自分をどこかで虚しく思う気持ちが根底に漂っていた。


 そんな彼にもささやかな幸運が訪れた。

 ちょうど目の前の席が空いたのだった。学校まではそれなりに距離もあり、迷わず席に着いたところまではよかったが労せずして手に入れたものは、去りやすいものでもあるらしい。

「・・・・・・・」

 ちょうど真ん前に年配の男性が立っているのだ。

 けれど、別にこちらをじろじろ威圧してきたり、さも譲って欲しそうに窺ったりそういうことはまったくない。まったくないけれども、彼としては気になって仕方がない。その男性はひょろひょろした手足で吊革を掴んでいるが電車の加速や停車のたびに頼りなく揺れるので、それを見る彼の心も揺れる。

 別にここは優先席でもないので彼にも座る権利はあるのだろうが――

(・・・・・・なんとかして席を譲ってしまいたい)

 それはその男性のためなどでは断じてない。

 いくら厚かましく生き恥をさらしている彼とはいえそこまで傲慢ではない。単純に、このままでは彼としては落ち着かないからさっさと楽になりたいのだった。

 とはいえ、ことはそう簡単でもない。

 まず、「どうぞ」などという言葉を添えて席を立つのは彼にとっては御法度だった。この言葉は人によっては「年寄り扱いされた」と受け取られるためこちらの意図とは関わりなく相手に不快感を与えてしまう恐れがある。コミュニケーションとは受取手あってのことであるため、できるだけ穏便に席を離れるためにもこの案は却下だった。 

 それだけではない。

 もしこの男性があと1駅か2駅で降りるとか、健康のためにとか何らかの理由があって立っているとしても、こちらがさも親切そうに「どうぞ」なんて悪気なく言ってしまうことによって相手にかえって気を遣わせてしまうことになるかも知れない。

 他人の気を煩わせることは彼の本意ではない。

 さらに。

 もし上2つの条件が結果的になんなくクリアされたとしても周囲の人間からは八方美人だの偽善者だのと揶揄される危険もある。そんなことまでいちいち気にしてたら生きていけないとは知っているけれど、かつてそれで痛い目を見たことがある彼としては痛む古傷をかばう意味においても、やはり可能な限り地味にこの席を離れたかった。

(どう

したものか・・・・・・)

 と、彼はそこで天啓を授かったかのようにひらめいた。

 そうだ、なにも「席を譲る」必要などなかったのだ。なんとなく気が咎める自分に免罪符を与えるにはただ「席を離れる」だけで十分だったのだ。

 黙って席を離れれば、どこにも押しつけがましいところはないから座るかどうかの選択をはいかなる干渉にもさらされない自由な形で男性の手にゆだねられるのだ。これは彼にとっては理想的な解決策だった。

 が。

 よし、じゃあ早速立とうと思い立っても、この満員電車内においては口で言うほど易しくもない。おびただしくせめぎ合う人と人が互いに圧迫し合って誰もが窮屈な思いを強いられているのだ。誰かが悪いというわけでもないのに。おかげで席を理由なく立つこともままならない。社会の縮図ここに極まれり・・・・・・と彼がぼやきたくなりながらも打開策を考えていると、ドア付近に見知ったクラスメイトの姿を見つけた。


(あれは、どう見てもクマちゃんだ)

 彼の視線の先には、窮屈な社内において誰よりも肩身が狭そうに身を縮こまらせている〈グルメ〉の姿があった。その丸みを帯びた見る者に安心感を与えるボディとお年寄りにも子どもにも大人気間違いなしな温和な雰囲気をたたえる表情から名字をもじってクマちゃんの愛称で親しまれている熊谷優太その人である。

 彼がクラスメイトで特に交流をもっているのが、主にさぼりがちな〈イケメン〉とこの〈グルメ〉の2人だった。もちろん、学校の外で会ったことはただの一度たりともない。

「おはよう、クマちゃん」

 駅で停車し、何人かの人混みがはき出されたのに乗じて、彼も標的に接近した。

「あ。〈罪人〉くん、おはよう」

 挨拶に応じて、あの癒やしの笑顔を彼に与えてくれる。

 ちなみに、ふだんはテディベアのような思わず抱きついたり撫でたくなる愛らしいオーラを無意識に発している〈グルメ〉であるが、唯一食事を粗末にする不届き者を前にすると、怒れるグリズリーとしての一面をむき出しにして正義の鉄槌をくだす――という都市伝説は彼がついさっき頭の中でこしらえた妄想である。

「いい偶然だ。おんなじ電車だったなんて」

「本当だねえ。今日は天気もいいし、いいことづくしだ」

「まったくだ」

「ところで、おじいちゃんに席を譲ってあげるなんて優しいんだねえ」

「え?」

「だって、さっきから落ち着かなさそうにきょろきょろしてたじゃない」

(・・・・・・恥ずかしいところを見られたな。)

「俺ってそんなにわかりやすい?」

「うん。ふだんは結構難しい顔してるけど、ときどき」

 見られたのが〈グルメ〉だったのは、不幸中の幸いだったと思おう。 独特の間延びした語尾からを聞いていると、なんだかひとりだけ違う時間の流れを生きているんじゃないかと思ってしまうほどのんびりしていそうに見える〈グルメ〉に気づかれるとは、まさか思いもよらなかったけれど。それだけ彼が偏見を持ってしまっていたということだろう。

 それとも一年来の付き合いというもののなせるわざなのか。

 彼は気分を変えるべく、話題を変えることにした。

「そうそう。クマちゃんは今日の弁当はなにを作ってきたの?」

「ふふ~、朝ご飯食べたばっかりなのにもうお昼の話をするなんて〈罪人〉君も意外と食いしん坊だなあ」

「それは互い様」

「今日は中華に挑戦してみたんだ~。中身はお昼休みに入ってからのお楽しみ。〈罪人〉君は?」

「今日は建寛が作ったんだ。なかなかうまかったよ」

「建寛君はいつも食べてもハズレのない安定感があるよねえ」

「どんなレシピでも高いクオリティで再現するもんな。

 ふだんちょちょっと適当にやるところも、あいつみたいにグラム単位できっちり正しく作るのがやっぱりいいのかな」

 お互い共通の話題があるというのはありがたいことだ。あっとういう間に時間が過ぎていって、彼のなかにある憂鬱はいつのまにかまだ見ぬ美食の空想によって吹き払われていた。



  

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