第十一章・3
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灯は目を覚ました。
うっすら開いた目に入ってくるのは、もう見慣れた座敷部屋の畳。
灯の好きな着物の香りがすぐ傍にある。
鈴とあの契約を交わして、もう一年が経った。
鈴はやはり、灯がどんなに強請っても必要以上に眠りをくれることはない。
それでもタイミングを見ては、必要でないときでも灯に眠りをくれることは、たびたびある。起きていたいのだという口実をつけて。
灯はもう一度目を閉じた。
この眠りから覚めた直後の感覚が、灯は好きだった。目覚めるといつも鈴が必ずそこにいる。その安心感の中、灯が眠りの余韻を楽しんでいると、
「起きた?」
頭上から鈴の声がした。
顔だけを少し上に傾けると、そこに鈴の顔がある。
「おはよう」
灯に膝枕をしている状態のまま、鈴は言った。
「おはよう……ございます」
灯は答えたが、まだこのまま眠りの余韻を味わっていたい。眠りそのものにも、この能力にもだいぶ慣れた。
眠りを取る能力について分かった事は、触れるのは体のどこでもいいということ。ただし服の上からだとダメ。後は、鈴がすでに眠ってしまった後では取れないということ。
それと取る眠りの量は、灯の方で多少調節できるということ。一時間だけ欲しいと思ったなら、ほぼそれだけの時間を取ることができるようだ。
今回、灯が取ったのは二時間ほどのはずなのだが、なんだかずいぶんと長く眠っていたような気がする。
「灯」
起きようとしない灯に鈴がまた呼びかける。
「足、痺れて動かないんだけど」
あら、それは大変。
「ついでに、トイレに行きたくなって来た」
真面目な様子で少し困ったように言った鈴の言葉に、灯は吹き出しそうになりながら、やっと鈴の膝を解放する。
「おはよう、灯ちゃん。鈴さん、平気ですか?」
大酉が入って来て、机の上の湯呑みを片付けながら言った。
そして痺れているという足をちょいとつつく。
「あ、触んないで。触んないで」
痺れがほどけてきたのか、耐えるような顔で鈴は足を自分の方へと引き寄せ、大酉の些細な悪戯から逃れようとする。
大酉は笑って盆に湯呑みを載せて、座敷部屋から出て行った。灯は盆の上に二つの湯呑みを見た。鈴の湯呑みは机の上にまだある。
「誰か来てたんですか?」
「うん。ちょっとね」
足を摩りながら答える鈴は、誰が尋ねて来たのかは言わない。
それでも、この部屋で灯がいるのに、ゆっくりと茶を飲んで行く奴なんて限られている。一人は霧藤で間違いないだろう。
もう一人は……あの馬鹿刑事か。
鈴は灯が眠っている間は、いつも灯の傍にいる。目が覚めた時も必ずそこには鈴がいた。
別に眠っている間どこかに行っていても、灯は眠っていて分からないのだから、自由にすればいいのにとも思う。
それでも鈴は灯の傍にいてくれる。おそらく、寝ている間ずっと。
それがすごく嬉しい。守られている気がして鈴の傍だと、かつて鈴が言っていた眠りの恐さのことなど、忘れてしまいそうになる。
だから自分も鈴が寝てしまっている間は、できる限り傍にいたいと思う。
あれから、鈴も人に触れられることにだいぶ慣れてきたようだが、寝ている間の鈴に誰も触れさせたりしたくない。
鈴はようやく痺れが取れて来たらしい足を、まだ少し庇うように立ち上がった。そして用を足しに行くのか、そろりそろりと座敷部屋の戸の方へと歩いて行く。
戸を開いた所で、思い出したように鈴は灯を振り返った。
「夢は見た?」
鈴は灯が目覚めると、よくこの質問をする。
相変わらず灯が自分の悪夢を見るかもしれないことを、鈴は警戒しているらしい。
「いいえ。見ていません」
にっこり笑って灯が答えると、鈴はわずかに安堵したような表情になり、部屋を出て行った。
灯はまだ夢らしきものを見た事はない。
でも、可能なら鈴を苦しめる、それでいて鈴が必要だというその悪夢を知りたいと思う。
それを知ったところで、自分に何ができるというわけではないのかもしれないが。
灯は夢を見ない。
夢というものが儚く、すぐに消えてしまう幻のような物なのだとしたら、自分にとって今、この鈴といる現実こそが、まるで幸せな夢ようだと思う。
そして願うのだ。
この夢が覚めてしまわないように。
少しでも……ほんの少しでも、長く続きますようにと。
【夢わたり《其の参》・完】
お読みいただき、ありがとうございました。
【夢わたり・其の参】はここで終わりです。
お話は【夢わたり・其の四】に続きます。