第六章・2
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灯は大きく息を吸い込んだ。
瞼が少し気怠く重いため、閉じたままでいることにする。
何か、いい香りがした。気持ちが安らぐ懐かしいような、優しく、上品で心地よい香り。
なんて、いい気持ちなんだろう。
灯は手探りでその香りをたぐり寄せると、柔かな感触に顔を埋めた。
「目が覚めた?」
頭上からした声に、重たかった瞼を開くと、そこには着物姿の朝日奈 鈴がいて、自分を見下ろしていた。灯は畳の上、座布団を枕に横になっていた。
「おはよう」
鈴はニコリともせず言った。
灯が横になったままぼんやりとしていると、
「目が覚めて、おはようと言われたら、おはようと返すのが礼儀だ」
少し機嫌の悪くなった声で言った鈴に
「……おはよう」
灯は初めて本当の意味でのその言葉を口にした。
「気分は?」
「……平気」
「起きられる?」
できればもう少しこうしていたい。
「もうあれから二時間経ったんだけど」
そんなに。
渋々、灯は体を起こした。
「……それ返してもらえるかな」
言われてみると、自分の体には鈴の物と思われる紺色の羽織が掛けられていて、灯はそれを握りしめていた。いい香りの元はこれだったらしい。
なんとなく、手放したくなかったが、そういう訳にもいかないだろう。
灯が羽織を返すと、鈴はそれに袖を通した。
「本当に眠りを取れるみたいだね」
鈴は言った。
「……そうみたい」
「いきなり、ああいうことをされると、すごく迷惑だ」
「でも、もう一度、眠りをちょうだいって言っても、あなた、きっと拒否するでしょう」
会う事すら拒んだのだ。
「そうだね」
やっぱり。
「まさか、こんな風にまた会えるとは思わなかったわ」
そしてふと気づく。
「病院で、私がこの前の客だって、気づいてたの?」
「うん。御簾のこちら側からは、そっちが意外とよく見えるから。印象的な客だったし。……眠れないって聞いて、あんな言い方しなきゃ良かったと思った。まあ、結局また言い合いになったけど」
やはり、悪い人間ではなさそうだが。
「あのときはくれたじゃない」
「本当に取られるなんて、思うわけないじゃないか」
それは余りに理不尽な気がして、胸がちくちくと痛む。
「それじゃあ、なんであんなこと言ったのよっ」
「……俺も君も、互いにどうしょうもないんだって……そんなこと、できるわけないじゃないかって、あの場を笑って、馬鹿みたいだって言い合えれば、それでいいと思ったんだ」
そこまで言って、鈴は視線を落とす。
「ごめん」
素直に謝られ、それ以上は追求できなくなる。
「あなたは眠りたくないんじゃなかったの」
「うん。でも分かった。この眠りは、俺には必要な物なんだ。おかげで気がついたよ」
おかげなんて言われても、ちっとも嬉しくはない。
「夢は見た?」
今度は鈴が質問をしてきて、灯は首を振った。
「どうしてそんなこと気にするの? 霧藤も気にしてたけど」
「なぜ夢を見るかには色々な説がある。忘れるためとか、記憶を整理するためとか。夢を見る行為というのは脳の活動で、愁成が気にするのは、まあ、その辺の理由だ」
「愁成?」
「……霧藤愁成」
口にするのが嫌とでもいうように、苦い顔と声で鈴はそのフルネームを言った。そういえば霧藤はそんな名前だった。
「あなたは何を気にしてるの」
「君が取ったのが、俺の眠りだから。もしかしたら、見る夢も俺の物かもしれない」
それに何か問題があるのだろうか。
「あなたはどんな夢を見てるの」
「悪夢」
ひどく簡単で呆気ない説明に、そういえば、そんな単語もあったのだと思う。
「俺の夢は、いつも例外なく悪夢だよ」
例外なく。
絶対に悪夢しか見ないということなど、本当にあるのだろうか。ただ灯に眠りを与えたくなくて、そんなことを言っているのではないかという、疑惑が浮かんでくる。
「俺の眠りで眠る君が、それを見ないとも限らない」
友人たちの気楽な夢の話しか知らない灯には、逆にそれがどんなものなのか、興味が沸いてくる。
「大丈夫よ、そんなの」
「だから、君は眠りの恐さを知らないって言ってるんだ。というか、知らない人が多すぎる。他人と肩を寄せ合う満員電車の中、平気で眠れるなんて平和ぼけしてるとしか思えない。野生のサルだって眠るのに木の上を選ぶくらいは、するっていうのに」
一気に機嫌を悪くした様子の鈴は、かったるそうに立ち上がる。
「俺は君に、もう俺の眠りを取ってもらうつもりはない」
灯の方を見もせずに言うと、鈴は座敷部屋の戸を開けた。
「大酉、お客様がお帰りだ」
勝手にそんなことを言う。帰れということか。
「はい」
大酉と呼ばれた店主が、灯の靴を持ってくる。乾かしてくれていたらしい。
居座るわけにもいかなそうだ。やむをえない。灯は座敷部屋を出て靴を履く。その目の前に、代金を支払うトレーが差し出される。
「千五百円になります」
大酉がにっこりと笑顔で言った。
「……高い」
戸口の柱に腕を組んで寄りかかっている鈴を睨むと、一段高くなっているそこから、鈴は灯を見下ろし言った。
「格安だ。それなら、ぼったくりとも言える、愁成のくだらないカウンセリングをやめることを、お薦めする」
灯は財布から千五百円取り出すと、トレーに叩きつけるようにして支払い、店を出た。