第六章・1
第六章
―1―
灯は雨の中を歩いていた。
いったいどうやって、診療所を出てきたのか覚えていない。
もちろん、あの少年……いや、実際は少年ではないのか。朝日奈 鈴に比べれば、自分の眠れないなどという悩みは、ちっぽけすぎるものかもしれない。
でも、他人の不幸を天秤にかけ、今の自分の幸せに感謝するなんて器用ことは、灯にはできなかった。
雨は傘を差す灯の手を冷たく濡らし、秋も深まったこの季節、容赦なく灯の体温を奪って行った。
アスファルトを叩き、跳ねる水しぶきに白くかすむ視界の中、灯は見覚えのある道に来て足を止めた。
カラン
雨の音にかき消されそうなほど、小さく鳴ったドアベルに、店主はカウンターを拭いていた手を止めて、ドアを振り返った。
「あれ、お嬢さんは……」
灯の顔を見て、店主の顔が曇る。
「今日はちゃんとお金払うわよ」
傘を畳むと、湿って頬に張り付いた髪を指で払いながら、灯は言った。
夢占の店、蜃気楼には今、灯の他に客はいない。
「はあ……少々お待ちください」
店主が前回と同じく、座敷部屋の戸を少しだけ開けると、中にいるであろう占い師の様子を伺う。
「失礼します。はい、お一人みえたんですが。その……以前来たお嬢さんで。はい。ほら、あの時の……」
なにやら少し時間がかかる。
まあ、前回あんな出て行き方をしたのだから、仕方が無いのかもしれないが。
自分でもどうして、ここに来たのかと思う。ただ、なんとなく、今度は嘘はなしで、あの占い師に話を聞きたいと思ったのだ。
「いいんですか? 分かりました」
話を終えて、店主が灯を手招く。
「お待たせしました。お会いになるそうです。どうぞ」
灯は歩くたび水音のする靴を脱いで、板の間に上がった。
「靴下、脱いでもいい? 気持ち悪くって」
「ああ、かまわないですよ」
店主は笑うと、タオルを持って来てくれた。
座敷部屋に入ると、あの独特のお香の香りが鼻を抜ける。素足に滑らかな畳の感触が心地いい。
「何か夢を見たんですか」
御簾の向こうで、この前使った占いのカードをきりながら占い師が言った。
その前に座ると、まず、灯は気になっていたことを訊くことにする。
「この前、なんで私が嘘を言っていると?」
「嘘じゃなかったんですか」
「当たりよ。あのとき話した夢は、私のじゃない」
「じゃあ、こちらも正直に言いますが、あれは占いじゃない。あなたが引いた札も関係ない」
カードを机の上に置くと、それを机の端に除けてしまう。
「あなたの話し方、目の動き、仕草を見て、嘘だと感じただけです」
「なんだ、いんちきじゃない」
「心外ですね。占いなんかより、科学的でいいでしょう? 人は嘘をつくとき、そちらに集中するため、体の動きが制限される。顔、特に口元や鼻をよく触る。言葉に対して、顔での感情表現に遅れが生じる。あとは目の動き。どれも有名な話だ」
占い師のくせに、占いなんかなどと言ってしまうとは……変な占い師だ。
「それで、今日は何か夢を見たんですか」
「変な奴だと思われるかもしれないけど……私、夢は見ないの。見たこともない」
占い師の反応がなく、灯は続けた。
「それどころか、眠ることもできない」
「一度も?」
「……一度だけ。この前、一度だけ眠った」
「それは、あなたにとってどんな物だったんですか」
灯はあの時の感覚を思い出すように、一度目を閉じる。
「よく……覚えてない。寝ている間のことは。でも、目が覚めたときは、すごく気分が良かった。頭もスッキリしてたし、体の調子が良くて……まるで、薬でもやったみたい」
「……やったことがあるんですか」
占い師の声がやや咎めるように低くなる。
「ただの例えよ。でも、だとしたらこっちは副作用もなくて安全ね」
「そんなことはない。眠りはとても危険なものだ」
占い師の言葉が、雑になった。そのせいか、ひどく子供っぽい言葉と声に聞える。
灯はその声に聞き覚えがある気がして、眉を顰め、首を傾げた。
「眠りの恐さを知らないから、そんなことが言えるんだ」
その言葉は……。
灯は息を呑むと、衝動的に机に乗り上がり、御簾を勢い良くめくった。
驚きに丸くなった占い師の黒い瞳と目が合う。
やはり。
恰好こそ違えど、そこにいたのは、まぎれもなく、あの日会った少年、朝日奈 鈴だった。
◆◆◆◆◆◆
ガタガタン!!
座敷部屋から、普段は聞こえてくるはずのない乱暴な物音がして、店主、大酉は慌てて座敷部屋へと駆け寄った。
「鈴さん? 鈴さん、どうしました?」
閉じられた戸の外で訊くが、返事はない。
「…………失礼します」
少しためらってから、大酉は戸を開けた。
畳の上に、占い用として鈴が持っている札が、戸の前にまで散らばり広がっている。
天井の梁から吊るしている御簾は片端が外れ落ち、斜めにぶら下がってしまっていた。
「鈴さん?」
大酉は座敷に上がり、御簾の向こう側を覗く。
そこに鈴はいた。
畳の上で仰向けに、両手をお手上げ状態で転がっている。
そして、客の少女はというと、鈴の胸に頭を乗せる形で、鈴の上に覆い被さるようにして倒れていた。
少女の手には、鈴の両手首がしっかりと握られている。
「何があったんですか、鈴さん」
「……女子高生に襲われた……」
ぶすっとした顔と声で、鈴はそんな事を言う。
「……それは……羨ましいことで……」
「馬鹿なこと言ってないで、早くどかしてくれ。重い、苦しい、痛い」
自分の体勢のみっともなさが恥ずかしいのか、不機嫌な顔を少し赤らめ、急かすように言う鈴に、大酉は笑いながら、鈴を起こすのを手伝った。




